はじめに:エントロピーの基本を理解しよう
エントロピーとは、簡単に言えば「ものごとの散らばり具合」や「エネルギーの広がり方」を表す尺度です。
割れたコップが自然に元に戻らないのも、熱いコーヒーが勝手に冷めるのも、すべてエントロピーという概念で説明できるんです。
エントロピーの本質
エントロピーの本質は、物事には多くの配置の仕方がある状態を好むという自然の傾向です。
例えば、トランプを考えてみましょう。
- 完璧な順番に並べる方法:1通りだけ
- ばらばらに並べる方法:無数にある
だから、シャッフルすると自然とばらばらになるのです。
エントロピーの誕生:言葉の由来と歴史

言葉の起源
エントロピー(entropy)という言葉は、1865年にドイツの物理学者ルドルフ・クラウジウスによって作られました。
ギリシャ語の組み合わせ:
- 「en」:内側に
- 「tropē」:変化・転換
つまり「内部の変化量」という意味を込めた造語です。
重要な科学者たちの貢献
ルドルフ・クラウジウス(1822-1888)
熱機関の研究からエントロピーの概念を確立しました。
有名な言葉: 「宇宙のエネルギーは一定だが、宇宙のエントロピーは増大し続ける」
ジェームズ・クラーク・マクスウェル(1831-1879)
気体分子の運動を統計的に扱う方法を開発。エントロピーの理解に大きく貢献しました。
ルートヴィヒ・ボルツマン(1844-1906)
エントロピーと確率の関係を明らかにしました。
彼の墓石には、有名な式「S = k log W」が刻まれています。これは「エントロピーは可能な配置の数の対数に比例する」という意味です。
日常生活で見るエントロピーの例
部屋が散らかる現象
整理整頓された部屋と散らかった部屋の違いを考えてみましょう。
整理整頓された部屋:
- 物が特定の場所に置かれている
- 配置の仕方が少ない(低エントロピー)
散らかった部屋:
- 物があちこちに散らばっている
- 配置の仕方が多い(高エントロピー)
部屋を片付けるにはエネルギー(努力)が必要ですが、散らかるのは自然に起こるのです。
コーヒーが冷める理由
熱いコーヒーが冷める過程を見てみましょう。
- 最初の状態:熱エネルギーがコーヒーの中に集中(低エントロピー)
- 時間経過:熱が周りの空気に広がっていく
- 最終状態:室温と同じになる(高エントロピー)
エネルギーは集中した状態よりも、広がった状態の方が実現する方法が多いため、自然に冷めていくのです。
ミルクとコーヒーの混ざり合い
コーヒーにミルクを入れる例で考えてみましょう。
混ざる前:
- ミルクの分子とコーヒーの分子が別々に存在
- 配置パターンが限定的
混ざった後:
- 両方の分子がランダムに配置
- 配置パターンが圧倒的に多い
混ざった状態の方が、分子の配置パターンが圧倒的に多いため、一度混ざったものは自然には分離しません。
氷が溶ける過程
状態変化とエントロピーの関係:
- 固体(氷):水分子が規則正しく並ぶ(低エントロピー)
- 液体(水):分子が自由に動き回る(中エントロピー)
- 気体(水蒸気):分子が空間を飛び回る(高エントロピー)
固体→液体→気体と変化するにつれて、分子の動き方の自由度が増え、エントロピーも増大します。
熱力学第二法則:エントロピー増大の法則

基本原理
熱力学第二法則は「孤立した系のエントロピーは必ず増大するか、一定に保たれる」と述べています。
これは宇宙の基本法則の一つです。
なぜエントロピーは増えるのか
コインを使った例で理解しましょう。
5枚のコインを投げる場合:
- 全部表が出る方法:1通り
- 表3枚・裏2枚になる方法:10通り
100枚のコインを投げる場合:
- ちょうど半分ずつになる方法:約10の29乗通り
より多くの実現方法がある状態の方が、圧倒的に起こりやすいのです。
エントロピー増大の実例
身の回りの現象で確認できます:
- 熱は必ず高温から低温へ流れる(逆は起こらない)
- インクを水に垂らすと自然に広がる(集まることはない)
- 割れた卵は元に戻らない
- 香水は部屋中に広がる(一か所に集まらない)
統計力学的解釈:乱雑さと無秩序度
正確な理解
エントロピーは「乱雑さ」や「無秩序度」と説明されることがありますが、正確には「可能な配置の数」を表しています。
マクロ状態とミクロ状態
マクロ状態: 私たちが観察できる全体的な状態(温度、圧力など)
ミクロ状態: 個々の分子の詳細な配置
同じマクロ状態を実現するミクロ状態が多いほど、エントロピーは高くなります。
図書館のたとえ
わかりやすい例で考えてみましょう。
整理された図書館:
- 本がアルファベット順に並ぶ
- 配置は1通りだけ(低エントロピー)
乱雑な図書館:
- 本がランダムに置かれている
- 配置は無数にある(高エントロピー)
どちらも同じ本を持っていますが、整理された状態は1通りしかないのに対し、ランダムな配置は無数にあります。
ボルツマンの公式の意味
有名な式の解説
S = k log W
- S:エントロピー
- k:ボルツマン定数
- W:可能なミクロ状態の数
この式が教えてくれるのは、「エントロピーは可能性の数を数えている」ということです。
Wが2倍になっても、エントロピーは少ししか増えません(対数の性質)。これにより、巨大な数を扱いやすくしています。
化学反応とエントロピー変化
エントロピーが増える反応
以下の場合、エントロピーは増加します:
気体分子の数が増える反応
CaCO₃(固) → CaO(固) + CO₂(気)
物質が溶ける反応
NaCl(固) → Na⁺(水溶液) + Cl⁻(水溶液)
複雑な分子が単純になる反応
大きな分子が小さく分解される
エントロピーが減る反応
以下の場合、エントロピーは減少します:
気体分子の数が減る反応
N₂(気) + 3H₂(気) → 2NH₃(気)
沈殿ができる反応
溶液から固体が析出する
ギブズ自由エネルギーとの関係
反応の自発性を決める式
反応が自発的に進むかどうかは、以下の式で判断できます:
ΔG = ΔH – TΔS
- ΔG:ギブズ自由エネルギー変化
- ΔH:エンタルピー変化(熱の出入り)
- T:絶対温度
- ΔS:エントロピー変化
ΔGが負なら反応は自発的に進みます。
つまり、発熱反応(ΔH<0)でエントロピーが増える(ΔS>0)反応は必ず進むということです。
自発的変化の方向性
なぜ鉄はさびるのか
鉄がさびる反応を見てみましょう。
反応式:4Fe + 3O₂ → 2Fe₂O₃
この反応は大量の熱を放出し(発熱反応)、その熱が環境に広がることで全体のエントロピーが増加します。だから鉄は自然にさびていくのです。
なぜ塩は水に溶けるのか
塩の溶解を考えてみましょう。
溶ける前:
- 固体の塩は規則正しい結晶構造
溶けた後:
- イオンがばらばらに散らばる
この無秩序度の増加がエントロピーを増やし、溶解を促進します。
可逆過程と不可逆過程
可逆過程(理想的な変化)
- ゴムバンドをゆっくり伸ばして戻す
- 0℃で氷と水が共存している状態
不可逆過程(現実の変化)
- ガラスが割れる
- 熱い水と冷たい水が混ざる
- インクが水に広がる
現実のほとんどの変化は不可逆で、必ずエントロピーが増加します。
エントロピーの単位 J/K の意味

単位の解釈
ジュール毎ケルビン(J/K)という単位は、「1ケルビン温度が変わるときに、どれだけのエネルギーが散らばるか」を表しています。
具体例
氷が溶けるとき、1モルあたり約22 J/Kのエントロピーが増えます。
これは、固体から液体になることで、分子の配置の自由度が大きく増えることを意味しています。
標準エントロピーとは
定義と数値
**標準エントロピー(S°)**は、25℃、1気圧での1モルの物質のエントロピーです。
水の例
- 水(固体):41.3 J/(mol·K)
- 水(液体):70.0 J/(mol·K)
- 水(気体):188.8 J/(mol·K)
気体>液体>固体の順にエントロピーが大きいことがわかります。
温度とエントロピーの関係
温度の影響
温度が高いほど、分子の運動が激しくなり、可能な配置の数が増えるため、エントロピーも大きくなります。
熱とエントロピーの関係式
熱を加えたときのエントロピー変化:
ΔS = Q/T
同じ熱量を加えても、低温のものほどエントロピーの増加が大きいのは、もともと配置の数が少ないところに、多くの新しい配置が加わるためです。
相変化とエントロピー
固体→液体(融解)
氷が溶けるとき:
- 規則正しい結晶構造が崩れる
- 水分子が自由に動けるようになる
- エントロピーは約22 J/(mol·K)増加
液体→気体(蒸発)
水が水蒸気になるとき:
- 分子は空間を自由に飛び回れるようになる
- エントロピーは約109 J/(mol·K)も増加
気体になるときのエントロピー増加は、固体が溶けるときよりもはるかに大きいのです。
混合エントロピー
砂糖が水に溶ける理由
溶ける前:
- 砂糖の結晶は規則正しい構造
溶けた後:
- 砂糖分子は水分子の間にランダムに散らばる
この配置の可能性の増大が、溶解を自発的に進める原動力です。
気体の混合
異なる気体を混ぜると、それぞれの分子が全体の空間に広がることができるため、エントロピーが増加します。
一度混ざった気体が自然に分離しないのはこのためです。
生命現象とエントロピー
生物はなぜ秩序を保てるのか
生物は一見エントロピーの法則に反しているように見えますが、実は開放系として機能しています。
生物の戦略
- 太陽光や食物からエネルギーを取り入れる
- 体内で秩序を作り出す(タンパク質合成、DNA複製など)
- 熱や老廃物として無秩序を外に出す
結果として、生物の内部ではエントロピーが減っても、宇宙全体のエントロピーは増加しているのです。
光合成と呼吸
光合成
太陽の高品質なエネルギーを使って、二酸化炭素と水から複雑な糖を作ります。
局所的にエントロピーを減らしますが、太陽が放出する熱により全体のエントロピーは増えています。
呼吸
糖を分解してエネルギーを取り出し、二酸化炭素と水を排出します。
この過程でエントロピーが増加します。
宇宙とエントロピー:熱的死

宇宙の熱的死とは
遠い将来(10の100乗年後)、宇宙のすべての星が燃え尽き、すべてが同じ温度になると予想されています。これを熱的死と呼びます。
熱いコーヒーが室温まで冷めるように、宇宙全体も最終的には均一な温度になり、もはや何も起こらない状態になるという考えです。
ただし、これは想像を絶するほど遠い未来の話です。
情報理論におけるエントロピー
シャノンの発見
1948年、クロード・シャノンは「驚きの大きいメッセージほど情報量が多い」ことを発見しました。
例
- 「明日も太陽が昇る」→ 驚きが少ない(低エントロピー)
- 「明日雪が降る」(夏の場合)→ 驚きが大きい(高エントロピー)
この考え方は、データ圧縮技術やエラー訂正符号など、現代の情報技術の基礎となっています。
よくある誤解と正しい理解
誤解1:エントロピーは単なる「乱雑さ」
正解:エントロピーは「可能な配置の数」を数えています。見た目が乱雑でも、配置の可能性が少なければエントロピーは低いのです。
誤解2:エントロピーはどこでも必ず増える
正解:孤立系でのみ必ず増えます。生物のような開放系では、エネルギーを使って局所的にエントロピーを減らせます。
誤解3:進化はエントロピーの法則に反する
正解:地球は太陽からエネルギーを受け取る開放系です。生命の複雑化は、太陽エネルギーを使って実現されており、全体のエントロピーは増加しています。
簡単な計算例
例題1:氷が溶けるときのエントロピー変化
問題:36gの氷が0℃で溶けるとき、エントロピーはどれだけ増えるか?
解答:
- 36g ÷ 18g/mol = 2mol
- 融解熱 = 6.01 kJ/mol
- ΔS = (6010 J/mol × 2mol) ÷ 273K = 44 J/K
例題2:反応のエントロピー変化を予測
反応式:N₂(g) + 3H₂(g) → 2NH₃(g)
気体分子が4個から2個に減るので、エントロピーは減少します。
実験で確かめる方法
1. お湯と水の混合実験
準備:
- 熱い水(赤い食紅)
- 冷たい水(青い食紅)
手順:
- 熱い水を冷たい水の上にそっと重ねる
- しばらく観察する
- 最終的に紫色の均一な水になる
学び:熱は高温から低温へ流れ、一度混ざると元に戻らない(不可逆過程)
2. インクの拡散実験
準備:透明な水、インクや食紅
手順:
- 静かな水にインクを1滴落とす
- かき混ぜずに10分観察
- インクが自然に広がる様子を見る
学び:分子は自然に拡散し、エントロピーが増加する
3. ゴムバンドの温度変化
準備:輪ゴム
手順:
- ゴムを唇に当てて温度を感じる
- 急に引き伸ばして再び唇に当てる(温かく感じる)
- 急に縮めて唇に当てる(冷たく感じる)
学び:力学的エネルギーが熱エネルギーに変わる様子を体感できる
4. 塩や砂糖の溶解観察
準備:塩または砂糖、水、虫眼鏡
手順:
- 結晶を虫眼鏡で観察(規則正しい構造)
- 水に入れてかき混ぜる
- 透明な溶液になる(分子がばらばらに)
学び:秩序ある結晶が無秩序な溶液になる=エントロピー増加
まとめ:エントロピーが教えてくれること
エントロピーは、なぜ時間に向きがあるのか、なぜ物事は一方向にしか進まないのかを説明する、宇宙の基本法則です。
日常生活での応用
- 部屋は自然に散らかるが、片付けにはエネルギーが必要
- 熱いものは冷め、冷たいものは温まる
- 混ざったものは自然には分離しない
- 壊れたものは自然には直らない
生命の素晴らしさ
生物は太陽のエネルギーを巧みに利用して、エントロピーの増大に逆らって秩序を保っています。
私たちの存在自体が、エントロピーとの壮大な戦いの結果なのです。
エントロピーの重要性
エントロピーを理解することで、以下のことがわかります:
- なぜ永久機関が不可能なのか
- なぜ効率100%のエンジンが作れないのか
- 宇宙がどのように変化していくのか
これは単なる物理の法則ではなく、私たちの世界を動かす根本的な原理なのです。
コメント