レプリカワームホール(ホログラフィックワームホール)とは?量子コンピュータ内に作られた時空の橋

2022年11月、科学界に衝撃的なニュースが駆け巡りました。
GoogleやCaltech、ハーバード大学、MITなどの研究チームが、量子コンピュータ内に「ワームホール」を作成したというのです。

もちろん、これはSF映画のような実際の時空トンネルではありません。
しかし、この「レプリカワームホール」(ホログラフィックワームホール)は、量子コンピュータという舞台で、ワームホールの物理的特性を再現することに成功した画期的な実験です。

この記事では、レプリカワームホールとは何か、どのように作られたのか、そしてこの実験が物理学にとってなぜ重要なのかを、わかりやすく解説していきます。

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レプリカワームホールとは

レプリカワームホール、または「ホログラフィックワームホール」とは、量子コンピュータ内に作られた、ワームホールの量子力学的な等価物です。

実際のワームホールとは何か

まず、理論物理学における「ワームホール」について簡単に説明します。

ワームホールは、時空のある一点と別の一点をつなぐトンネルのような構造です。
1935年にアルバート・アインシュタインとネイサン・ローゼン(Nathan Rosen)によって、一般相対性理論から導かれる理論的可能性として提示されました。
そのため「アインシュタイン-ローゼン橋」(Einstein-Rosen bridge)とも呼ばれます。

理論的には、ワームホールを通過することで、何十億光年も離れた場所へ瞬時に移動できる可能性があります。
ただし、現実の宇宙ではワームホールはまだ発見されておらず、仮に存在したとしても、一般的には通過不可能で、すぐに崩壊してしまうと考えられています。

レプリカワームホールは何が違うのか

2022年の実験で作られた「レプリカワームホール」は、実際の時空にトンネルを開けたわけではありません。

これは、量子コンピュータ内の量子ビット(qubit)の集合体が、ある特定の物理モデルにおいて、ワームホールと同じ振る舞いを示すように設計されたシステムです。

より正確に言えば、量子もつれ(quantum entanglement)という量子力学の現象が、重力理論におけるワームホールと数学的に等価であるという理論的予測を、量子コンピュータを使って実証したものです。

背景:ワームホールと量子もつれの関係

ER=EPR予想(2013年)

レプリカワームホールの実験を理解するには、「ER=EPR予想」という重要な理論的枠組みを知る必要があります。

2013年、ファン・マルダセナ(Juan Maldacena)とレオナルド・サスキンド(Leonard Susskind)は、画期的な予想を発表しました。

  • ER(Einstein-Rosen): アインシュタイン-ローゼン橋、つまりワームホール
  • EPR(Einstein-Podolsky-Rosen): アインシュタイン、ポドルスキー、ローゼンが提唱した量子もつれ

この予想は、「ワームホールと量子もつれは、本質的に同じ現象の異なる記述である」というものです。

量子もつれとは

量子もつれとは、2つの量子粒子が、どれだけ離れていても、互いに影響し合う不思議な現象です。

例えば、量子もつれ状態にある2つの電子があるとします。
一方の電子のスピン(回転の向き)を測定すると、瞬時にもう一方の電子のスピンも決まります。
これは、2つの電子の間に何らかの「つながり」があることを示しています。

通過可能なワームホールへの拡張(2017年)

2017年、ハーバード大学のダニエル・ジャフリス(Daniel Jafferis)、ピン・ガオ(Ping Gao)、アーロン・ウォール(Aron Wall)は、ER=EPR予想をさらに発展させました。

彼らは、負のエネルギー(negative energy)を持つ物質を使えば、ワームホールを一時的に開いたままにでき、情報を通過させられる可能性を示しました。
これが「通過可能なワームホール」(traversable wormhole)の理論です。

そして重要なのは、この通過可能なワームホールは、量子力学における「量子テレポーテーション」と同じ現象であるという主張です。

つまり、量子テレポーテーションを重力理論で説明したものがワームホール、量子力学で説明したものが量子テレポーテーション、ということになります。

ホログラフィック原理:重力と量子力学を結ぶ鍵

AdS/CFT対応

レプリカワームホール実験の理論的基盤となっているのが「AdS/CFT対応」です。

AdS/CFT対応(Anti-de Sitter/Conformal Field Theory correspondence)は、1997年にファン・マルダセナによって提唱された理論です。

この対応関係は、以下のように説明できます。

  • AdS: 反ド・ジッター時空という特殊な幾何学的構造を持つ架空の宇宙における重力理論
  • CFT: 共形場理論という、重力を含まない量子力学の理論

AdS/CFT対応は、これら2つの理論が数学的に等価であることを主張します。
重要なのは、重力を含む理論(AdS)が、重力を含まない量子理論(CFT)によって完全に記述できるということです。

しかも、CFTはAdSよりも次元が低いのです。
これは、2次元のホログラムが3次元の像を表示することに似ています。

なぜ「ホログラフィック」なのか

ホログラフィック原理によると、ある空間の中で起こる重力現象(ワームホールを含む)は、その空間の境界面上の量子系によって完全に記述できます。

つまり、高次元の重力系は、低次元の量子系の情報によって「符号化」されているのです。

これが「ホログラフィック」と呼ばれる理由であり、レプリカワームホールが「ホログラフィックワームホール」と呼ばれる所以でもあります。

2022年の実験:量子コンピュータでワームホールを作る

実験の概要

2022年11月30日、カリフォルニア工科大学のマリア・スピロプル(Maria Spiropulu)教授を中心とする研究チームが、Nature誌に画期的な論文「Traversable wormhole dynamics on a quantum processor」を発表しました。

研究チームは、GoogleのSycamore(シカモア)量子プロセッサを使用して、通過可能なワームホールのダイナミクスを再現することに成功しました。

使用した量子プロセッサ:Google Sycamore

Sycamoreは、Googleが開発した超伝導量子プロセッサで、最大53量子ビットを持ちます。
2019年には、古典コンピュータでは1万年かかるとされる計算を200秒で完了し、「量子超越性」(quantum supremacy)を達成したと主張したことで知られています。

今回の実験では、53量子ビットのうち9量子ビットのみを使用しました。

SYKモデルの使用

実験では、「SYKモデル」(Sachdev-Ye-Kitaevモデル)という理論的枠組みを使用しました。

SYKモデルは、多数の粒子が相互作用する量子系を記述するモデルで、量子重力のおもちゃモデルとして近年注目を集めています。
重要なのは、SYKモデルには「ホログラフィック双対」が存在し、それがワームホールを含む時空として解釈できることです。

ただし、完全なSYKモデルを量子コンピュータで実装するには、現在の技術では不可能なほど多数の量子ビットが必要です。
そこで研究チームは、機械学習の技術を使ってSYKモデルを大幅に簡略化し、わずか9量子ビットで実装できる「ベイビーSYK」モデルを開発しました。

実験の手順

実験は以下の手順で行われました。

  1. 2つの量子もつれ系を作成
    Sycamoreプロセッサ上に、量子もつれ状態にある2つの量子系を作成しました。
    AdS/CFT対応によれば、これらの量子系は、ワームホールで結ばれた2つのブラックホールに対応します。
  2. 一方の系に量子ビット(情報)を挿入
    量子もつれ状態にある2つの系のうち、一方に単一の量子ビット(量子情報)を挿入しました。
  3. 負のエネルギーに相当する操作を適用
    理論によれば、ワームホールを通過可能にするには負のエネルギーが必要です。
    量子コンピュータでは、負のエネルギーに相当する量子ビットの操作を行いました。
  4. もう一方の系から情報が現れることを観測
    一方の系に挿入した量子情報が、もう一方の系から現れることを観測しました。
    これは、情報が「ワームホールを通過した」ことに相当します。

実験結果

実験の結果、研究チームは以下のことを観測しました。

  • 負のエネルギーに相当する操作を行った場合、量子情報は一方の系からもう一方の系へと移動しました
  • 正のエネルギーに相当する操作を行った場合、情報は移動しませんでした(ワームホールが崩壊に相当)

この非対称性は、通過可能なワームホールの重要な特徴であり、実験が成功したことを示すサインでした。

マリア・スピロプル教授は、この結果を見たとき「震えた」と語っています。

実験の意義と限界

何が画期的なのか

この実験の意義は、以下の点にあります。

1. ホログラフィック原理の実験的検証
ホログラフィック原理やAdS/CFT対応は、これまで主に理論的に研究されてきました。
今回の実験は、これらの概念を量子コンピュータ上で実験的に検証した初めての例です。

2. 量子重力研究の新しいアプローチ
量子重力理論を実験室で直接検証することは、現在の技術では不可能です。
しかし量子コンピュータを使えば、量子重力の理論的予測を間接的にテストできる可能性が示されました。

3. 量子コンピュータの新しい用途
量子コンピュータが、複雑な物理理論を探求するためのツールとして有用であることが示されました。

カリフォルニア工科大学のジョン・プレスキル(John Preskill)教授は次のように述べています。

「重力の視点が、それ抜きでは解明が難しい多粒子量子現象を理解する簡単な方法を提供してくれることが、今回の実験の近い将来における意義です」

実験の限界と批判

一方で、この実験には重要な限界があり、多くの物理学者から批判も出ています。

1. 実際のワームホールではない
最も重要な点は、この実験が実際の時空にワームホールを作ったわけではないということです。
あくまで量子コンピュータ内のシミュレーションであり、私たちの宇宙に実在するワームホールとは異なります。

スコット・アーロンソン(Scott Aaronson)は、ニューヨークタイムズの取材に対して次のように述べています。

「もしこの実験が実際にワームホールを物理的に作り出したのなら、紙とペンでワームホールを描くたびに、あなたもワームホールを作り出していると強く主張できるでしょう」

2. 古典コンピュータでも可能だった
実験で使用した簡略化されたモデルは、古典コンピュータでもシミュレーションできました。
実際、研究チームは古典コンピュータで事前に計算を行い、量子コンピュータの結果がそれと一致することを確認しています。

つまり、量子コンピュータでなければ不可能な計算ではなかったのです。

3. モデルが過度に簡略化されている
実験で使用したベイビーSYKモデルは、完全なSYKモデルを大幅に簡略化したものです。
この簡略化により、本来のワームホールやブラックホールの重要な特性が失われている可能性があります。

2023年2月、ハーバード大学のノーマン・ヤオ(Norman Yao)らの研究チームは、Nature誌にコメント論文を発表しました。
彼らは、実験で使用されたモデルの数学的特性を分析した結果、このモデルはブラックホールやワームホールのような重力系の主要な特性を捉えるには単純すぎると結論づけています。

4. 量子ビット数が少なすぎる
わずか9量子ビットの実験では、本格的な重力系の挙動を再現するには不十分です。
理論的には、より多くの量子ビット(理想的には無限大)が必要とされています。

研究チームの反論

これらの批判に対して、研究チームは以下のように反論しています。

マリア・スピロプル教授は次のように述べています。

「この実験は、量子重力を直接検証する実験(LIGOのような重力波検出器など)の代わりにはなりませんが、弦理論や量子重力のアイデアを試すための強力なテストベッドを提供します」

また、今回の実験の重要性は、実際にワームホールを作ったことではなく、量子コンピュータが基礎物理学の研究に有用であることを実証した点にあると強調しています。

レプリカワームホールとブラックホール情報パラドックス

レプリカワームホールの概念は、「ブラックホール情報パラドックス」という物理学の重要な問題とも関連しています。

ブラックホール情報パラドックスとは

量子力学によれば、情報は決して失われません(ユニタリ性)。
しかし、一般相対性理論によれば、ブラックホールに落ち込んだ物質の情報は永遠に失われてしまうように見えます。

この矛盾が「ブラックホール情報パラドックス」です。

ワームホールは情報を保存する?

もし量子もつれとワームホールが等価であるなら、ブラックホールに落ち込んだ情報は、実はワームホールを通じて外部とつながっており、情報は失われていないという解釈が可能になります。

レプリカワームホールの研究は、この問題に対する新しいアプローチを提供する可能性があります。

今後の展望

より大規模な量子コンピュータでの実験

現在の量子コンピュータは、量子ビット数が限られており、エラー率も高いという課題があります。

しかし、量子コンピュータの技術は急速に進歩しています。
IBMは2020年代半ばまでに1000量子ビットを超える量子コンピュータを計画しています。

より多くの量子ビットを持つ、より高性能な量子コンピュータが利用可能になれば、以下のことが可能になると期待されています。

  • より複雑で現実的なモデルの実装
  • ワームホールの詳細な特性の研究
  • ブラックホールや他の重力現象のシミュレーション

量子重力理論の発展

レプリカワームホールの研究は、量子重力理論の発展に貢献する可能性があります。

量子重力理論は、量子力学と一般相対性理論を統合しようとする理論ですが、直接的な実験検証が非常に困難です。
量子コンピュータを使ったシミュレーションは、この問題に対する新しいアプローチを提供します。

他の物理現象の探求

研究チームは、ワームホール以外にも、量子コンピュータを使って以下のような現象を研究できると考えています。

  • 時間結晶(time crystals)
  • 量子カオス
  • 化学反応
  • その他の重力現象

まとめ

レプリカワームホール(ホログラフィックワームホール)は、量子コンピュータ内に作られた、ワームホールの量子力学的等価物です。

実験の要点:

  • 2022年、GoogleのSycamore量子プロセッサを使って初めて実現された
  • わずか9量子ビットで、通過可能なワームホールの特性を再現
  • 量子もつれとワームホールの等価性(ER=EPR予想)を実験的に検証
  • ホログラフィック原理とAdS/CFT対応の実証

限界と批判:

  • 実際の時空にワームホールを作ったわけではない
  • 使用したモデルは大幅に簡略化されている
  • 古典コンピュータでも同様の計算が可能だった
  • 量子ビット数が少なすぎる

意義:

  • 量子コンピュータが基礎物理学の研究ツールとして有用であることを実証
  • ホログラフィック原理の実験的検証
  • 量子重力研究の新しいアプローチを提供
  • ブラックホール情報パラドックスへの新しい視点

レプリカワームホールは、実際の宇宙旅行を可能にする技術ではありません。
しかし、量子力学と一般相対性理論という、物理学の2つの柱を結びつける重要な一歩として、今後の研究の発展が期待されています。

量子コンピュータの性能が向上するにつれて、より複雑で現実的なモデルの実装が可能になり、私たちの宇宙の本質に迫る新しい発見がもたらされるかもしれません。

(最終更新日:2025年2月10日)

参考情報

  1. Daniel Jafferis et al., “Traversable wormhole dynamics on a quantum processor“, Nature, Vol. 612 (2022年11月30日) – 元論文
  2. Google Research Blog: Making a Dual of a Traversable Wormhole with a Quantum Computer – Google公式ブログによる解説
  3. Caltech: Physicists observe wormhole dynamics using a quantum computer – カリフォルニア工科大学の公式発表
  4. Nature ダイジェスト「量子コンピューターの中のホログラフィックワームホール」 – 日本語解説記事
  5. Quanta Magazine, “Physicists Create a Wormhole Using a Quantum Computer” (2022年11月30日) – 詳細な科学ジャーナリズム記事
  6. Norman Yao et al., Comment on Nature論文 (2023年2月) – 批判的検討
  7. Juan Maldacena & Leonard Susskind, “Cool horizons for entangled black holes” (2013) – ER=EPR予想の原論文
  8. Daniel Jafferis, Ping Gao & Aron Wall, “Traversable wormholes via a double trace deformation” (2017) – 通過可能なワームホールの理論

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