奥三河の山深い谷間に、美しい女官の姿をした不思議な存在が棲んでいると伝えられています。
その名は「片足上﨟(かたあしじょうろう)」——猟師の獲物を奪い、草履の片方を持ち去るという、奇妙な妖怪です。
愛知県の民俗研究の古典とも言える文献に記録された、ローカル色豊かな伝承を紐解いていきましょう。
概要
片足上﨟は、愛知県八名郡山吉田村(現・新城市)の栃の窪から「はだなしの山」にかけての山中に現れると伝えられる妖怪です。
「ヒメンジョロウ(姫女郎)」とも呼ばれています。
その姿は美しい片足の女官——すなわち「上﨟(じょうろう)」——であると言われ、山に入った猟師に害をなす存在として語り継がれてきました。
外見の特徴
片足上﨟の最大の特徴は、その名の通り片足しかないという点です。
美しい「上﨟」、つまり高い身分の女官の姿をしているにもかかわらず、足は一本だけだとされています。
「上﨟」とはもともと、年功を積んだ官位の高い人を意味する言葉で、特に高位の貴族や宮中に仕えた位の高い女官を指すのに用いられました。
宮中では公卿の家の娘が女房として仕えた場合に「上﨟女房」と呼ばれており、江戸時代には大奥の最上位の役職「上﨟御年寄(上﨟とも略称)」の名にも使われました。
そのような高貴な存在の名を冠しながら、山中をさまよう妖怪という設定は、いかにも民俗的な想像力の産物と言えるでしょう。
猟師の獲物を狙う妖怪
片足上﨟の主な行動として伝えられているのは、猟師の獲物を奪うという行いです。
山中で猟をして仕留めた獲物を、この妖怪が持ち去ってしまうというのです。
猟師たちが使った対抗呪術
奥三河の猟師たちは片足上﨟から獲物を守るために、独自の呪術を行ったとされています。
その方法は鉄砲と山刀を十字に組んで獲物の上に置くというものです。
十字に組むという行為は、日本の民俗において魔を払う力があると信じられてきた呪術的な所作です。
猟師たちがこの妖怪の存在をどれほど現実のものとして感じていたか、この呪術の丁寧さから伝わってきます。
紙緒草履のタブー
片足上﨟にまつわる伝承の中でも、とりわけ興味深いのが草履にまつわるタブーです。
山に紙緒(かみお)の草履を履いて行くと、片足上﨟に片方を取られてしまうと言われていました。
「紙緒草履」とは、鼻緒を紙で作った草履のことです。
草履は鼻緒だけで足を固定する履物であり、片方だけ奪われると歩くことができなくなります。
片足しかない妖怪が草履の片方を奪う——この対応関係は、民俗的な想像力の中に一種の論理を感じさせます。
「足が一本の存在が草履も一本だけ必要とする」という連想が、伝承の中に溶け込んでいるようです。
七滝と子抱き石——もう一つの伝承
山吉田村の阿寺(あてら)には、板の窪を水源とする七滝(ななたき)という滝があります。
この滝の上流に、子抱き石(こだきいし)と呼ばれる小石が採れる場所があったとされています。
子抱き石には「子種のない婦人が持ち帰ると懐妊する」という言い伝えがありました。
子宝を望む女性たちが、この石を求めてわざわざ山奥まで足を運んだというのです。
ここで再び登場するのが紙緒草履です。
石を取りに行く女性たちが紙緒草履を履いて山へ向かったため、片足上﨟にまつわる伝承と結びついていったとも考えられます。
この伝承は、山岳信仰・女性の祈願・妖怪伝承が複雑に絡み合った奥三河の民俗世界を映しています。
記録した人物:早川孝太郎
この伝承を記録したのは、民俗学者・早川孝太郎(1889年〜1956年)です。
愛知県南設楽郡長篠村(現・新城市)出身で、片足上﨟が伝わる地域と同じ奥三河の出身です。
早川は画家を志して日本画家・松岡映丘に師事し、映丘の兄である柳田国男を通じて民俗学の道へ進みました。
故郷の奥三河に伝わる口承・伝承を精力的に記録しています。
1926年(大正15年)に刊行した『猪・鹿・狸』は、奥三河の古老から聴き溜めた逸話を集めた著作で、芥川龍之介や島崎藤村も絶賛した民俗学の古典的名著として知られています。
片足上﨟の伝承も、この書と柳田国男監修の『綜合日本民俗語彙』(1955〜1956年刊)に収録されています。
まとめ
片足上﨟は、愛知県奥三河の山中に伝わる、片足の美しい女官の姿をした妖怪です。
猟師の獲物を奪い、紙緒草履の片方を持ち去るという奇妙な行動が伝えられています。
その伝承には、山に分け入る猟師たちの畏れや、子宝を願って山奥へ向かう女性たちの信仰が重なっています。
奥三河という特定の土地に根ざした、地方色豊かな妖怪として記録されています。
地域限定の妖怪伝承は、その土地の生業・信仰・自然観を色濃く反映しています。
片足上﨟もまた、奥三河の山深い暮らしの中から生まれた存在と言えるでしょう。
参考情報
この記事で参照した情報源
信頼できる二次資料(民俗学の専門家による研究・記録)
- 早川孝太郎『猪・鹿・狸』(1926年) — 奥三河の古老からの聞き取りをまとめた民俗学の古典的著作
- 柳田国男監修、民俗学研究所編『綜合日本民俗語彙』全5巻(平凡社、1955〜1956年) — 日本各地の民俗語彙を網羅した研究書。1957年第11回毎日出版文化賞受賞

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