「宇宙はどうやって始まったのか?」
「ビッグバン以前には何があったのか?」
こうした根源的な問いに対して、スティーヴン・ホーキング博士とジェームズ・ハートルが1983年に提唱した答えが「無境界仮説」です。
この仮説によれば、宇宙の始まりには境界が存在せず、時間の始まりより前という概念自体が意味を持たないとされます。
この記事では、無境界仮説の基本的な考え方、虚時間という概念、南極の比喩、そして現代の物理学における評価まで、わかりやすく解説します。
無境界仮説とは
無境界仮説(むきょうかいかせつ、英:No-Boundary Proposal、Hartle-Hawking No-Boundary Proposal)は、宇宙の始まり方を説明するための量子宇宙論の理論です。
正式には「ハートル=ホーキングの無境界仮説」または「ハートル=ホーキングの境界条件」と呼ばれます。
基本的な概念
無境界仮説の中心的な主張は、以下の通りです。
「宇宙の始まりには境界が存在しない」
これは、宇宙が無限小の点(特異点)から爆発的に始まったのではなく、滑らかに、境界なく存在し始めたという考え方です。
提唱者と提唱年
提唱者
- ジェームズ・ハートル(James Hartle):カリフォルニア大学サンタバーバラ校の物理学者
- スティーヴン・ホーキング(Stephen Hawking):イギリスの理論物理学者
提唱年
- 1981年:バチカンでの会議でホーキングが最初に提案
- 1983年:ハートルとホーキングが共同で正式な論文を発表
無境界仮説が登場した背景
無境界仮説を理解するには、まず宇宙の始まりに関する従来の問題を知る必要があります。
ビッグバン理論と特異点の問題
ビッグバン理論
現代の宇宙論では、宇宙は約138億年前のビッグバン(大爆発)から始まったと考えられています。
ハッブルが1929年に宇宙の膨張を発見したことで、宇宙が膨張しているなら、過去に遡れば宇宙はどんどん小さくなっていくはずだという考えが生まれました。
特異点定理
1960年代後半、ホーキングとロジャー・ペンローズは「特異点定理」を証明しました。
これは、一般相対性理論に従うなら、宇宙の始まりには「特異点」と呼ばれる、大きさがゼロで密度と重力が無限大になる点が存在するはずだというものです。
特異点の問題点
しかし、特異点には深刻な問題があります。
- 物理法則が破綻する
- 無限大の値が現れ、物理学の方程式が使えなくなる
- 「何も計算できない」状態になる
- 時間の始まり以前は?
- 特異点が時間の始まりだとすると、それより前は何があったのか?
- 何が特異点を生み出したのか?
- 神の領域
- 特異点で物理法則が破綻するなら、宇宙の創造は物理学の範囲外、つまり「神の領域」になってしまう
ホーキングは、自分自身が証明した特異点定理が示す問題を解決する必要性を感じていました。
量子力学の必要性
宇宙が原子よりも小さかった時代を考えるには、量子力学が必要です。
量子力学は、非常に小さなスケール(原子や素粒子)での物理現象を記述する理論です。
量子宇宙論
宇宙の始まりのような極小のスケールでは、一般相対性理論だけでは不十分で、量子力学と組み合わせる必要があります。
この組み合わせを扱う分野が「量子宇宙論」(Quantum Cosmology)です。
無境界仮説の核心アイデア
無境界仮説は、量子力学と一般相対性理論を組み合わせることで、宇宙の始まりを特異点なしで説明しようとします。
南極の比喩
ホーキングは、無境界仮説を一般の人々に説明するために、巧みな比喩を使いました。
「南極より南はない」
地球上で南に向かって進み続けると、やがて南極点に到達します。
南極点に立ったとき、「南」という方向の概念は意味を失います。
なぜなら、南極点よりも南は存在しないからです。
南極点は地球の端ではなく、地球は丸い面として滑らかに続いています。
宇宙の始まりも同じ
同様に、時間を過去に遡っていくと、やがて宇宙の「始まり」に到達します。
しかし、無境界仮説によれば、その始まりは特異点のような「点」ではなく、南極点のように滑らかです。
そして、その始まりよりも前には「時間」という概念自体が存在しないのです。
時間と空間の区別がなくなる
無境界仮説では、宇宙の極初期には、時間と空間に区別がなかったとされます。
現在の宇宙
- 時間:前にしか進まない(不可逆)
- 空間:どの方向にも自由に移動できる(可逆)
宇宙の始まり
- 時間:前にも後ろにも行ける(空間のように振る舞う)
- 時間と空間に本質的な違いがない
この状態を実現するために、ホーキングとハートルは「虚時間」という概念を導入しました。
虚時間とは何か
虚時間(Imaginary Time)は、無境界仮説の最も難解で、同時に最も重要な概念です。
虚数の復習
まず、虚数について簡単に確認しましょう。
虚数単位
- i(アイ)と表記
- i² = -1 を満たす数
- 実数では存在しない概念
複素数
- 実数と虚数を組み合わせた数
- 例:3 + 4i
虚時間の定義
虚時間は、通常の時間(実時間)に虚数単位 i を掛けたものです。
実時間 → t
虚時間 → it (または τ = it と表記)
なぜ虚時間が必要なのか
ホーキングとハートルは、宇宙の始まりを数学的に扱うために虚時間を導入しました。
Wick回転
虚時間への変換は、「Wick回転」(ウィック回転)と呼ばれる数学的手法です。
この回転により、時間軸が実数から虚数に変わります。
効果
- 計算が可能になる
- 実時間だと無限大に発散してしまう計算が、虚時間では有限の値になる
- 時間が空間のように振る舞う
- 虚時間の宇宙では、時間に前後の区別がなくなる
- 4次元すべてが「空間的」になる
虚時間から実時間へ
無境界仮説によれば、宇宙は虚時間の状態から始まり、やがて実時間の状態へと移行しました。
宇宙の歴史
- 虚時間の段階:時間と空間に区別がない
- 移行期:虚時間から実時間へ
- 実時間の段階:現在の宇宙(時間が一方向に流れる)
この移行が起こった瞬間に、時間に「前」と「後ろ」の区別が生まれ、宇宙は膨張を始めたのです。
ファインマンの経路積分
無境界仮説は、リチャード・ファインマンが開発した「経路積分」(Path Integral)という量子力学の手法を使います。
経路積分とは
量子力学では、粒子は1つの経路ではなく、可能なすべての経路を同時に通ると考えます。
古典力学
- 粒子はAからBへ1つの明確な経路を通る
量子力学(経路積分)
- 粒子はAからBへのすべての可能な経路を「同時に」通る
- それぞれの経路に確率の振幅と位相がある
- すべての経路を足し合わせて、最終的な確率を計算する
宇宙の経路積分
無境界仮説では、この考え方を宇宙全体に適用します。
宇宙の波動関数
宇宙の状態は「波動関数」(Wave Function)で記述されます。
ハートルとホーキングは、宇宙の波動関数を計算するために、以下の処方箋を提案しました。
- 虚時間を使う
- 現在の宇宙の状態に至るすべての可能な「歴史」を考える
- それぞれの歴史に確率の重みを付ける
- すべての歴史を足し合わせる
境界条件
重要なのは、この計算で「境界条件」を指定しないことです。
通常の物理学では、初期条件(境界条件)を与えて計算しますが、無境界仮説では「境界がない」こと自体が条件なのです。
無境界仮説が予測すること
無境界仮説は、単なる哲学的なアイデアではなく、具体的な予測をします。
シャトルコックの形
無境界仮説によれば、宇宙はシャトルコック(羽根つきの羽)のような形をしています。
シャトルコックの構造
- 最下部:直径ゼロの点
- 上に行くにつれて徐々に広がる
- 滑らかに丸みを帯びている
宇宙との対応
- 最下部(丸い部分):宇宙の「始まり」、虚時間の領域
- 上部(広がる部分):現在の宇宙、実時間の領域
- 下部では時間と空間の区別がない
- 上部では時間と空間が明確に区別される
インフレーションの予測
無境界仮説の最も重要な予測の1つは、宇宙が「インフレーション」を経験したはずだということです。
インフレーション
インフレーションとは、宇宙誕生直後の極めて短い期間(10^-36秒から10^-34秒)に、宇宙が指数関数的に急膨張する現象です。
予測の意義
- 宇宙が大きい
- 非常に滑らか(均一)
- 平坦
- 膨張している
これらはすべて、実際に観測される宇宙の性質と一致します。
宇宙マイクロ波背景放射のゆらぎ
無境界仮説は、宇宙が完全に均一ではなく、わずかなゆらぎがあることも予測します。
量子ゆらぎ
量子力学的な効果により、初期宇宙には小さな不均一性(ゆらぎ)が生じます。
観測との一致
このゆらぎは、宇宙マイクロ波背景放射(CMB)の温度の微小な変動として観測されています。
無境界仮説は、このゆらぎのパターンを予測し、観測と一致する結果を与えるとされています。
無境界仮説の数学的基礎
無境界仮説は、高度な数学を使用します。
ホイーラー=ドウィット方程式
量子宇宙論の基礎方程式は「ホイーラー=ドウィット方程式」です。
この方程式は、宇宙の波動関数を記述しますが、解くのが非常に難しい方程式です。
無境界仮説は、この方程式の境界条件を指定する方法を提案しています。
ユークリッド幾何学
虚時間を導入すると、時空の幾何学が「ユークリッド幾何学」になります。
ローレンツ幾何学(通常の時空)
- 時間と空間に符号の違いがある
- ds² = -dt² + dx² + dy² + dz²
ユークリッド幾何学(虚時間の時空)
- すべての次元が空間的
- ds² = dτ² + dx² + dy² + dz²
ユークリッド幾何学では、時空は4次元の「丸い」空間のように振る舞います。
コンパクト多様体
無境界仮説では、宇宙の初期状態を「コンパクト多様体」として扱います。
コンパクト多様体とは、簡単に言えば、有限の大きさを持ち、境界のない閉じた図形です。
例
- 球面:2次元のコンパクト多様体
- 4次元球面:無境界仮説で使われる
無境界仮説と神の役割
無境界仮説は、宇宙の創造における神の役割についても含意を持ちます。
ホーキングの見解
ホーキングは、無境界仮説によって、宇宙の創造に神が介入する余地がなくなると考えました。
従来の問題
特異点が存在する場合、物理法則が破綻するため、「何かが特異点を作った」という問いが残ります。
この「何か」として、神の存在が議論されてきました。
無境界仮説の答え
しかし、無境界仮説では、宇宙には始まりの「境界」がないため、宇宙の創造は完全に物理法則だけで説明できるとされます。
ホーキングの言葉
「宇宙の境界条件として、境界がないということよりも特別なことがあるだろうか?」
「時間の始まりより前はないのだから、神が宇宙を創造する場所はなかった」
自己完結した宇宙
無境界仮説は、宇宙が「自己完結」していることを示唆します。
宇宙は、外部の何かに依存せず、それ自体で存在しているのです。
無境界仮説への批判と議論
無境界仮説は、提唱以来、物理学者たちの間で活発な議論の対象となってきました。
数学的な曖昧さ
批判の内容
無境界仮説の数学的定式化には曖昧な点が多いという批判があります。
特に、経路積分をどのように計算するかについて、明確な処方箋が確立していません。
ホーキングの元協力者の見解
ニール・トゥロック(カナダのペリメーター理論物理学研究所)は、無境界仮説を「驚くほど美しく挑発的なアイデア」と評価しつつも、「深く曖昧だ」とも指摘しています。
2017年の批判論文
2017年、トゥロック、ジョブ・フェルドブリュッヘ、ジャン=リュック・レナーズが、無境界仮説に厳しい批判を加える論文を発表しました。
批判の要点
新しい数学的手法を用いて無境界仮説を検証した結果、以下のことが判明したとされます。
- 無境界仮説が予測する宇宙は、我々の宇宙とは全く異なる
- 量子力学的に、ホーキングとハートルが想像したような形で宇宙が始まることは不可能
- 「悲惨な失敗」だった
反論
しかし、この批判に対して、他の物理学者たちから反論も出ています。
トーマス・ヘルトグ(ベルギーのルーヴェン・カトリック大学、ホーキングの最後の20年間の協力者)は、「彼らの技術的議論には同意しない」と述べています。
確率のバイアス問題
無境界仮説には、もう1つの技術的な問題があります。
問題の内容
無境界仮説は、宇宙が大きなド・ジッター空間(加速膨張する宇宙)として始まる確率が、小さなド・ジッター空間(インフレーション宇宙)として始まる確率よりも10^120倍も高いと予測してしまいます。
しかし、大きなド・ジッター空間では何も面白いことが起こらず、我々の宇宙のようにはなりません。
試みられている解決策
この問題を解決するための様々な提案がなされていますが、まだ決定的な解決には至っていません。
完全に受け入れられてはいない
無境界仮説は、非常に影響力のあるアイデアですが、物理学界で完全に受け入れられているわけではありません。
ホーキングの伝記作家の見解
キティ・ファーガソン(科学作家)は、「今日でも物理学の多くの人々は、無境界仮説を他の理論の出発点として使えるような物理学の一部としては受け入れていない」と述べています。
無境界仮説とマルチバース
ホーキングの最後の論文(2018年、死の直前に発表)は、無境界仮説とマルチバース(多元的宇宙)の関係を扱っています。
マルチバースとの関連
無境界仮説は、我々の宇宙以外にも多数の宇宙が存在する「マルチバース」の枠組みと組み合わせることができます。
ホーキングの最後の研究
ホーキングとヘルトグは、無境界仮説を用いてマルチバースの予測を制御しようと試みました。
彼らは、無境界仮説が宇宙の多様性を予測しつつも、その多様性は無限ではなく、ある程度制限されると主張しました。
検証可能性
無境界仮説の大きな課題の1つは、観測によって検証できるかどうかです。
現在のところ、無境界仮説を直接検証する方法は見つかっていませんが、間接的な証拠(宇宙マイクロ波背景放射のパターンなど)は探求され続けています。
まとめ
無境界仮説は、スティーヴン・ホーキングとジェームズ・ハートルが1983年に提唱した、宇宙の始まりに関する革命的な理論です。
主要なポイント
- 宇宙の始まりには境界(特異点)が存在しない
- 時間の始まりより前という概念は意味を持たない
- 虚時間を導入することで、宇宙の始まりを数学的に扱える
- 南極の比喩:南極より南がないように、時間の始まりより前はない
- 宇宙はシャトルコックのような形で、滑らかに始まった
- インフレーションと宇宙マイクロ波背景放射のゆらぎを予測
- 量子力学とファインマンの経路積分を使用
- 宇宙の創造に神の介入は不要と示唆
現代の評価
- 非常に影響力のあるアイデアで、量子宇宙論の分野を生み出した
- 美しく挑発的な理論だが、数学的に曖昧な部分がある
- 2017年に厳しい批判を受けたが、反論も存在する
- 完全に受け入れられてはいないが、研究は続けられている
意義
無境界仮説は、宇宙の起源という最も根源的な問いに対して、物理学だけで答えられる可能性を示しました。
特異点という「物理学が破綻する点」を避けつつ、宇宙の始まりを記述しようとする試みは、たとえ完全には成功していないとしても、人類の知的探求において重要な一歩です。
ホーキング自身も、無境界仮説が最終的な答えだとは考えていませんでしたが、宇宙の始まりを理解するための重要な手がかりであることは間違いありません。

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