「力は山を抜き、気は世を覆う」——この力強い詩を詠んだのは、中国史上最強と謳われた武将・項羽(こうう)です。
紀元前3世紀、秦の始皇帝が築いた大帝国を打ち倒し、わずか25歳で天下を手中に収めた英雄。しかし、その栄光はわずか5年で幕を閉じ、愛する虞美人に別れを告げて自ら命を絶つという悲劇的な最期を迎えました。
なぜこれほどの英雄が敗れたのでしょうか?そして、2000年以上経った今でも人々の心を打つ「垓下の歌」とは?
この記事では、中国史に燦然と輝く悲劇の英雄・項羽について、その生涯と伝承を分かりやすくご紹介します。
概要

項羽(こうう)は、紀元前232年から紀元前202年まで生きた中国古代の武将です。
本名は項籍(こうせき)で、「羽」は字(あざな=通称のようなもの)にあたります。秦王朝末期の混乱の中で頭角を現し、秦を滅ぼして「西楚の覇王(せいそのはおう)」を名乗りました。
「覇王」とは、諸侯の王たちの中で最も力を持つリーダーのこと。項羽は25歳という若さで、当時の中国を支配する最高権力者となったのです。
しかし、同じく秦打倒を目指した劉邦(りゅうほう)との「楚漢戦争(そかんせんそう)」に敗れ、31歳で命を落としました。その短くも激烈な生涯は、後世の文学や演劇で繰り返し語り継がれています。
偉業・功績
項羽の功績で最も重要なのは、強大な秦帝国を滅ぼしたことです。
鉅鹿の戦い(きょろくのたたかい)
紀元前207年、項羽は歴史に残る大勝利を収めました。
戦いの概要
- 楚軍:わずか5万人
- 秦軍:20万~40万人という圧倒的大軍
- 結果:項羽の圧勝
この戦いで項羽は、川を渡った後に船を沈め、鍋を壊し、3日分の食料だけを持たせて兵士たちに退路を断たせました。「勝つか死ぬか」という覚悟を全軍に示したのです。
この故事から生まれたのが「破釜沈舟(はふちんしゅう)」という言葉。「背水の陣を敷く」「退路を断って決死の覚悟で臨む」という意味で、現代でも使われています。
秦の滅亡と天下の分封
鉅鹿の戦いの後、項羽は各地の反乱軍を率いて秦の都・咸陽(かんよう)に進軍。秦の最後の王である子嬰(しえい)を処刑し、秦王朝を完全に滅ぼしました。
その後、項羽は自ら「西楚の覇王」と称し、功績のあった武将たちを18人の王として各地に封じました。これが「項羽十八諸侯」と呼ばれる天下の分封です。
系譜
項羽は名門武将の家系に生まれました。
項氏の家系
| 関係 | 人物名 | 説明 |
|---|---|---|
| 祖父 | 項燕(こうえん) | 楚国の名将。秦との戦いで戦死 |
| 叔父 | 項梁(こうりょう) | 項羽を育てた人物。反秦の挙兵を主導 |
| 叔父 | 項伯(こうはく) | 劉邦と親しく、後に劉姓を賜る |
項羽の父親については、史書に詳しい記録が残っていません。幼くして父を亡くし、叔父の項梁に引き取られて育てられたとされています。
項氏は代々、楚国で将軍を務めてきた武門の名家でした。「項」という姓は、先祖が項(こう)という土地を領地として与えられたことに由来するといわれています。
姿・見た目
項羽は、まさに「英雄」という言葉がふさわしい堂々たる風貌の持ち主でした。
身体的特徴
- 身長:8尺余り(約184cm以上)——当時としては非常な長身
- 体格:鼎(かなえ=大きな青銅の器)を持ち上げるほどの怪力
- 瞳:重瞳(ちょうどう)——一つの目に瞳が二つあったとされる
「重瞳」というのは、伝説上の聖王・舜(しゅん)も持っていたとされる珍しい特徴です。古代中国では、これは天から選ばれた特別な人物の証と考えられていました。
項羽はその堂々たる姿と圧倒的な武勇から、敵も味方も畏れる存在だったと伝えられています。
特徴

項羽の人物像には、英雄的な面と致命的な弱点が同居していました。
武勇と軍才
項羽は中国史上最強の武将と評されるほどの戦の天才でした。
項羽の強さを示す記録
- 70回以上の戦いでほぼ無敗
- 自ら先頭に立って敵陣に突撃する勇猛さ
- 彭城の戦いでは3万の兵で56万の敵を撃破
歴史家の李晩芳は「羽の神勇、万古無二(項羽の神がかった勇猛さは、古今に並ぶ者がない)」と称えています。
性格的な特徴
一方で、項羽には以下のような欠点もあったとされています。
- 人材を活かせない:有能な部下を信用せず、使いこなせなかった
- 残忍な一面:降伏した敵兵20万人を生き埋めにしたこともある
- 小さな恩には優しい:病気の部下には涙を流して食事を分け与えた
- 大きな功績には報いない:功臣に領地を与えることを惜しんだ
韓信(かんしん)は、項羽のこうした性格を「匹夫の勇、婦人の仁」と評しました。つまり、「一人で戦う勇気はあるが大局が見えない」「小さな優しさはあるが大きな決断ができない」という意味です。
伝承
項羽にまつわる伝承の中でも、特に有名なのが「四面楚歌」と「垓下の歌」です。
四面楚歌(しめんそか)
紀元前202年、垓下(がいか)の地で劉邦軍に包囲された項羽。夜になると、四方から故郷・楚の歌が聞こえてきました。
「楚の地はすでに敵に占領されたのか……」
実は、劉邦軍が楚の兵士たちの戦意を失わせるために仕掛けた心理作戦だったのです。しかし項羽は、故郷がすべて敵の手に落ちたと思い込み、絶望に陥りました。
この故事から、「四面楚歌」は「周囲すべてが敵で、孤立無援の状態」を意味する言葉となりました。
垓下の歌(がいかのうた)
死を覚悟した項羽は、愛する虞美人(ぐびじん)に別れの詩を捧げました。
力は山を抜き、気は世を覆う
時、利あらず、騅(すい)逝かず
騅の逝かざるを如何せん
虞や虞や、若(なんじ)を奈何(いかん)せん
(私の力は山をも動かし、気概は天下を覆うほどだ。しかし時勢は私に味方せず、愛馬の騅も進まない。騅が進まないのにどうしよう。虞よ、虞よ、お前をどうすればよいのだ)
項羽がこの歌を何度も歌うと、虞美人もまた歌で応えました。周囲の武将たちは皆泣き伏し、顔を上げられる者はいなかったといいます。
虞美人のその後について、史書には記録がありません。しかし後世の伝承では、項羽の足手まといになることを恐れて自ら命を絶ったとされています。
烏江の自刎(うこうのじふん)
包囲を突破した項羽は、わずかな騎兵とともに烏江(うこう)のほとりにたどり着きました。
そこで渡し守が「江東(長江の東側)に渡れば、まだ再起できます」と船を用意してくれましたが、項羽は首を横に振りました。
「かつて江東の若者8000人を率いて西へ出たが、今は一人も帰る者がいない。たとえ江東の父老が私を王にしてくれても、どの顔で会えるというのか」
そして愛馬・騅を渡し守に託し、自ら敵に向かって戦い続けました。最後は数百人の敵を討ち取った後、かつての旧友・呂馬童(りょばどう)を見つけ、「お前に手柄をくれてやろう」と言い残して自ら首を刎ねたのです。享年31歳でした。
覇王別姫(はおうべっき)
項羽と虞美人の悲恋は「覇王別姫」として、京劇や能などの演目で繰り返し上演されてきました。日本でも司馬遼太郎の小説『項羽と劉邦』で広く知られています。
二人の物語は、英雄の栄光と没落、そして変わらぬ愛を描いた悲劇として、2000年以上にわたって人々の心を打ち続けているのです。
出典・起源
項羽の生涯を知る上で最も重要な史料は、『史記』です。
『史記』項羽本紀
前漢時代の歴史家・司馬遷(しばせん)が著した『史記』の中に、「項羽本紀」という章があります。
通常、「本紀」は皇帝の伝記を収める巻です。しかし司馬遷は、正式な皇帝ではなかった項羽にも本紀を立てました。これは、項羽が事実上の天下の支配者であったことを認めた証といえるでしょう。
『史記』項羽本紀は、中国文学史上の名文として高く評価されています。日本の『平家物語』における木曾義仲の最期の場面も、この項羽本紀の影響を受けているといわれています。
司馬遷による評価
司馬遷は項羽について、以下のように評しています。
「項羽が勃興したことは何という速さだろう。土地も持たない身から立ち上がり、3年で秦を滅ぼし、天下を分けて覇王と名乗るまでになった。終わりこそ全うしなかったが、古今にない偉業であった」
しかし同時に、「天が私を滅ぼしたのだ」と言い続けた項羽を批判し、「自分の過ちを認めなかったのは甚だしい誤りだ」とも述べています。
まとめ
項羽は、中国史上最強の武将として語り継がれる悲劇の英雄です。
重要なポイント
- 楚の名将・項燕の孫として武門の家系に生まれた
- 鉅鹿の戦いで秦の大軍を破り、秦王朝滅亡の流れを決定づけた
- 25歳で「西楚の覇王」となり、天下を支配した
- 身長184cm以上の長身で、鼎を持ち上げる怪力の持ち主
- 重瞳という特別な瞳を持っていたとされる
- 武勇は比類なかったが、人材を活かせない欠点があった
- 垓下の戦いで敗れ、「四面楚歌」の状況に陥った
- 愛する虞美人に「垓下の歌」を捧げて別れを告げた
- 31歳で烏江にて自刎し、壮絶な最期を遂げた
項羽の生涯は、圧倒的な武勇だけでは天下を保てないことを教えてくれます。それと同時に、最後まで誇りを捨てなかった英雄の姿は、2000年以上経った今でも多くの人々の心を打ち続けているのです。


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