スマートフォンの音声処理、画像編集、AIの計算など、私たちが日常的に使うデジタル機器の多くは、高速な演算処理を必要とします。
その中心的な役割を果たしているのが「MACユニット」です。
MACユニットは、デジタル信号処理(DSP)やAI処理において欠かせない演算装置です。
この記事では、MACユニットの基本的な仕組みから、実際にどのような場面で使われているのかまで、詳しく解説します。
MACユニットとは

MACユニットは「Multiply-Accumulate Unit(マルチプライ・アキュムレート・ユニット)」の略で、日本語では「積和演算ユニット」または「乗累算ユニット」と呼ばれます。
名前の通り、以下の2つの演算を組み合わせた処理を行うハードウェアです。
- Multiply(乗算):2つの数を掛け算する
- Accumulate(累積):計算結果を累積的に足していく
基本的な演算式
MACユニットが実行する基本的な演算は、以下の式で表されます。
A = A + (X × Y)
この式は次のような意味です。
- XとYを掛け算する(乗算)
- その結果をAに加算する(累積)
- 新しい結果をAに格納する
例えば、以下のような計算を繰り返し行います。
最初: A = 0
1回目: A = 0 + (2 × 3) = 6
2回目: A = 6 + (4 × 5) = 26
3回目: A = 26 + (1 × 7) = 33
この単純に見える演算が、実はデジタル信号処理において最も頻繁に使われる計算です。
なぜMACユニットが重要なのか
デジタル信号処理やAI計算では、積和演算が膨大な回数実行されます。
使用頻度の高さ
以下のような処理では、積和演算が中心的な役割を果たします。
- デジタルフィルタ(FIRフィルタ):音声や画像のノイズ除去
- 畳み込み演算:画像処理やディープラーニング
- 行列演算:科学計算やグラフィックス処理
- 相関演算:信号の類似度判定
- FFT(高速フーリエ変換):周波数解析
これらの処理では、数千回から数百万回以上の積和演算が必要になります。
性能指標としての重要性
プロセッサの性能を測る指標として「1秒間に何回の積和演算ができるか」が使われることがあります。
- MMACS:メガ積和演算/秒(百万回/秒)
- GMACS:ギガ積和演算/秒(十億回/秒)
- TMACS:テラ積和演算/秒(一兆回/秒)
現代のAIプロセッサでは、数テラMACS以上の性能が求められることもあります。
MACユニットの構造
MACユニットは、主に以下の3つのコンポーネントで構成されています。
1. 乗算器(Multiplier)
2つの入力値(XとY)を受け取り、その積(X × Y)を計算します。
DSP向けのMACユニットでは、1クロックサイクルで乗算を完了できる高速な乗算器が使用されます。
2. 加算器(Adder)
乗算器の結果と、アキュムレータに保存されている値を加算します。
3. アキュムレータ(Accumulator)
累積結果を保存する専用のレジスタです。
通常の汎用レジスタよりも大きなビット幅(例:48ビットや64ビット)を持つことが多く、オーバーフローを防ぎます。
ハードウェアの特徴
効率的なMACユニットには、以下のような特徴があります。
1クロックでの実行
優れたDSPでは、1クロックサイクルで1回の積和演算を完了できます。
これにより、クロック周波数がそのまま積和演算性能になります。
ハーバード・アーキテクチャ
データメモリとプログラムメモリを分離し、2つの入力データ(XとY)を同時に読み込めるようにします。
パイプライン処理
複数の積和演算を並列的に処理し、スループットを向上させます。
DSPとMACユニット
DSP(Digital Signal Processor、デジタル信号プロセッサ)は、信号処理に特化したプロセッサです。
DSPの定義として「1クロックで連続的に積和演算ができるプロセッサ」という考え方があります。
DSPの特徴
一般的なCPU(汎用プロセッサ)と比較して、DSPには以下のような特徴があります。
| 特徴 | 一般的なCPU | DSP |
|---|---|---|
| 積和演算 | 複数クロック必要 | 1クロックで実行可能 |
| メモリアーキテクチャ | ノイマン型(統合) | ハーバード型(分離) |
| 専用命令 | 汎用的 | 信号処理特化 |
| 主な用途 | 汎用計算 | 音声・画像・通信処理 |
DSPの応用分野
DSPとMACユニットは、以下のような製品に組み込まれています。
- オーディオ機器(CDプレーヤー、スピーカー、ヘッドホン)
- 通信機器(スマートフォン、モデム、基地局)
- 画像処理機器(デジタルカメラ、ビデオカメラ)
- 自動車(エンジン制御、音響システム)
- 医療機器(超音波診断装置、心電計)
汎用プロセッサでのMAC機能
DSP専用チップだけでなく、汎用プロセッサにもMACユニットが搭載されることが増えています。
CPUでの実装例
ARM プロセッサ
組み込み用途を想定し、積和演算回路を標準搭載しています。
ARM命令セットには、以下のようなMAC命令があります。
- MLA命令:32ビット積和演算
- UMLAL/SMLAL命令:32ビット×32ビット→64ビット積和演算
Intel/AMD プロセッサ
x86系プロセッサでは、FMA(Fused Multiply-Add)命令セットとして実装されています。
AVX2、AVX-512などのSIMD拡張命令で利用可能です。
その他のプロセッサ
- SuperH:積和演算専用レジスタを搭載
- PowerPC:FMA命令をネイティブサポート
- Itanium:高精度FMA命令を実装
GPUでのMAC演算
GPU(Graphics Processing Unit、グラフィックス処理装置)は、もともとグラフィックス処理のために大量のMACユニットを搭載していました。
この特性が、AI・機械学習の計算に非常に適していることが判明し、現在ではNVIDIAのGPUがディープラーニングの標準的な計算プラットフォームとなっています。
GPUの特徴:
- 数千個以上の小規模な演算コアを並列動作
- 各コアにMAC機能を搭載
- 超並列処理による高速計算
FMA(融合積和演算)との関係
FMA(Fused Multiply-Add、融合積和演算)は、MACの進化版と言える演算方式です。
通常のMACとFMAの違い
通常のMAC:
- X × Yを計算して丸める
- 結果をAに加算して丸める
- 合計2回の丸め処理
FMA:
- X × Yを計算(丸めない)
- Aに加算
- 最終結果のみ丸める
- 合計1回の丸め処理
FMAのメリット
FMAを使用すると、以下のような利点があります。
精度の向上
丸め処理が1回だけなので、累積誤差が小さくなります。
科学計算や金融計算など、高精度が求められる分野で重要です。
処理速度の向上
1命令で積和演算を完了できるため、処理が高速化されます。
IEEE 754-2008での標準化
FMA演算は、IEEE 754-2008(浮動小数点演算の国際規格)で標準化されています。
これにより、多くのプロセッサがFMA命令をサポートするようになりました。
AI・機械学習でのMAC演算
近年のAI(人工知能)ブームにより、MACユニットの重要性はさらに高まっています。
ニューラルネットワークとMAC
ニューラルネットワークの基本単位である「ニューロン」は、複数の入力に対して積和演算を行います。
出力 = 重みw1×入力x1 + 重みw2×入力x2 + ... + 重みwn×入力xn + バイアスb
この計算は、まさに積和演算そのものです。
AIチップの構造
現代のAI専用チップ(TPU、NPUなど)は、以下のような特徴を持ちます。
- 数百から数千個のMACユニットを並列配置
- 行列演算(GEMM)を高速実行
- 低精度演算(INT8、FP16など)の対応
例えば、Googleの TPU(Tensor Processing Unit)は、65,536個のMACユニットを搭載した演算アレイを持っています。
性能の指標
AI処理の性能は、以下のような指標で表されます。
- TOPS:Tera Operations Per Second(1秒間に1兆回の演算)
- TFLOPS:Tera Floating-point Operations Per Second(1秒間に1兆回の浮動小数点演算)
最新のAIチップでは、数百TOPSの性能を達成しています。
MACユニットの設計課題

高性能なMACユニットを設計するには、いくつかの技術的課題があります。
1. 速度とクロックサイクル
積和演算全体を1クロックで完了させるには、乗算器と加算器の両方を高速化する必要があります。
解決策:
- ブース乗算器(Booth Multiplier)の採用
- ウォレスツリー(Wallace Tree)による並列加算
- キャリールックアヘッド加算器(Carry Look-Ahead Adder)の使用
2. 消費電力
大量のMACユニットを並列動作させると、消費電力が大きくなります。
解決策:
- 低電圧動作
- クロックゲーティング(不使用時の停止)
- 精度の最適化(INT8など低精度演算の活用)
3. 回路面積
チップ面積が大きくなると、製造コストが上昇します。
解決策:
- 効率的な乗算器アルゴリズムの選択
- 部分積の削減
- リソース共有
4. オーバーフロー
連続した積和演算では、アキュムレータの値が非常に大きくなることがあります。
解決策:
- 大きなビット幅のアキュムレータ(48ビット、64ビットなど)
- サチュレーション演算(上限値・下限値でクリップ)
- 定期的な正規化処理
プログラミングでのMAC演算
プログラマーがMACユニットを活用する方法を紹介します。
DSP命令を直接使用
組み込みプログラミングでは、アセンブリ言語やC言語のインラインアセンブリでMAC命令を直接記述することがあります。
// 例:ARM プロセッサのMAC命令(概念的な例)
int32_t accumulator = 0;
for (int i = 0; i < N; i++) {
// MLA命令:accumulator = accumulator + (data[i] * coeff[i])
accumulator += data[i] * coeff[i];
}
コンパイラによる自動最適化
現代のコンパイラは、積和演算のパターンを認識し、自動的にMAC命令やFMA命令を生成します。
// C言語での積和演算
float result = 0.0f;
for (int i = 0; i < N; i++) {
result += a[i] * b[i]; // コンパイラがFMA命令に変換
}
ライブラリの活用
高水準なプログラミングでは、最適化されたライブラリを使用します。
- BLAS(Basic Linear Algebra Subprograms):行列演算ライブラリ
- MKL(Math Kernel Library):Intelの数学演算ライブラリ
- cuBLAS:NVIDIA GPU用の行列演算ライブラリ
- TensorFlow/PyTorch:機械学習フレームワーク
これらのライブラリは、内部でMACユニットを最大限に活用するよう最適化されています。
まとめ
MACユニット(積和演算ユニット)は、デジタル信号処理やAI計算の中核を担う重要なハードウェアです。
重要なポイント:
- MACユニットは「乗算」と「累積加算」を組み合わせた演算を実行
- DSPでは1クロックサイクルで積和演算を完了できる
- 音声処理、画像処理、AI計算など幅広い分野で使用
- FMA(融合積和演算)は精度と速度を向上させた進化版
- GPUやAIチップには数千個以上のMACユニットが搭載
スマートフォンの音声認識、カメラの画像処理、自動運転の物体検出など、私たちの身の回りの多くのテクノロジーがMACユニットによって支えられています。
今後もAIや5G通信などの発展に伴い、MACユニットの重要性はますます高まっていくでしょう。

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