量子力学と一般相対性理論。
20世紀の物理学が生み出したこの二つの偉大な理論を統合することは、現代物理学の最大の課題の一つです。
その統合を目指す量子重力理論の中心的な役割を果たすのが、ホイーラー=ドウィット方程式です。
この方程式は、宇宙全体の波動関数を記述する式として1967年に提唱されましたが、時間を変数に含まないという奇妙な性質を持ち、物理学者たちを長年悩ませてきました。
この記事では、ホイーラー=ドウィット方程式の基本的な概念、その特異な性質、そして現代物理学における位置づけを解説します。
ホイーラー=ドウィット方程式とは
ホイーラー=ドウィット方程式(Wheeler-DeWitt equation)は、宇宙全体の波動関数が量子重力理論の中で満たすべき方程式です。
WDW方程式と略されることもあります。
この方程式は、理論物理学者のブライス・ドウィット(Bryce DeWitt)とジョン・ホイーラー(John Archibald Wheeler)によって構築されました。
方程式の形
最も単純な形では、ホイーラー=ドウィット方程式は次のように表されます。
Ĥ|ψ⟩ = 0
ここで、Ĥは量子化された一般相対性理論における全ハミルトニアン拘束条件を表す演算子、|ψ⟩は宇宙の波動関数です。
一見すると量子力学のシュレーディンガー方程式に似ていますが、内実は全く異なります。
シュレーディンガー方程式との違い
通常の量子力学では、シュレーディンガー方程式は次のように書かれます。
Ĥ|ψ⟩ = iℏ∂/∂t|ψ⟩
右辺には時間に関する微分項があり、ハミルトニアンは系の時間発展を決定します。
しかし、ホイーラー=ドウィット方程式では右辺がゼロになっており、時間に関する項が含まれていません。
これは「時間の問題」として知られる量子重力理論の根本的な課題につながっています。
ホイーラー=ドウィット方程式の歴史
提唱の経緯
ホイーラー=ドウィット方程式は、1967年にブライス・ドウィットによって最初に発表されました。
当時は「アインシュタイン=シュレーディンガー方程式」という名称でしたが、後にジョン・ホイーラーとの共同研究を経て、現在の名称に改められました。
この方程式の着想は、量子力学と一般相対性理論という20世紀物理学の二大理論を統合しようとする試みから生まれました。
二人の物理学者
ジョン・アーチボルト・ホイーラー(1911-2008年)
アメリカの物理学者で、ブラックホール研究や量子情報理論に多大な貢献をしました。
「ブラックホール」という用語を考案したことでも知られています。
ブライス・セリグマン・ドウィット(1923-2004年)
アメリカの理論物理学者で、重力論と場の量子論の研究で知られています。
量子重力理論の発展に重要な役割を果たしました。
なぜ時間が含まれないのか
ホイーラー=ドウィット方程式の最も奇妙な特徴は、時間変数を含まないことです。
これは「時間の問題(problem of time)」として知られる量子重力理論の根本的な問題です。
一般相対性理論の性質
一般相対性理論では、時間と空間は背景として独立に存在するものではありません。
時空は物質やエネルギーによって曲がり、その曲がり方が重力として現れます。
また、一般相対性理論は背景独立(background independent)な理論です。
つまり、特定の時間座標や空間座標に依存しない形で記述されています。
宇宙全体を考える
宇宙全体を量子化する場合、宇宙の「外部」に時間を測る基準となる時計を置くことができません。
宇宙には時間座標というものが含まれておらず、時間そのものが現象論的な概念のように見えます。
そのため、ホイーラー=ドウィット方程式は時間発展を記述する方程式ではなく、物事が互いに対してどう変化するかを記述する方程式となっています。
関係性の記述
この方程式は、時間の中で物事が展開する様子を記述するのではなく、物事が互いの関係においてどのように生じるかを記述します。
世界を記述する際に必要なのは、実際に観察できる量、つまり道の長さ、木の高さ、温度、時計の針の位置などです。
これらの量が互いにどんな関係が存在するのかを示すのが、ホイーラー=ドウィット方程式の役割なのです。
波動関数の意味
ホイーラー=ドウィット方程式における波動関数|ψ⟩は、通常の量子力学における波動関数とは大きく異なります。
空間的な波動関数ではない
通常の量子力学では、波動関数は3次元空間上で定義された規格化された複素関数です。
しかし、ホイーラー=ドウィット方程式の波動関数は、時空全体での場の配位についての汎関数です。
つまり、特定の時刻における空間の状態ではなく、時空全体の幾何学的構造を記述しています。
宇宙の波動関数
この波動関数は、宇宙の幾何学とそこに含まれる物質についての全情報を含んでいます。
「宇宙の波動関数」と呼ばれるゆえんです。
ハートル=ホーキングの境界条件を満たす波動関数(ハートル=ホーキング状態)は、この方程式の解の一つとして有名です。
ホイーラー=ドウィット方程式の問題点
この方程式は量子重力理論を構築するための重要な指針となりましたが、いくつかの深刻な問題点を抱えています。
時間が含まれない問題
前述の通り、この方程式には時間が変数として含まれていません。
これにより、物理量の時間発展を記述することができなくなります。
ハミルトニアン演算子Ĥを使って任意の物理量の期待値を計算すると、時間発展が全くしないという奇妙な結果になってしまいます。
数学的な欠陥
この方程式には数学的な欠陥が認められています。
具体的には、意味のない無数の解が得られてしまうという問題があります。
また、演算子の順序をどう取ればよいのかという「演算子順序問題」も存在します。
ヒルベルト空間の問題
量子力学では、状態ベクトルはヒルベルト空間に属しますが、ホイーラー=ドウィット方程式の場合、どのようなスカラー積を期待すべきかが明確ではありません。
通常の量子場理論のようにフォック空間が完全に理解されているわけではないため、測度論的な基礎付けも困難です。
確率の解釈
この方程式は双曲型の微分方程式に対応しており、クラインゴルドン方程式などと同様に、波動関数から保存する確率密度を定義することができません。
そのため、波動関数の物理的な意味付けが困難になります。
一般的な解が得られない
この方程式は無限自由度を持つため複雑すぎて、一般的に解くことが不可能です。
実際のところ、純粋に形式的な解以上のものを見つけることは極めて困難です。
量子宇宙論への応用
ホイーラー=ドウィット方程式には多くの問題がありますが、簡単化したモデルを使って宇宙の創世を研究する「量子宇宙論(quantum cosmology)」という分野で重要な役割を果たしています。
ミニ超空間近似
無限の自由度を扱う代わりに、一様等方時空の計量のみに制限すると、スケール因子のみの1自由度になります。
このような簡単化された空間を「ミニ超空間(minisuperspace)」と呼びます。
ミニ超空間では、ホイーラー=ドウィット方程式は扱いやすい1自由度の量子力学系になります。
そうしても量子重力のもともと抱えている問題はなくなるわけではありませんが、問題を単純化して考えることができます。
無からの宇宙創世論
量子宇宙論では、宇宙が「無」からトンネル効果により生成したとする理論が提案されています。
アレクサンドル・ビレンキンによる「無からの宇宙創世論」が代表例です。
ハートル=ホーキングの境界条件
ジェームズ・ハートルとスティーヴン・ホーキングによって提唱された「ハートル=ホーキングの境界条件」は、宇宙がどのように始まったかの謎を解くことを目的とした概念です。
この境界条件を満たす宇宙の波動関数(ハートル=ホーキング波動関数)は、ホイーラー=ドウィット方程式の重要な解の一つです。
ループ量子重力理論への発展
1980年代末頃から、ホイーラー=ドウィット方程式の改良が進みました。
特に重要なのは、空間内の「閉じられた線(ループ)」を計算の対象にしたときに得られる解です。
アシュテカー変数
1980年代に、アビエイ・アシュテカー(Abhay Ashtekar)が新しい変数(アシュテカー変数)を発見しました。
この変数を用いると、制約条件がはるかに単純になり、チャーン=サイモンズ理論というゲージ理論の技術を用いて形式的な解を生成できます。
スピンネットワーク
リー・スモーリン(Lee Smolin)とカルロ・ロヴェッリ(Carlo Rovelli)は、ループ表現を発展させ、量子理論の状態を「スピンネットワーク」と呼ばれる絡み合った結び目のシステムに関連付けるフレームワークを構築しました。
これが現在の「ループ量子重力理論(loop quantum gravity)」につながっています。
現代物理学における位置づけ
ホイーラー=ドウィット方程式は、提唱から50年以上が経過した現在でも、量子重力理論の基礎として重要な位置を占めています。
弦理論の台頭による一時的な衰退
1980年代から2000年代にかけて、弦理論の目覚ましい成功により、ホイーラー=ドウィット方程式を基礎とする正準量子重力理論は一時的に注目度が低下しました。
近年の再評価
しかし近年、以下の分野での研究により、この方程式は再び注目を集めています。
ホログラフィック対応
2021年の研究では、ホイーラー=ドウィット方程式から摂動論的にホログラフィーが導かれることが示されました。
重力情報問題
ブラックホール情報パラドックスなどの研究において、この方程式の重要性が再認識されています。
量子宇宙論の発展
初期宇宙の量子状態を理解する上で、依然として重要な役割を果たしています。
実験的検証の困難さ
ホイーラー=ドウィット方程式の最大の問題は、実験物理学や応用物理学による検証を受けていないことです。
誰も確かめようのない方程式であり、数学的整合性と物理的妥当性に基づく間接的な議論しかできない状況です。
矛盾のない量子重力理論が存在するかどうかもわからない現状では、この方程式に基づく議論をどの程度真剣に受け止めるべきかは不明確です。
まとめ
ホイーラー=ドウィット方程式は、量子力学と一般相対性理論を統合しようとする量子重力理論の基礎方程式です。
1967年にブライス・ドウィットとジョン・ホイーラーによって構築されたこの方程式は、宇宙全体の波動関数を記述しますが、時間変数を含まないという奇妙な性質を持っています。
数学的な欠陥や確率解釈の困難さなど、多くの問題を抱えているものの、量子宇宙論やループ量子重力理論の発展において重要な役割を果たし続けています。
量子重力理論の完成は現代物理学の最大の課題の一つであり、ホイーラー=ドウィット方程式はその挑戦の最前線に位置しています。
参考情報
この記事は以下の情報源を参考に作成しました。
- Wikipedia「ホイーラー・ドウィット方程式」
- Wikipedia (English)「Wheeler-DeWitt equation」
- プランク期と量子宇宙論(東京大学)
- カルロ・ロヴェッリ『時間は存在しない』(NHK出版、2019年)
- T. P. Shestakova, “Is the Wheeler-DeWitt equation more fundamental than the Schrödinger equation?”, International Journal of Modern Physics D, 2018
- Collège de France, “Quantum gravity and the Wheeler-DeWitt equation”
- H. W. Hamber, “Discrete Wheeler-DeWitt Equation”, Physical Review D, 2011

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