「ブラックホールは光さえも飲み込んで、何も出てこない」という常識を覆す発見が、1974年にイギリスの物理学者スティーヴン・ホーキングによってなされました。
それが「ホーキング放射」です。
この理論によれば、ブラックホールは実は真っ黒ではなく、ごくわずかな放射を出しながら、最終的には「蒸発」して消えてしまうというのです。
この記事では、ホーキング放射とは何か、どのような仕組みで起こるのか、そしてどんな意味を持つのかを、わかりやすく解説します。
ホーキング放射とは
ホーキング放射とは、ブラックホールから放出される熱的な放射のことです。
英語では「Hawking radiation」と表記され、日本語では「ホーキング輻射(ふくしゃ)」とも呼ばれます。
また、この現象の理論的基礎を築いたヤコブ・ベッケンシュタインの名前を取って「ベッケンシュタイン・ホーキング輻射(Bekenstein-Hawking radiation)」と呼ぶこともあります。
提唱者と発見の背景
1974年、イギリスの理論物理学者スティーヴン・ホーキング(1942-2018)が、ブラックホールに量子力学の効果を適用して計算を行った結果、驚くべき結論に達しました。
それまでブラックホールは、一般相対性理論に基づいて「あらゆるものを吸い込み、何も出てこない天体」と考えられていました。
しかしホーキングは、量子効果を考慮すると、ブラックホールが熱的な放射を出すことを示したのです。
この発見は、理論物理学界に大きな衝撃を与え、ブラックホールと熱力学、量子力学との深い関係を明らかにしました。
ブラックホールとは
ホーキング放射を理解するために、まずブラックホールについて簡単に説明します。
ブラックホールの基本的な性質
ブラックホールは、非常に強い重力を持つ天体です。
その重力があまりにも強力なため、光でさえも脱出できません。
この「光も逃げられない境界」を「事象の地平面(じしょうのちへいめん)」または「事象の地平線」と呼びます。
ブラックホールの形成
ブラックホールは、主に以下のような過程で形成されます。
- 恒星の重力崩壊: 太陽の30倍以上の質量を持つ星が、超新星爆発後も重力崩壊を続け、その半径が事象の地平線を越えて小さくなったときにブラックホールになります
- 銀河中心の巨大ブラックホール: 多くの銀河の中心部には、太陽の数百万倍から数十億倍の質量を持つ巨大なブラックホールが存在します
ホーキング放射が起こる仕組み
ホーキング放射は、量子力学と一般相対性理論を組み合わせることで説明されます。
真空のゆらぎ
量子力学では、真空は「何もない空間」ではありません。
実は真空中では、「仮想粒子」と呼ばれる粒子と反粒子のペアが絶えず生成と消滅を繰り返しています。
これを「真空のゆらぎ」といいます。
通常、これらの粒子ペアは生成された直後にすぐに再び合体して消滅するため、私たちが観測することはできません。
事象の地平面付近での粒子対生成
ブラックホールの事象の地平面のすぐ近くで、この粒子と反粒子のペアが生成されたとします。
このとき、以下のような現象が起こります。
- 粒子と反粒子のペアが事象の地平面付近で生成される
- ペアの片方(負のエネルギーを持つ粒子)がブラックホールの中に落ち込む
- もう片方(正のエネルギーを持つ粒子)が外に向かって飛び出す
- 外に飛び出した粒子は、実在の粒子として観測される
ブラックホールのエネルギー損失
外に飛び出した粒子は、エネルギーを持っています。
このエネルギーは、ブラックホール自身の質量エネルギーから供給されます。
(アインシュタインの式E=mc²により、質量とエネルギーは等価です)
そのため、ホーキング放射によって粒子が外に出るたびに、ブラックホールは少しずつ質量を失っていきます。
遠くから見ると
この一連の過程を遠くから観測すると、まるでブラックホールが粒子を放射しているように見えます。
これがホーキング放射です。
ホーキング放射の特徴
ホーキング放射には、いくつかの重要な特徴があります。
黒体放射として振る舞う
ホーキング放射は、「黒体放射」と呼ばれる熱的な放射として振る舞います。
黒体放射とは、温度を持つ物体が放出する電磁波のことで、その放射スペクトルは温度だけで決まります。
温度は質量に反比例する
ブラックホールの絶対温度Tは、以下の関係式で表されます。
T ∝ ℏc³ / (8πGMk)
ここで:
- ℏ はプランク定数
- c は光速
- G は万有引力定数
- M はブラックホールの質量
- k はボルツマン定数
この式から、ブラックホールの質量が小さいほど、温度が高くなることがわかります。
実際の温度
では、実際のブラックホールの温度はどのくらいでしょうか。
- 太陽質量のブラックホール: 約10⁻⁷K(約0.0000001K)という極めて低い温度
- 超大質量ブラックホール(太陽質量の100億倍): さらに低温
- 宇宙背景放射の温度: 約3K
現在の宇宙では、通常のブラックホールの温度は宇宙背景放射(約3K)よりもはるかに低いため、実質的にはブラックホールは周囲から熱を吸収する方が多く、ホーキング放射による質量減少は観測できません。
ただし、もし質量が非常に小さいブラックホールが存在すれば、話は違ってきます。
- 10⁹g(10億グラム)のブラックホール: 温度は約10¹⁷Kに達し、ガンマ線で明るく輝きます
ブラックホールの蒸発
ホーキング放射が続くと、ブラックホールは徐々に質量を失っていきます。
蒸発のプロセス
- ブラックホールがホーキング放射を出す
- 放射によってエネルギーを失い、質量が減少する
- 質量が減ると温度が上がる(質量と温度は反比例の関係)
- 温度が上がると、より多くの放射を出すようになる
- さらに質量が減少する
- このプロセスが加速度的に進む
蒸発にかかる時間
ブラックホールが完全に蒸発するまでの時間は、その質量によって大きく異なります。
- 太陽質量のブラックホール: 約10⁶⁷年
- 超大質量ブラックホール(太陽質量の1000億倍): 約2×10¹⁰⁰年
これらの時間は、現在の宇宙の年齢(約138億年)に比べて途方もなく長い時間です。
そのため、現実的には既存の大質量ブラックホールが蒸発することは考えにくいといえます。
最終段階
ブラックホールの質量がプランク質量(約10⁻⁵g)程度まで小さくなると、量子重力理論が必要になります。
この最終段階で何が起こるかは、まだ完全には理解されていません。
ブラックホールが完全に消滅するのか、何か残留物が残るのかについては、現在も研究が続けられています。
原始ブラックホール
宇宙初期に何らかの物理機構で形成された小さなブラックホールを「原始ブラックホール(Primordial Black Hole: PBH)」と呼びます。
原始ブラックホールの特徴
原始ブラックホールは、恒星の崩壊ではなく、宇宙の初期の密度ゆらぎによって形成されたと考えられています。
もし宇宙初期に質量10¹²kg以下の原始ブラックホールが形成されていたとすれば、ホーキングの推定によれば、それらは現在までに完全に蒸発してしまっているはずです。
暗黒物質候補としての可能性
原始ブラックホールは、宇宙の暗黒物質(ダークマター)の候補の一つとして考えられています。
もし現在も原始ブラックホールが宇宙空間に漂っているなら、ホーキング放射やその他の天体物理現象を引き起こす可能性があります。
しかし、これまでのところ、小質量ブラックホールからのガンマ線放射は検出されていません。
ホーキング放射の実験的検証
実際のブラックホールでホーキング放射を観測することは、ほぼ不可能です。
しかし、「人工ブラックホール」を使った実験で、ホーキング放射に似た現象が確認されています。
2016年の実験
2016年、イスラエルのテクニオン・イスラエル工科大学の実験物理学者ジェフ・スタインハウアー(Jeff Steinhauer)が、人工ブラックホールを使った実験を発表しました。
この実験では:
- 音速以上に物質を加速させることで「音響的な事象の地平面」を再現
- そこに一対のフォノン(音の量子)を発生させる
- 一方は事象の地平面に吸い込まれ、もう一方は放射されるように移動する
- ホーキング放射と同様に見える現象を確認
この実験は、ホーキング放射の理論を支持する重要な証拠の一つとなりました。
Unruhの提案(1980年代)
カナダのブリティッシュ・コロンビア大学の物理学者ウィリアム・アンルー(William Unruh)は、1980年代初頭に、ホーキングの予想を検証する方法を提案しました。
滝のある川を例にすると、滝に近づくと水の流れが加速するため、ある点を超えると流れに逆らえなくなります。
同様に、音波が伝わる媒質中で流速が音速以上になる点は、事象の地平面と等価になります。
この考え方に基づいて、様々な実験が行われてきました。
ブラックホール情報パラドックス
ホーキング放射は、物理学における重要な問題「ブラックホール情報パラドックス」を引き起こしました。
パラドックスの内容
- 情報の保存: 量子力学では、情報は決して失われないという原則(ユニタリ性)があります
- ホーキング放射の性質: ホーキング放射は完全に熱的であり、ブラックホールに落ち込んだ物質の情報を含んでいないように見えます
- 矛盾: ブラックホールが蒸発してしまうと、元々ブラックホールに落ち込んだ物質の情報はどこに行ってしまうのでしょうか
具体例
たとえば、ブラックホールに本を投げ込んだとします。
本がブラックホールの内部にとどまっている間は問題ありません。
しかし、ホーキングの主張するようにブラックホールが蒸発して消えてしまうと、本に書かれていた情報はいったいどこに行ってしまったのでしょうか。
現在の研究状況
この問題については、様々な解決策が提案されています。
- ホーキング放射に実は情報が含まれているという説
- ブラックホールの蒸発後に何らかの残留物が残り、そこに情報が保存されているという説
- 事象の地平面を通過する際に、情報が外に出るホーキング放射に転写されるという説
2004年、ホーキング自身が、情報は失われないという立場に転換しました。
しかし、具体的にどのように情報が保存されるのかについては、現在も活発な研究が続けられています。
最新の研究(2023年)
2023年、オランダのラドバウド大学の研究チームが、ホーキング放射に関する新しい研究成果を発表しました。
研究の内容
この研究によれば:
- ホーキング放射は、事象の地平面だけでなく、そこから遠く離れた場所でも起こる可能性がある
- 重力と時空の曲がりそのものが、この放射を引き起こす
- これは、事象の地平面を持たない天体(中性子星の残骸など)でも、同様の放射が起こる可能性を示唆する
意味するところ
もしこの理論が正しければ、宇宙のあらゆる大きな天体が、非常に長い時間をかけて最終的には「蒸発」してしまう可能性があります。
これは、宇宙の最終的な運命についての私たちの理解を変える可能性があります。
ただし、この研究については議論が続いており、1975年の文献ですでに否定されていたという指摘もあります。
ホーキング放射の物理学的意義
ホーキング放射は、現代物理学において非常に重要な位置を占めています。
量子力学と一般相対性理論の統合
ホーキング放射は、量子力学と一般相対性理論という、現代物理学の二つの柱を結びつける現象です。
通常、量子力学はミクロな世界を記述し、一般相対性理論はマクロな世界(重力や宇宙)を記述します。
しかし、ブラックホールの事象の地平面付近では、両者を同時に考慮する必要があります。
ブラックホール熱力学
ホーキング放射の発見により、ブラックホールと熱力学との深い関係が明らかになりました。
ブラックホールには:
- 温度(ホーキング温度)
- エントロピー(ベッケンシュタイン-ホーキングエントロピー)
といった熱力学的な量が定義でき、熱力学の法則に従うことがわかっています。
量子重力理論への示唆
ホーキング放射は、まだ完成していない「量子重力理論」に対する重要な手がかりを提供しています。
量子重力理論とは、量子力学と一般相対性理論を統一する理論のことです。
ホーキング放射の完全な理解には、この理論が必要であり、逆にホーキング放射を正しく説明できることが、量子重力理論の妥当性を判断する基準の一つとなっています。
まとめ
ホーキング放射は、1974年にスティーヴン・ホーキングが提唱した、ブラックホールからの熱的な放射現象です。
量子力学的な真空のゆらぎにより、ブラックホールの事象の地平面付近で粒子と反粒子のペアが生成され、片方がブラックホールに落ち込み、もう片方が外に放射されます。
この過程により、ブラックホールは徐々に質量を失い、最終的には「蒸発」して消滅すると考えられています。
ホーキング放射の温度は、ブラックホールの質量に反比例します。
そのため、質量の小さいブラックホールほど高温になり、より速く蒸発します。
しかし、現実の宇宙に存在する恒星質量や超大質量のブラックホールの温度は極めて低く、宇宙背景放射よりも低温です。
そのため、これらのブラックホールが実際に蒸発するには、宇宙の現在の年齢よりもはるかに長い時間(10⁶⁷年以上)が必要です。
ホーキング放射は、量子力学と一般相対性理論を結びつけ、ブラックホール情報パラドックスという深遠な問題を提起しました。
この現象の完全な理解には、量子重力理論の完成が必要とされており、現代物理学の最前線の研究テーマとなっています。
2016年には人工ブラックホールを使った実験で、ホーキング放射に似た現象が確認され、理論を支持する証拠が得られました。
また2023年の研究では、事象の地平面以外でも同様の放射が起こる可能性が示唆されています。
ホーキング放射の研究は、ブラックホールの性質だけでなく、宇宙の最終的な運命や、物理学の根本原理についての理解を深める上で、今後も重要な役割を果たすと期待されています。
参考情報
- ホーキング放射 – Wikipedia
- Hawking radiation – Wikipedia
- ホーキング放射 | 天文学辞典
- 人工ブラックホールで「ホーキング放射」を確認 – Nature ダイジェスト
- 全ての物質はやがて蒸発する? ブラックホール以外でもホーキング放射が起こる可能性 – sorae
- Black hole evaporation: Theoretical study proves Stephen Hawking partially correct – Phys.org
※この記事は2026年2月6日時点の情報に基づいています

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