AIや機械学習という言葉を聞いたことがある方は多いでしょう。画像認識や音声認識、文章生成など、AIは私たちの生活のあらゆる場面で活躍しています。
しかし、通常のAI(ニューラルネットワーク)には、実は苦手な分野があるんです。それが「波のような周期的な動き」や「回転」を扱うこと。
例えば:
- レーダーや通信で使われる電波の信号
- 地震波の解析
- MRI(磁気共鳴画像装置)の医療画像
- 音声や音楽の周波数分析
これらの分野では、データが「波」の形で表現されることが多く、通常のAIではうまく処理できないことがありました。
そこで登場したのが「複素数値ニューラルネットワーク(Complex-Valued Neural Network、略してCVNN)」です。この技術は、数学の「複素数」という考え方を使って、波や回転の情報を自然に扱えるようにしたものです。
この記事では、複素数値ニューラルネットワークの仕組みから応用分野まで、初心者の方にもわかりやすく解説していきます。
複素数値ニューラルネットワークとは?

複素数値ニューラルネットワーク(CVNN)とは、通常のニューラルネットワークを「複素数」という特殊な数で拡張したものです。
通常のニューラルネットワークとの違い
通常のニューラルネットワーク(実数値ニューラルネットワーク)
- 使う数:普通の数(実数)だけ
- 例:1、2.5、-3.7 など
複素数値ニューラルネットワーク
- 使う数:複素数(実数+虚数)
- 例:3 + 4i のような数
「複素数って何?」と思った方も心配いりません。次のセクションで丁寧に説明します。
一言で言うと
複素数値ニューラルネットワークは、「振幅(大きさ)」と「位相(角度・タイミング)」の両方の情報を同時に扱えるAIです。
通常のAIが「縦と横」の2次元を別々に処理するのに対し、複素数値ニューラルネットワークは「回転する矢印」のように、2次元の情報をひとまとめに処理できるんです。
【基礎知識】複素数って何?
複素数値ニューラルネットワークを理解するには、まず「複素数」を知る必要があります。難しく聞こえるかもしれませんが、実はそれほど複雑ではありません。
複素数の基本
複素数は、次のような形で表される数です:
a + bi
ここで:
- a:実数部分(普通の数)
- b:虚数部分
- i:虚数単位(i × i = -1 という特殊な数)
例
- 3 + 4i
- 2 – i
- 5i(実数部分が0)
複素数の視覚的イメージ
複素数は、「平面上の点」または「矢印」として視覚化できます。
- 実数部分(a):横軸(x軸)の位置
- 虚数部分(b):縦軸(y軸)の位置
たとえば、「3 + 4i」という複素数は:
- 横に3、縦に4進んだ位置にある点
- または、原点から(3, 4)の位置に向かう矢印
として表現できます。
なぜ複素数が役立つのか?
複素数の最大の特徴は「回転を簡単に表現できること」です。
複素数に「i」を掛けると、90度回転します:
- 3 + 4i に i を掛けると → -4 + 3i(90度回転)
- もう一度 i を掛けると → -3 – 4i(180度回転)
- さらに i を掛けると → 4 – 3i(270度回転)
- もう一度 i を掛けると → 3 + 4i(360度回転して元に戻る)
この性質により、複素数は「回転」や「周期的な動き」を自然に表現できるのです。
波と複素数の関係
波(例:音波、電波、光)は、振幅(波の高さ)と位相(波のずれ)という2つの要素で表現されます。
複素数では:
- 振幅:矢印の長さ
- 位相:矢印の角度
この2つを一つの複素数で表現できるため、波の情報を扱うのに非常に便利なのです。
複素数値ニューラルネットワークの仕組み

では、複素数値ニューラルネットワークはどのように動くのでしょうか?通常のニューラルネットワークと比較しながら見ていきましょう。
通常のニューラルネットワークの基本構造
通常のニューラルネットワークは、以下の要素で構成されています:
- 入力層:データを受け取る
- 隠れ層:データを処理する(複数層あることも)
- 出力層:結果を出力する
各層の間には「重み」というパラメータがあり、この重みを調整することで学習が行われます。
計算式:
出力 = 活性化関数( 入力 × 重み + バイアス )
複素数値ニューラルネットワークの構造
複素数値ニューラルネットワークも基本的な構造は同じですが、すべてが複素数になります:
- 入力:複素数
- 重み:複素数
- 出力:複素数
- 活性化関数:複素関数
計算式:
複素数の出力 = 複素活性化関数( 複素数の入力 × 複素数の重み + 複素数のバイアス )
複素数の掛け算
複素数値ニューラルネットワークで重要なのは、複素数同士の掛け算です。
複素数 z = a + bi と 複素数 w = c + di を掛けると:
z × w = (ac - bd) + (ad + bc)i
実数部分と虚数部分に分けると:
- 実数部分 = ac – bd
- 虚数部分 = ad + bc
この計算により、複素数値ニューラルネットワークは、実数部分と虚数部分が互いに影響し合いながら情報を処理します。
スプリット型活性化関数
複素数値ニューラルネットワークの活性化関数には、いくつかの種類があります。最も一般的なのが「スプリット型」です。
スプリット型では:
- 実数部分に対して活性化関数を適用
- 虚数部分に対して活性化関数を適用
- それぞれを独立に処理
例:
f(z) = f(a + bi) = tanh(a) + tanh(b)i
ここで、tanh(ハイパボリックタンジェント)は、-1から1の間に値を収める関数です。
複素数値ニューラルネットワークの利点
複素数値ニューラルネットワークには、通常のニューラルネットワークにはない多くの利点があります。
利点1:周期的な動きを自然に表現できる
複素数は回転を表現するのに適しているため、周期的なパターンを学習するのが得意です。
例:円の動きを学習
- 通常のニューラルネットワーク:円の動きを学習するのが難しい
- 複素数値ニューラルネットワーク:円周上の点を自然に表現できる
これは、複素数の掛け算が「回転」を表すためです。
利点2:回転や拡大・縮小に強い
複素数値ニューラルネットワークは、画像の回転や拡大・縮小に対して強い耐性(ロバスト性)を持ちます。
通常のニューラルネットワークが苦手とする「シフト移動」や「回転」も、複素数値ニューラルネットワークなら上手く扱えます。
利点3:学習速度が速い
実験によると、複素数値ニューラルネットワークは通常のニューラルネットワークに比べて:
- 学習速度が2〜3倍速い
- 必要なパラメータ(重みとバイアス)の数が約半分で済む
これは、複素数が実数部分と虚数部分の2つの情報を同時に処理できるためです。
利点4:直交する決定境界
複素数値ニューラルネットワークの決定境界(データを分類する境界線)は、互いに直交(90度で交わる)します。
この性質により:
- より複雑なパターンを少ないニューロンで表現できる
- 汎化性能(未知のデータに対する予測精度)が向上する
例えば、XOR問題(排他的論理和)のように、通常のニューラルネットワークでは1つのニューロンでは解けない問題も、複素数値ニューラルネットワークなら1つの複素ニューロンで解けます。
利点5:位相情報を直接扱える
波のデータには「振幅」だけでなく「位相(タイミングのずれ)」も重要です。
複素数値ニューラルネットワークは、この位相情報を直接扱えるため:
- 通信信号の解析
- 音声処理
- レーダー画像処理
などの分野で、より高い精度を実現できます。
複素数値ニューラルネットワークの応用分野
複素数値ニューラルネットワークは、さまざまな分野で実用化が進んでいます。
応用1:通信・信号処理
無線通信
- 電波の信号は複素数で表現されることが多い
- チャネル推定(電波の状態予測)
- 信号の復調(受信した信号からデータを取り出す)
レーダー技術
- SAR(合成開口レーダー)画像の解析
- 物体の検出と分類
- 地表の地形分類
応用2:医療画像処理
MRI(磁気共鳴画像装置)
- MRIデータは本質的に複素数
- 画像の再構成をより高速・高精度に
- ノイズ除去
超音波画像
- エコー信号の処理
- 血流の可視化
応用3:音声・音響処理
音声認識
- 音声信号の周波数分析にフーリエ変換を使うため、複素数が自然に現れる
- より高精度な音声認識
音源分離
- 複数の音源が混ざった信号から、個別の音を取り出す
- カクテルパーティー問題の解決
ノイズ除去
- 音声や音楽からノイズを取り除く
応用4:画像処理
画像のセグメンテーション
- 画像を意味のある領域に分割
- 衛星画像の解析
画像の超解像
- 低解像度の画像を高解像度にする
位相画像の処理
- 干渉計で得られる位相画像の解析
応用5:量子コンピューティング
量子コンピュータの状態は複素数で表現されるため、複素数値ニューラルネットワークとの相性が良いです。
- 量子状態の予測
- 量子回路の最適化
応用6:制御システム
風力発電の予測
- 風向きと風速は複素数で表現できる
- 発電量の予測精度向上
ロボット制御
- 3次元空間での回転を扱う(四元数ニューラルネットワークにも発展)
応用7:脳波(EEG)・心電図(ECG)の解析
睡眠段階の予測
- 脳波信号の周波数成分を分析
- 睡眠の深さを自動判定
心臓病の診断
- 心電図の複雑なパターンを学習
応用8:ディープフェイク検出
偽造動画や音声の検出において、位相情報を活用することで、より高精度な検出が可能になります。
複素数値ニューラルネットワークの実装
複素数値ニューラルネットワークを実際に使うには、どうすればいいのでしょうか?
実装上の課題
複素数値ニューラルネットワークの実装には、いくつかの課題があります:
- 活性化関数の設計
- 複素数に対する適切な活性化関数の選択
- 有界性(値が無限大にならない)と正則性(微分可能性)のトレードオフ
- 誤差逆伝播法の拡張
- 学習に使われる誤差逆伝播法を複素数に拡張する必要がある
- 複素微分(Wirtinger微分)の理解が必要
- 計算コスト
- 複素数の演算は実数の約2倍のメモリと計算量が必要
利用可能なライブラリとツール
現在、複素数値ニューラルネットワークを実装するためのライブラリが開発されています:
Python
- cvnn:複素数値ニューラルネットワーク専用ライブラリ
- Complex Layers in TensorFlow/Keras:TensorFlowやKerasで複素数層を実装
- PyTorch Complex:PyTorchでの複素数サポート
実装例の流れ
- データの準備(複素数形式に変換)
- 複素数値ネットワークの定義
- 学習(複素数対応の最適化手法を使用)
- 評価と予測
光学ニューラルチップ
最近の研究では、光を使った「光学ニューラルチップ」も開発されています。
光は本質的に複素数(振幅と位相)で表現されるため、複素数値ニューラルネットワークを物理的に実装するのに適しています。
利点:
- 超高速な計算
- 低消費電力
- 複素数演算が自然にできる
複素数値ニューラルネットワークの歴史と発展
複素数値ニューラルネットワークの研究は、意外と長い歴史があります。
黎明期(1980年代〜1990年代)
複素数値ニューラルネットワークの研究は、1980年代後半から始まりました。
当初の課題は「複素数に対する適切な活性化関数をどう設計するか」でした。
実数の活性化関数(例:tanh、sigmoid)を複素数に拡張しようとしましたが、数学的な制約(リューヴィルの定理)により、有界かつ正則な複素関数は定数しか存在しないことが分かりました。
このため、研究者たちは正則性を諦め、実用的な活性化関数を開発しました。
発展期(2000年代〜2010年代)
2000年代に入ると、複素数値ニューラルネットワークの理論が整備され、実用化が進みました。
主な成果:
- 複素ヘブ則の確立
- 複素自己組織化マップ(CSOM)の開発
- 通信やレーダーへの応用
現在(2020年代)
ディープラーニングブームとともに、複素数値ニューラルネットワークも注目を集めています。
最新の動向:
- 深層複素数値ニューラルネットワーク
- Transformerの複素数版
- 光学チップでのハードウェア実装
- 医療画像への本格的な応用
高次元への拡張
複素数の次は「四元数(quaternion)」です。
四元数ニューラルネットワークは、3次元の回転を扱うのに適しており、ロボティクスやコンピュータグラフィックスへの応用が期待されています。
さらに高次元では「クリフォード代数」を使ったニューラルネットワークの研究も進んでいます。
よくある質問
Q1:複素数値ニューラルネットワークは通常のニューラルネットワークより常に優れているのですか?
いいえ、すべての問題で優れているわけではありません。
複素数値ニューラルネットワークが特に有効なのは:
- データが本質的に複素数で表現される場合(MRI、レーダー、通信信号など)
- 周期的なパターンや回転を扱う問題
- 位相情報が重要な場合
これらに当てはまらない問題では、通常の実数値ニューラルネットワークの方が適していることもあります。
Q2:複素数の知識がないと使えませんか?
基本的な複素数の知識は必要ですが、深い数学的理解がなくても、既存のライブラリを使えば実装できます。
ただし、より効果的に使いこなすには:
- 複素数の基本(実部、虚部、振幅、位相)
- 複素数の四則演算
- 複素平面の概念
を理解しておくと良いでしょう。
Q3:実装は難しいですか?
最近では、使いやすいライブラリが整備されてきているため、通常のニューラルネットワークを実装できる人なら、比較的容易に始められます。
主な違いは:
- データ型を複素数に変更
- 複素数対応のレイヤーや活性化関数を使用
- 損失関数の定義に注意(実数値でなければならない)
Q4:GPUで高速化できますか?
はい、できます。ただし、複素数演算のGPUサポートは、実数演算ほど最適化されていない場合があります。
最近のディープラーニングフレームワークでは、複素数演算のGPU対応が進んでいます。
Q5:どんなデータに適していますか?
以下のようなデータに特に適しています:
- 周波数領域のデータ(フーリエ変換後のデータ)
- 位相情報を含むデータ
- 周期的なパターンを持つデータ
- 回転や移動に対する不変性が必要なデータ
Q6:複素数値ニューラルネットワークの学習は難しいですか?
学習の基本原理は通常のニューラルネットワークと同じです(誤差逆伝播法)。
違いは:
- 複素微分(Wirtinger微分)を使う
- 勾配計算が若干複雑
しかし、ライブラリがこれらを自動で処理してくれるため、使用者が意識する必要はほとんどありません。
まとめ:複素数値ニューラルネットワークの可能性
複素数値ニューラルネットワークは、通常のニューラルネットワークでは扱いにくかった「波」や「回転」といった情報を、自然に処理できる技術です。
主な特徴:
- 複素数(実部+虚部)を使ってデータを表現
- 振幅と位相の両方を直接扱える
- 周期的なパターンや回転に強い
- 学習が速く、パラメータ数が少ない
適用分野:
- 通信・信号処理(レーダー、無線通信)
- 医療画像(MRI、超音波)
- 音声・音響処理
- 画像処理と分析
- 量子コンピューティング
- 制御システム
課題と展望:
- フレームワークのサポートはまだ発展途上
- 特定の問題には非常に有効だが、万能ではない
- 今後、通信、医療、音声処理の分野で商用化が進む
- 市場は今後10年で大きく成長する見込み
複素数値ニューラルネットワークは、まだ発展途上の技術ですが、特定の分野では従来の手法を大きく上回る性能を発揮します。今後、5G/6G通信、高度な医療診断、リアルタイム信号処理など、さまざまな場面で実用化が進むでしょう。
AIや機械学習に興味がある方、特に信号処理や画像処理の分野で仕事をしている方は、この技術に注目してみる価値があります。複素数という一見難しそうな概念も、理解してみれば非常に強力なツールであることが分かるはずです。
技術の進歩とともに、使いやすいツールやライブラリも整備されていくでしょう。複素数値ニューラルネットワークは、次世代のAI技術の重要な柱の一つになる可能性を秘めています。

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