量子力学を学んだことがある人なら、シュレーディンガー方程式やハイゼンベルクの行列力学という名前を聞いたことがあるでしょう。
しかし、これらとはまったく異なるアプローチで量子現象を記述する方法があります。
それが、天才物理学者リチャード・ファインマンが開発した「経路積分」(Path Integral)です。
この記事では、経路積分の基本概念から歴史、応用分野まで、中学生でも理解できるよう丁寧に解説します。
経路積分とは何か
経路積分は、量子力学における粒子の運動を記述する理論手法の一つです。
ファインマンの経路積分とも呼ばれています。
従来の量子力学では、粒子の状態を波動関数で表し、その時間発展をシュレーディンガー方程式で記述していました。
一方、経路積分では、粒子が出発点から到着点まで移動する際に「すべての可能な経路」を同時に考慮します。
古典力学との根本的な違い
古典力学では、ボールを投げたときの軌道は一つに決まります。
初期条件(位置と速度)が決まれば、その後の運動は運動方程式によって一意的に定まります。
しかし量子力学では、量子的な不確定性(量子ゆらぎ)が存在するため、一つの軌道に限定することはできません。
経路積分は、この量子的な性質を「無数の経路すべてを考慮する」という形で表現します。
すべての経路を足し合わせる
経路積分の核心的なアイデアは、次のようなものです。
粒子が地点Aから地点Bへ移動するとき、直線経路だけでなく、ジグザグの経路や大きく迂回する経路、さらには宇宙の果てまで行って戻ってくるような奇妙な経路まで、あらゆる経路が存在し得ます。
経路積分では、これらすべての経路に対して「確率振幅」という量を計算し、それらを合計(積分)します。
この合計によって得られる値が、粒子がAからBへ移動する確率を決定します。
各経路の確率振幅は、古典力学の「作用」という量に基づいて計算されます。
経路積分の歴史的背景
経路積分の発展には、複数の物理学者の貢献があります。
ノーバート・ウィーナーの先駆的業務
経路積分の基本的なアイデアは、1920年代初頭にノーバート・ウィーナーが導入した「ウィーナー積分」まで遡ることができます。
ウィーナーは、ブラウン運動や拡散現象を解析するために、この積分法を開発しました。
ブラウン運動とは、液体中の微粒子がランダムに動き回る現象です。
ウィーナー積分は、このようなランダムな経路を数学的に扱う方法を提供しました。
ポール・ディラックの重要な示唆
1933年、イギリスの物理学者ポール・ディラックが、量子力学においてラグランジアンを用いる可能性について論文で示唆しました。
ディラックは、古典力学ではラグランジアンと「作用」が中心的な役割を果たすのに、当時の量子力学ではほとんど使われていないことに注目しました。
彼は、時刻tと時刻t + Δt(Δtは微小)の2つの状態間の遷移振幅が、系のラグランジアンの指数関数に対応するという記述を行いました。
この論文がファインマンに大きなインスピレーションを与えることになります。
リチャード・ファインマンによる完成
リチャード・フィリップス・ファインマンは、1918年にニューヨーク市で生まれました。
1939年にマサチューセッツ工科大学を卒業し、プリンストン大学大学院でジョン・アーチボルド・ホイーラーの指導の下で研究を進めました。
1942年に博士号を取得した後、第二次世界大戦中はマンハッタン計画(原爆開発プロジェクト)に参加しました。
1945年から1950年までコーネル大学で助教授を務め、1950年以降はカリフォルニア工科大学の教授となりました。
ファインマンは、プリンストン大学の大学院生時代にディラックの論文を読み、大きな影響を受けました。
彼は博士論文の予備研究として、経路積分の基礎を築きました。
1948年、ファインマンは経路積分の完全な定式化を発表しました。
この論文「非相対論的量子力学への時空アプローチ」(Space-Time Approach to Non-Relativistic Quantum Mechanics)は、量子力学に革命をもたらしました。
ファインマンは、ディラックの示唆を発展させ、確率振幅を計算する具体的な方法を確立しました。
彼は、この方法がシュレーディンガー方程式や正準交換関係と等価であることを証明しました。
1965年、ファインマンは量子電気力学(QED)の構成における業績により、ジュリアン・シュヴィンガー、朝永振一郎とともにノーベル物理学賞を受賞しました。
経路積分の基本概念
経路積分を理解するために、いくつかの重要な概念を見ていきましょう。
作用と最小作用の原理
古典力学には「最小作用の原理」という美しい法則があります。
「作用」とは、ラグランジアン(運動エネルギーとポテンシャルエネルギーの差)を時間で積分した量です。
最小作用の原理によれば、粒子は無数の可能な経路の中から、作用が最小(より正確には停留値)となる経路を選んで運動します。
これは、光が最短時間の経路を通るフェルマーの原理に似ています。
確率振幅の計算
経路積分では、各経路に対して確率振幅を割り当てます。
経路の確率振幅は、その経路に沿った作用Sを用いて次のように表されます。
exp(iS/ℏ)
ここで、iは虚数単位、ℏ(エイチバー)はプランク定数を2πで割った値です。
この式が示すのは、作用Sが大きく異なる経路は、異なる「位相」を持つということです。
位相とは、複素数で表される振幅の「向き」のようなものです。
すべての経路の合成
経路積分の最も重要な点は、すべての可能な経路からの寄与を合計することです。
数学的には、これは無限次元の積分として表現されます。
直感的には、出発点と到着点を固定したとき、その間を結ぶあらゆる経路を考え、それぞれの確率振幅を足し合わせます。
直線経路、曲がりくねった経路、大きく迂回する経路、すべてが計算に含まれます。
干渉効果と古典経路の優位性
なぜ、現実には粒子が一つの経路(古典的な軌道)を通るように見えるのでしょうか。
答えは「干渉」にあります。
作用が大きく異なる経路は、互いに打ち消し合います。
位相が逆向きの確率振幅を足し合わせると、ゼロに近くなるからです。
結果として、古典的な作用が停留値となる経路の周辺にある経路だけが、実質的に寄与します。
これが、古典力学で予測される軌道が実現する理由です。
マクロな世界では、ℏが非常に小さいため、少しでも古典経路からずれると位相が大きく変化し、干渉によって打ち消されます。
一方、ミクロな量子世界では、複数の経路が有意に寄与し、量子的な干渉効果が観測されます。
二重スリット実験と経路積分
経路積分の考え方を最もよく示す実験が、有名な二重スリット実験です。
二重スリット実験の概要
電子や光子などの粒子を、2つのスリット(細い隙間)が開いた板に向けて発射します。
板の向こうにスクリーンを置くと、粒子が到達した位置を検出できます。
古典的な粒子であれば、各スリットの真後ろに2つの山ができるはずです。
しかし実際には、スクリーン上に多数の明暗の縞模様(干渉縞)が現れます。
これは、粒子が波のような性質を持つことを示しています。
経路積分による説明
経路積分の観点から見ると、この現象は自然に説明できます。
粒子がスクリーンの特定の点に到達する確率振幅は、すべての可能な経路の振幅の合計です。
スリットが2つある場合、主要な経路は2つあります。
スリット1を通る経路と、スリット2を通る経路です。
実際には、各スリットの周辺を通る無数の経路も寄与しますが、簡略化のため2つの主要経路で考えましょう。
これら2つの経路の確率振幅が足し合わされるとき、位相の関係によって強め合ったり弱め合ったりします。
スクリーン上のある点では2つの経路の位相が同じになり、確率振幅が強められます(明るい縞)。
別の点では位相が逆になり、打ち消し合います(暗い縞)。
この考え方を無限個のスリットに拡張したものが、経路積分の本質です。
障害物がない真空では、無限個の「経路」が存在すると考えられます。
経路積分とシュレーディンガー方程式の関係
経路積分は、シュレーディンガー方程式とまったく異なるアプローチに見えますが、実は両者は等価です。
ファインマンは、経路積分からシュレーディンガー方程式を導出できることを示しました。
逆に、シュレーディンガー方程式から経路積分の表式を導くこともできます。
つまり、経路積分は量子力学の新しい「表現」であり、同じ物理を異なる数学的言語で記述したものです。
シュレーディンガー方程式は微分方程式ですが、経路積分は積分方程式です。
問題によっては、経路積分の方が扱いやすい場合があります。
特に、対称性の高い系や、場の量子論では経路積分が威力を発揮します。
経路積分の応用分野
経路積分は、現代物理学の多くの分野で不可欠なツールとなっています。
量子電気力学(QED)
ファインマンがノーベル賞を受賞した量子電気力学では、経路積分が中心的な役割を果たします。
経路積分から導かれる「ファインマン図」は、素粒子の相互作用を視覚的に表現する方法として広く使われています。
ファインマン図の各線は粒子の経路を表し、頂点は相互作用を表します。
複雑な計算も、ファインマン図を描くことで整理でき、直感的に理解できます。
場の量子論
経路積分は、場の量子論の定式化において標準的な手法となっています。
粒子の経路だけでなく、場の配位(フィールドの形)すべてを積分の対象とします。
この「場の経路積分」により、素粒子物理学の標準模型が構築されています。
標準模型は、電磁相互作用、弱い相互作用、強い相互作用を統一的に記述する理論です。
クォーク、レプトン、ゲージボソンの相互作用が、経路積分を用いて精密に計算されます。
統計力学
驚くべきことに、経路積分は統計力学にも応用できます。
時間を虚数時間(imaginary time)に変換すると、量子力学の経路積分が統計力学の分配関数と同じ形になります。
これにより、量子統計力学の問題を経路積分で扱えるようになりました。
温度を含む量子系の性質、例えば超伝導や超流動の理論に経路積分が用いられています。
量子重力理論
現代物理学の最大の課題の一つが、量子力学と一般相対性理論を統合する「量子重力理論」です。
経路積分は、量子重力にアプローチする重要な手法の一つとなっています。
スティーブン・ホーキングらは、経路積分を用いて宇宙の量子状態を記述しようと試みました。
時空の形自体を積分の対象とする「経路積分量子化」が研究されています。
因果的動的三角分割(Causal Dynamical Triangulation)やスピンフォーム模型など、経路積分に基づく量子重力理論が提案されています。
金融工学
意外な応用分野として、金融工学でも経路積分が使われています。
株価や為替レートの変動は、ある種のランダム過程として記述できます。
これは、ブラウン運動に似た性質を持ちます。
経路積分の手法を用いて、金融派生商品(デリバティブ)の価格評価が行われることがあります。
量子コンピューティング
量子コンピューターの理論的基礎にも、経路積分の考え方が関係しています。
量子ビットの状態遷移を経路積分で記述することで、量子計算の仕組みを理解できます。
量子もつれ(エンタングルメント)や量子デコヒーレンス(環境との相互作用による量子性の喪失)の研究にも、経路積分が用いられています。
経路積分の数学的課題
経路積分は物理的直観に富む方法ですが、数学的には難しい問題を抱えています。
測度の問題
経路積分では、無限次元の空間で積分を行います。
通常の積分では、積分する「領域の大きさ」を測る「測度」が明確に定義されています。
しかし、すべての経路からなる空間は無限次元であり、適切な測度を定義するのが困難です。
ファインマン自身も、この点については厳密な数学的定義を与えませんでした。
収束の問題
経路積分の多くは、数学的に厳密には発散(無限大になる)します。
物理学者は、さまざまな正則化(regularization)の技法を用いて、有限の値を引き出します。
例えば、時間を微小な間隔に分割し(time slicing)、最後に間隔をゼロに近づける極限を取ります。
あるいは、時間を虚数に変換する「ウィック回転」を用いることもあります。
数学的厳密化の試み
多くの数学者が、経路積分を数学的に厳密に定式化しようと努力してきました。
特定のポテンシャル(調和振動子など)については、厳密な定義が与えられています。
しかし、一般のポテンシャルに対する普遍的な数学的定義は、今でも研究課題となっています。
それでも、経路積分は物理学において極めて有用なツールであり続けています。
物理的結果は他の方法(シュレーディンガー方程式など)と完全に一致し、実験とも見事に合います。
経路積分に対する批判と反論
経路積分は強力な手法ですが、批判もあります。
「実在性」をめぐる議論
一部の物理学者や哲学者は、経路積分が「実在を表していない」と批判します。
粒子が実際にすべての経路を同時に通るとは考えにくい、という主張です。
経路積分は計算のための形式的手法に過ぎず、物理的実在を記述していないという見方もあります。
しかし多くの物理学者は、経路積分を実在の記述として受け入れています。
量子力学では、観測されていない状態では、粒子は「すべての可能性の重ね合わせ」として存在します。
経路積分は、この量子的重ね合わせを経路の言葉で表現したものと解釈できます。
数学的厳密性の欠如
前述のように、経路積分には数学的に厳密でない側面があります。
一部の数学者は、定義が曖昧なツールを物理理論の基礎に置くことに批判的です。
しかし、物理学の歴史を見ると、数学的厳密性が後から確立されることは珍しくありません。
微積分学も、ニュートンやライプニッツの時代には厳密ではありませんでしたが、その有用性は疑いようがありませんでした。
経路積分も同様に、実用性が数学的厳密性に先行している例と言えます。
経路積分が示す量子世界の本質
経路積分は、単なる計算手法を超えて、量子世界の本質について深い洞察を与えてくれます。
量子的重ね合わせの直感的理解
シュレーディンガーの波動関数は抽象的で、その物理的意味を直感的に理解するのは困難です。
一方、経路積分は「すべての経路を同時に探索する」という比較的分かりやすいイメージを提供します。
粒子は一つの経路を選ぶのではなく、すべての経路を「試している」のです。
これは、量子的重ね合わせの原理を経路の言葉で表現したものです。
確率ではなく確率振幅
量子力学の特異な点は、確率ではなく「確率振幅」という複素数を扱うことです。
確率振幅は位相(複素数の角度)を持ち、干渉を起こします。
経路積分では、各経路が確率振幅を持ち、それらが干渉し合って最終的な確率を決定します。
この干渉効果こそが、量子力学を古典確率論と根本的に区別する特徴です。
非局所性と全体論的視点
経路積分は「大域的」なアプローチです。
シュレーディンガー方程式が局所的な時間発展を記述するのに対し、経路積分は出発点と到着点を結ぶ全体の経路を考えます。
この全体論的(ホリスティック)な視点は、量子もつれなどの非局所的な量子現象を理解する上で有用です。
離れた場所にある粒子が瞬時に影響し合うように見える量子もつれも、経路積分の枠組みでは自然に記述できます。
ファインマンの哲学と経路積分
ファインマンは、物理理論は美しく、直感的であるべきだと考えていました。
経路積分は、彼のこの哲学を体現しています。
ファインマンは、エネルギー準位や演算子といった抽象的な概念に頼らず、経路という具体的なイメージで量子力学を記述しようとしました。
彼は著書『量子力学と経路積分』の中で、「エネルギー準位があるのにもかかわらずエネルギー準位に触れないようにすることの唯一の弁明は、そうすることによって物理過程の深い理解が得られるのではないかという期待である」と述べています。
経路積分は、量子力学を学ぶ学生に、より直感的な理解の道を開きました。
また、新しい問題にアプローチする柔軟な思考法を物理学者に提供しました。
まとめ
経路積分は、リチャード・ファインマンが1948年に発表した量子力学の革新的な定式化です。
古典力学では一つに決まる粒子の軌道が、量子力学では「すべての可能な経路」の重ね合わせとして記述されます。
各経路は確率振幅を持ち、それらを合計(積分)することで、粒子の量子的な振る舞いが決まります。
経路積分の基本原理は以下の通りです。
- 粒子が2点間を移動する際、無数の可能な経路が存在する。
- 各経路に、古典的作用に基づく確率振幅exp(iS/ℏ)を割り当てる。
- すべての経路の確率振幅を足し合わせる(経路積分)。
- 干渉効果により、古典的な経路の周辺が主要な寄与を与える。
経路積分は、シュレーディンガー方程式や行列力学と等価ですが、異なる視点を提供します。
量子電気力学、場の量子論、統計力学、量子重力など、現代物理学の広範な分野で不可欠なツールとなっています。
ファインマン図、素粒子物理学の標準模型、量子コンピューティングの理論など、経路積分に基づく多くの発展がありました。
数学的厳密性については課題が残るものの、その物理的有用性は疑いようがありません。
経路積分は、量子世界の不思議な性質(重ね合わせ、干渉、非局所性)を、直感的に理解するための優れた枠組みを提供してくれます。
「粒子はすべての可能性を同時に探索する」という経路積分の考え方は、ミクロな世界の本質を垣間見せてくれる、まさに物理学の宝石と言えるでしょう。

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