本草綱目とは?中国医学の最高峰を作った男の27年間

神話・歴史・文化

「本草綱目」という名前、どこかで聞いたことはありませんか?

中国の歴史ドラマや漢方薬の話題で登場することがあるこの書物。
実は、16世紀に完成した「東洋医学の百科事典」とも呼べる大著なんです。

収録された薬の数は約1900種。
それを一人の医師が27年もの歳月をかけて書き上げました。

この記事では、本草綱目の内容から著者・李時珍の波乱の人生、そして日本への影響まで、わかりやすく解説していきます。


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本草綱目の概要

本草綱目は、中国・明代に編纂された本草学(薬物学)の書物です。
「本草」は薬の原料となる植物・動物・鉱物のこと、「綱目」は分類体系を意味します。

著者は李時珍(りじちん、1518〜1593年)。
執筆開始から完成まで27年、1578年に脱稿しました。

ただし、出版されたのは李時珍が亡くなった後の1596年。
自分の本が世に出るのを見届けられなかったのは、なんとも切ない話ですね。

本書は2011年にユネスコの「世界の記憶」に登録され、人類の貴重な文化遺産として国際的にも認められています。


本草綱目のすごさ

圧倒的なボリューム

本草綱目の規模は、当時としては破格でした。

  • 全52巻
  • 収録薬種:1892種(うち374種は李時珍が新たに追加)
  • 図版:1109枚
  • 処方:11096種
  • 総文字数:約190万字

しかも、李時珍はこれを書くために800以上の書物を参照しています。
現代のように検索エンジンがない時代、すべて手作業で調べ上げたわけです。

画期的な分類システム

本草綱目が画期的だったのは、その分類方法にあります。

従来の本草書は薬の「効能」で分類していました。
しかし李時珍は、薬の「原料」で分類し直したんです。

具体的には16部60類に分けています。

  1. 水部・火部・土部(自然物)
  2. 金石部(鉱物)
  3. 草部・穀部・菜部・果部・木部(植物)
  4. 服器部(衣服や道具)
  5. 蟲部・鱗部・介部・禽部・獣部(動物)
  6. 人部(人体由来のもの)

この配列には哲学があります。
「低いものから高いものへ」「シンプルなものから複雑なものへ」という自然の秩序に従っているんですね。

後にヨーロッパで生物分類学が発展しますが、李時珍の分類法はその先駆けとも言える体系でした。

徹底した現地調査

李時珍は机の上で本を読むだけの学者ではありませんでした。

息子と弟子を連れて各地を歩き回り、自分の目で植物を確かめ、時には自分の体で薬の効果を試しました。

農民や漁師、猟師などにも積極的に話を聞き、民間に伝わる療法も収集。
「現場に足を運ぶ」という姿勢が、本草綱目の信頼性を高めています。


著者・李時珍の生涯

医師の家に生まれて

李時珍は1518年、現在の湖北省にあたる蘄州(きしゅう)で生まれました。

祖父は「鈴医」と呼ばれる往診専門の医師。
父の李言聞も地元では名の知れた医師でした。

ところが父は、息子に医業を継がせたくなかったんです。
当時の中国では医師の社会的地位が低く、「息子には科挙に受かって官僚になってほしい」と願っていました。

科挙に三度落ち、医学の道へ

父の期待に応えようとした李時珍は科挙に挑戦します。
しかし結果は三度の不合格。

もともと体が弱かった李時珍は、自分の病気を父に治してもらった経験もあり、医学への想いが捨てきれませんでした。

23歳のとき、ついに父を説得して医師になることを決意。
20代後半には「名医」と呼ばれるようになり、遠方から患者がやってくるほどになりました。

宮廷医を1年で辞める

38歳のとき、李時珍は推薦を受けて北京の太医院(宮廷の医療機関)に入ります。

しかし、わずか1年ほどで辞職してしまいました。
宮廷医療の保身的な体質に嫌気がさしたと言われています。

故郷に戻った李時珍は「紅花園」と名付けた家を建て、そこを拠点に医療と研究を続けました。
本草綱目の執筆を本格的に始めたのも、この頃のことです。

出版を見届けられなかった無念

27年の歳月をかけて本草綱目を完成させた李時珍。
しかし、出版には苦労しました。

蘄州、黄州、武昌と出版社を探して歩き回りましたが、どこも引き受けてくれません。
1579年には南京まで足を運びましたが、やはり断られます。

ようやく南京の出版商・胡承龍の支援を得て刊行のめどがついたのは1590年。
しかし李時珍は1593年に75歳で亡くなり、本が出版された1596年を見届けることはできませんでした。


日本への影響

江戸時代の学問を変えた一冊

本草綱目は出版からわずか数年で日本に伝わりました。

1607年、儒学者の林羅山が長崎で本草綱目を入手し、駿府にいた徳川家康に献上。
これをきっかけに、日本での本草研究が本格的に始まります。

江戸時代を通じて数多くの和刻本(日本で印刷した版)が出版され、日本の学者たちは本草綱目を教科書のように使いました。

日本独自の発展へ

本草綱目の影響を受けた日本の学者たちは、やがて独自の研究を始めます。

小野蘭山は「本草綱目啓蒙」(1803年)で本草綱目の解説書を作成。
一方で貝原益軒は「大和本草」(1709年)で、本草綱目の分類法を批判しながら日本独自の体系を提案しました。

平賀源内の「物類品隲」も本草綱目の分類に従っています。
つまり、江戸時代の博物学は、良くも悪くも本草綱目を基準にして発展していったんですね。


本草綱目の限界

現代では否定されている内容も

27年かけて丹念に調べ上げた本草綱目ですが、当時の科学的限界から、今では否定されている記述もあります。

たとえば「水銀や鉛は毒ではない」という記述。
現代の私たちからすれば明らかな間違いですが、当時はまだ重金属の毒性が十分に理解されていませんでした。

また、迷信的な内容も混在しています。
「上吊り自殺に使われた縄を灰にして飲むと病気が治る」といった記述は、さすがに科学的根拠がありません。

それでも価値は色褪せない

ただし、これらの限界は「16世紀の知識の限界」であって、李時珍個人の責任ではありません。

むしろ、従来の本草書にあった多くの誤りを訂正し、自分の目で確かめる姿勢を貫いた点は高く評価されています。

イギリスの科学史家ジョセフ・ニーダムは、李時珍を「中国の博物学者の王」と呼び、本草綱目を「明代最大の科学的業績」と評価しました。


本草綱目の構成一覧

内容
序例(巻1〜2)凡例、引用文献リスト
百病主治薬(巻3〜4)病気別の薬索引
水部(巻5)水に関するもの(雨水、露など)
火部(巻6)火に関するもの
土部(巻7)土に関するもの
金石部(巻8〜11)鉱物・金属類
草部(巻12〜21)草本植物
穀部(巻22〜25)穀物類
菜部(巻26〜28)野菜類
果部(巻29〜33)果物類
木部(巻34〜37)樹木類
服器部(巻38)衣服・道具類
蟲部(巻39〜42)昆虫類
鱗部(巻43〜44)魚類・爬虫類
介部(巻45〜46)貝類・甲殻類
禽部(巻47〜49)鳥類
獣部(巻50〜51)哺乳類
人部(巻52)人体由来のもの

まとめ

本草綱目について紹介しました。ポイントをまとめます。

  • 本草綱目は明代の医師・李時珍が27年かけて完成させた本草学の集大成
  • 約1900種の薬物を16部60類に分類し、1万以上の処方を収録
  • 2011年にユネスコ「世界の記憶」に登録された世界的に重要な文献
  • 日本には1607年に伝来し、江戸時代の博物学に大きな影響を与えた
  • 一部に時代の限界による誤りはあるものの、実証的な姿勢は高く評価されている

李時珍は自分の本が出版されるのを見届けることができませんでした。
しかし彼の情熱は400年以上経った今も、世界中で読み継がれています。

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