ブラックホールに吸い込まれた物質の情報は、どこへ消えてしまうのでしょうか。
この疑問は、現代物理学における最大の謎の一つ「ブラックホール情報パラドックス」として、半世紀にわたり科学者たちを悩ませてきました。
量子力学では「情報は決して失われない」とされる一方、ブラックホールに関する一般相対性理論は「情報は永久に失われる」と予測します。
この矛盾は、物理学の根幹を揺るがす問題であり、多くの理論物理学者がその解決に挑んできました。
この記事では、ブラックホール情報パラドックスの本質と、最新の研究動向について詳しく解説します。
ブラックホール情報パラドックスとは
ブラックホール情報パラドックス(Black hole information paradox)は、量子力学と一般相対性理論の予測を組み合わせたときに生じる矛盾です。
パラドックスの核心
物理学における「情報」とは、物質の状態を完全に記述するために必要なデータのことです。
例えば、炭素原子の集まりが特定の配置でグラファイト(黒鉛)になり、別の配置でダイヤモンドになるのは、情報が異なるためです。
量子力学の基本原理によれば、情報は常に保存されます。
これは、現在の状態がわかれば過去の状態を復元でき、また未来の状態も予測できることを意味します。
しかし、ブラックホールに物質が吸い込まれると、その情報は事象の地平線(光さえも脱出できない境界)の向こう側に閉じ込められ、外部からは一切観測できなくなります。
パラドックスが生まれた経緯
このパラドックスの起源は、1958年にデビッド・フィンケルシュタインが最初に指摘したブラックホールの不可逆性にあります。
1973年から1975年にかけて、スティーブン・ホーキング博士とヤコブ・ベッケンシュタインは、ブラックホール熱力学という新しい理論分野を創始しました。
特に重要なのは、ホーキング博士が1974年に発表した「ブラックホール放射」(ホーキング放射)の理論です。
ホーキング放射とは、ブラックホールが量子効果によってゆっくりとエネルギーを放出し、最終的には完全に蒸発してしまう現象です。
この発見は、ブラックホールが永遠に存在するという従来の考えを覆しました。
なぜパラドックスなのか
量子力学の主張:情報は保存される
量子力学では、物理系の時間発展はシュレーディンガー方程式によって支配されます。
この方程式は、以下の2つの重要な性質を持ちます。
量子決定論
現在の波動関数が与えられれば、未来の変化は進化作用素によって一意に決まります。
可逆性
進化作用素は逆元を持ち、過去の波動関数も同様に一意に決まります。
この2つの性質を組み合わせると、情報は常に保存されなければならないという結論が導かれます。
これを「ユニタリ性」と呼びます。
一般相対性理論の主張:情報は失われる
一方、ブラックホールに関する一般相対性理論は、異なる予測をします。
ブラックホール脱毛定理によれば、ブラックホールの性質は質量、電荷、角運動量の3つのパラメータのみで完全に記述されます。
つまり、どのような物質がブラックホールに落ち込んだかに関わらず、この3つの値が同じであれば、外部から見て区別がつきません。
ホーキング博士の計算によれば、ホーキング放射は完全に熱的(ランダム)で、ブラックホールに落ち込んだ物質に関する情報を一切含みません。
そして、ブラックホールが完全に蒸発すると、ブラックホールに吸い込まれた情報は永久に失われてしまいます。
矛盾の本質
ここで深刻な矛盾が生じます。
量子力学の視点
情報は常に保存される(ユニタリ性)
一般相対性理論の視点
情報はブラックホールの蒸発によって失われる
この2つの理論は、どちらも非常に高い精度で検証されている物理学の根幹をなす理論です。
にもかかわらず、ブラックホールという極限的な状況では、互いに矛盾する予測を与えてしまうのです。
Page曲線とは
Don Pageの重要な貢献
1970年代、ホーキング博士の弟子であったドン・ペイジは、このパラドックスをより明確な形で定式化しました。
ペイジは、ブラックホールが蒸発する過程で、ホーキング放射のエントロピー(情報の量)がどのように変化すべきかを示しました。
これが「Page曲線」です。
Page曲線の特徴
Page曲線は、以下のような特徴的な形をしています。
初期段階
ブラックホールからの放射が始まると、放射のエントロピーは増加します。
Page時間
ある時点(Page時間)で、エントロピーは最大値に達します。
Page時間は、ブラックホールの初期エントロピーの半分が放射として出た時点に対応します。
後期段階
Page時間を過ぎると、エントロピーは減少に転じます。
最終的に、ブラックホールが完全に蒸発すると、エントロピーはゼロに戻ります。
この曲線は、情報が保存される場合に期待される振る舞いです。
ホーキングの計算との矛盾
しかし、ホーキング博士の元々の計算では、放射のエントロピーは単調に増加し続け、Page曲線のような減少は見られませんでした。
これが、情報パラドックスをより具体的な計算の問題として明確化したのです。
解決への試み
1992年:補完性原理
1992年、レナード・サスキンドと共同研究者たちは「ブラックホール補完性」という考え方を提案しました。
この理論によれば、情報は事象の地平線の外側にも内側にも存在しますが、単一の観測者が両方を同時に観測することはできません。
外部の観測者には情報が地平線付近に蓄積され、やがてホーキング放射として出てくるように見えます。
一方、ブラックホールに落ち込む観測者には、情報が内部に存在するように見えます。
この提案は、ホーキング博士に賭けに負けを認めさせるきっかけの一つとなりました。
1997年:AdS/CFT対応
1997年、ファン・マルダセナは「AdS/CFT対応」という画期的な理論を提案しました。
この理論は、特定の条件下で、重力を含む理論(AdS空間における量子重力)が、重力を含まない理論(共形場理論)と完全に等価であることを示しました。
AdS/CFT対応では、ブラックホールの蒸発過程は共形場理論におけるユニタリな過程として記述できます。
つまり、情報は保存されるはずだという強力な証拠が得られたのです。
この提案以降、多くの物理学者は情報が保存されると考えるようになりました。
2004年:ホーキング博士の方針転換
1997年、ホーキング博士とキップ・ソーンは、ジョン・プレスキルと賭けをしました。
ホーキングとソーンは「情報は失われる」、プレスキルは「情報は保存される」という立場でした。
2004年7月、ホーキング博士はダブリンでの講演で賭けに負けを認めました。
彼は、事象の地平線の量子摂動がブラックホールから情報を逃がすという新しい理論を発表し、プレスキルに野球百科事典『Total Baseball』を贈りました。
しかし、ソーンはホーキング博士の証明に納得せず、賭けへの参加を辞退しました。
実際、ホーキング博士の解決案は科学コミュニティで完全には受け入れられませんでした。
2019年の大きな進展
Page曲線の再現に成功
2019年、物理学界に大きな進展がありました。
アーメッド・アルメイリ、ジェフ・ペニントン、ファン・マルダセナらの2つの独立した研究グループが、半古典的重力理論の枠組みでPage曲線を再現することに成功したのです。
この成果は、「島公式」(island formula)という新しい計算方法に基づいています。
島公式とは
島公式は、ブラックホールから放出される放射のエントロピーを計算する新しい方法です。
重要なのは、Page時間を過ぎると、ブラックホール内部の一部の領域(「島」と呼ばれる)が、放射のエンタングルメント(量子もつれ)に寄与するようになる点です。
これにより、放射のエントロピーはPage曲線に従って減少し、情報が保存されることが示されました。
レプリカワームホール
2020年、アルメイリ、トーマス・ハートマン、マルダセナらは「レプリカワームホール」という概念を導入しました。
レプリカワームホールは、経路積分の計算において現れる新しい鞍点(saddle point)で、ブラックホールの異なるコピー同士をつなぐ複雑な時空構造です。
この構造の存在により、島公式が導かれ、Page曲線が再現されることが示されました。
現在の研究状況
解決したのか、していないのか
2019年以降の進展は、多くの研究者にとって大きな前進と見なされています。
半古典的重力理論の枠組みで情報が保存されることを示せたのは、画期的な成果です。
しかし、パラドックスが完全に解決されたかどうかについては、意見が分かれています。
肯定的な見方
多くの研究者は、Page曲線の導出がパラドックス解決と同義であると考えています。
情報が保存されるメカニズムが原理的に示されたことは、重要な一歩です。
慎重な見方
一部の研究者は、まだ多くの疑問が残っていると指摘します。
例えば、情報がどのようにして具体的にブラックホールから脱出するのかという詳細なメカニズムは、まだ完全には理解されていません。
最新の研究動向
量子重力理論の検証
2022年から2024年にかけて、量子重力補正を含めた計算が行われています。
これらの研究は、ホーキング放射が純粋に熱的ではなく、情報を含む可能性を示唆しています。
観測的検証の可能性
ホーキング放射自体は極めて微弱で、現在の技術では直接観測できません。
しかし、将来の重力波検出器が、ブラックホール周辺の時空の微細な揺らぎを検出できる可能性があります。
ブラックホールの「毛」
2022年の研究では、ブラックホールが「ソフトヘア」(soft hair)と呼ばれる無限個の電荷を持つ可能性が示されました。
これらの電荷が情報を保存する役割を果たすかもしれません。
パラドックスが物理学にもたらした影響
量子重力理論への示唆
ブラックホール情報パラドックスは、単なる理論的パズルではありません。
このパラドックスは、量子力学と一般相対性理論を統合した「量子重力理論」が必要であることを明確に示しています。
事象の地平線は、両方の理論が重要な役割を果たす稀な場所です。
このような極限的な状況を理解することが、より深い物理法則の理解につながります。
ホログラフィック原理
ブラックホール情報パラドックスの研究から、「ホログラフィック原理」という重要な考え方が生まれました。
ホログラフィック原理によれば、ある領域の内部の情報は、その領域の境界面に完全に符号化できます。
これは、3次元の情報が2次元の表面に保存されることを意味します。
この考え方は、時空そのものが情報の集まりから創発的に生じる可能性を示唆しています。
時空の本質
最新の研究は、時空そのものが基本的な実在ではなく、より深い量子情報理論的な構造から創発する可能性を示しています。
ブラックホールにおいて情報が保存されるという事実は、時空自体が情報を保存できることを意味します。
さらに、時空の形状は、量子もつれの相関によって決まるのかもしれません。
まとめ
ブラックホール情報パラドックスは、1970年代にスティーブン・ホーキング博士によって提起されて以来、現代物理学の最重要課題の一つとして研究が続けられてきました。
量子力学の「情報は保存される」という原理と、一般相対性理論の「ブラックホールは情報を失う」という予測の矛盾は、物理学の根幹に関わる深い問題です。
2019年以降、島公式やレプリカワームホールといった新しい概念により、半古典的重力理論の枠組みで情報が保存されることが示されました。
多くの研究者は、これをパラドックス解決への大きな前進と見なしています。
しかし、情報がどのようにして具体的にブラックホールから脱出するのかという詳細なメカニズムや、観測的検証の方法など、まだ解決すべき課題は残されています。
このパラドックスの研究を通じて、ホログラフィック原理や時空の創発といった革新的な考え方が生まれました。
ブラックホール情報パラドックスは、量子重力理論の構築という究極の目標に向けた、重要な道しるべとなり続けています。

コメント