俵藤太と平将門の関係とは?伝説の武人が反逆者を討った歴史を解説

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日本史の授業で「平将門の乱」という名前を聞いたことはありませんか?

平安時代に関東で起きたこの大事件には、もう一人の重要人物が登場します。

それが俵藤太(たわらのとうた)です。

「あれ、俵藤太って、大ムカデを退治した伝説の人じゃなかったっけ?」と思った方もいるかもしれませんね。

実はその通りで、俵藤太は妖怪退治のヒーローとして語り継がれる一方、歴史上では平将門を討ち取った武将としても知られています。

この記事では、俵藤太と平将門という二人の武人がどのような関係にあったのか、史実と伝説の両面からわかりやすく解説していきます。

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俵藤太とは何者か?

本名は藤原秀郷

俵藤太というのは通称で、本名は藤原秀郷(ふじわらのひでさと)といいます。

平安時代中期(およそ891年〜958年頃)に活躍した武将で、藤原北家の流れを汲む人物でした。

「藤太」という名前は「藤原の太郎(長男)」を意味しており、「俵」は出身地や居住地に由来するとされています。

その由来には諸説あって、相模国田原荘、山城国田原、近江国栗太郡田原郷など、複数の説が伝わっているんです。

下野国で勢力を築いた豪族

秀郷は下野国(しもつけのくに)、現在の栃木県を拠点としていました。

父の藤原村雄が下野国の役人だったことから、秀郷もこの地で育ち、地元の豪族である鳥取氏と婚姻関係を結んで勢力を拡大していったのです。

秀郷は非常に武勇に優れた人物だったようで、「5人がかりでないと引けない弓を一人で引いた」という伝説が残っています。

ただし若い頃はかなりの暴れ者だったらしく、乱行の罪で追討令を出されたこともあったとか。

この点は、後に対決することになる平将門と少し似ているところがありますね。

平将門とはどんな人物?

桓武天皇の血を引く武人

平将門(たいらのまさかど)は、およそ903年に生まれた武将です。

桓武天皇の5世の子孫にあたり、いわば皇族の血を引く高貴な出自でした。

桓武天皇のひ孫である高望王が「平」の姓を賜って臣籍に降り、その子孫が関東各地に勢力を広げていきます。

将門はその一族の中で、下総国(しもうさのくに)の猿島郡・豊田郡(現在の茨城県西部)を拠点にしていました。

一族争いから反乱へ

将門の人生を大きく変えたのは、父・良将の死でした。

父が亡くなった後、将門の所領は叔父たちに横取りされてしまいます。

さらに、将門が結婚を望んでいた女性たちも叔父たちに嫁いでしまったのです。

こうした不満が積み重なり、935年についに武力衝突が起きました。

将門は叔父の平国香を殺害し、その後も一族との争いを続けていきます。

「新皇」を名乗る

939年になると、将門の行動はさらに大胆になっていきます。

常陸国府を攻撃して国司を追放し、続いて下野・上野・武蔵・相模など関東の諸国を次々と制圧したのです。

そして将門は、驚くべきことに自らを「新皇(しんのう)」と称しました。

京都の天皇に対抗して、関東に独立国家を作ろうとしたわけです。

これは古代日本において前例のない大事件でした。

俵藤太と平将門の対面伝説

二人は会ったことがあった?

史実としては、藤原秀郷と平将門が直接会ったという記録は残っていません。

しかし、室町時代に成立した『俵藤太物語』という作品には、二人の対面エピソードが詳しく描かれています。

このエピソードは『吾妻鏡』や『源平盛衰記』にも登場しており、当時の人々に広く知られていたようです。

将門の「だらしなさ」を見抜いた秀郷

伝説によると、秀郷は将門の評判を聞いて「どれほどの人物か見てやろう」と思い、将門の館を訪れました。

将門は喜んで秀郷を迎えましたが、ここで問題が起きます。

将門は髪を結わず、白衣のまま秀郷を出迎えたのです。

当時の貴族は烏帽子をかぶるのが礼儀で、頭頂部を他人に見せることはありませんでした。

つまり将門は、大切な客に対して下着姿で会ったようなものです。

さらに食事の席で将門は、袴の上にぼろぼろとこぼした米粒を手で払っていたといいます。

これを見た秀郷は「このような者が日本の主(あるじ)になれるはずもない」と心変わりし、将門を見限ったとされています。

伝説が伝えるメッセージ

この逸話が史実かどうかはわかりません。

ただ、このエピソードには重要なメッセージが込められています。

いくら武勇に優れ、カリスマ性があっても、細やかな気配りや礼節を欠く者は天下を取れないという教訓です。

実際、将門は「新皇」を名乗ってからわずか2ヶ月で滅ぼされています。

彼には確かにビジョンがあったかもしれませんが、それを維持するための計画性や慎重さが足りなかったのかもしれません。

平将門の乱と討伐

朝廷の対応

将門が「新皇」を名乗ったという知らせは、すぐに京都の朝廷に届きました。

朝廷は大いに動揺し、すぐに討伐の準備を始めます。

当時の朝廷には強力な軍事力がなかったため、次のような対策をとりました。

  • 神社仏閣で将門調伏の祈祷を行う
  • 各地に追討の官符を発する
  • 「将門を討ち取った者は身分を問わず貴族にする」と通達する

この最後の条件が、秀郷を動かす決定的な理由となったのです。

秀郷と貞盛の連合軍

将門討伐に立ち上がったのは、主に二人の武将でした。

一人は平貞盛(たいらのさだもり)で、将門に殺された平国香の息子です。父の仇を討つという強い動機がありました。

もう一人が藤原秀郷です。

秀郷には貴族への昇進という野心がありましたが、それ以上に、将門という人物を見極めた上での判断だったのかもしれません。

天慶3年(940年)の決戦

940年2月14日、秀郷と貞盛の連合軍は、下総国猿島郡で将門軍と激突しました。

このとき将門の軍勢はわずかな数しかいませんでした。

各地に兵を分散させていたところを、奇襲されたのです。

戦いは将門軍の圧倒的不利な状況で始まり、将門は額に矢を受けて戦死しました。

「新皇」を名乗ってから、わずか59日後のことでした。

討伐後の二人の運命

秀郷の出世

将門を討った功績により、藤原秀郷は大きく出世します。

  • 従四位下の位階を授かる
  • 下野守・武蔵守に任命される
  • 鎮守府将軍に就任する

鎮守府将軍は、武門における最高の名誉職です。

秀郷は源氏・平氏と並ぶ武家の棟梁として認められ、その子孫からは多くの名門武家が生まれました。

実は、日本で最も多い名字「佐藤」も、秀郷の子孫に由来するとされています。

将門の「怨霊」化

一方、将門の首は京都に送られ、東の市でさらされました。

しかし、ここから不思議な伝説が生まれます。

将門の首は何週間も腐らず、歯をカチカチと鳴らし続けたというのです。

やがて首は空を飛んで東へ去り、武蔵国の芝崎(現在の東京都千代田区大手町)に落ちたと伝えられています。

この場所に作られた「将門の首塚」は、現在も東京のオフィス街の真ん中に残っています。

将門は日本三大怨霊の一人に数えられ、菅原道真・崇徳上皇と並んで恐れられてきました。

しかし同時に、権力に立ち向かった英雄として庶民から慕われ、神田明神をはじめとする各地の神社で祀られています。

俵藤太のもう一つの伝説──大ムカデ退治

龍神の娘を救った英雄

秀郷にまつわる伝説としてもう一つ有名なのが、近江三上山の大ムカデ退治です。

この物語は室町時代の「俵藤太絵巻」に描かれており、次のようなあらすじです。

ある日、秀郷が近江国の瀬田の唐橋を通りかかると、橋の上に巨大な蛇が横たわっていました。

人々は恐れて誰も通れませんでしたが、秀郷は平然とその蛇を踏み越えて渡ったのです。

その夜、秀郷のもとに美しい女性が訪れました。

彼女は実は琵琶湖に住む龍神の娘で、秀郷の勇気を見込んで頼み事をしに来たのでした。

「三上山に住む大ムカデが私たちを苦しめています。どうか退治してください」

唾を塗った矢で見事に討伐

秀郷は快く引き受け、三上山に向かいます。

そこには山を八巻きするほどの巨大なムカデがいました。

秀郷は矢を放ちますが、最初の二本は跳ね返されてしまいます。

そこで秀郷は最後の矢に唾をつけ、八幡大菩薩に祈念して放ちました。

すると矢はムカデの眉間に命中し、見事に退治することができたのです。

喜んだ龍神は、お礼として秀郷にいくつもの宝物を贈りました。

  • 米の尽きない俵
  • 山海の珍味が尽きない鍋
  • 絹の反物
  • 飛んでくる矢を避けられる鎧「避来矢」
  • 三井寺に伝わる釣鐘

「俵藤太」という名前の由来は、この米俵にあるとする説もあります。

伝説と史実のつながり

この大ムカデ退治の伝説と、将門討伐の史実には共通するテーマがあります。

それは「勇気ある者が怪物(または反逆者)を退治し、世に平和をもたらす」という構図です。

秀郷の子孫である秀郷流藤原氏は、室町時代に至るまで武門の名家として繁栄しました。

この伝説は、彼らが自らの祖先の偉業を語り継ぐために、史実と伝説を結びつけて発展させたものと考えられています。

俵藤太と平将門が象徴するもの

武士の時代の幕開け

平将門の乱は、単なる地方の反乱ではありませんでした。

この事件は、律令国家の衰退と武士の台頭を象徴する歴史の転換点だったのです。

朝廷には自力で反乱を鎮圧する軍事力がなく、地方の武士たちの力に頼らざるを得ませんでした。

この構図は後の源平合戦、そして鎌倉幕府の成立へとつながっていきます。

勝者と敗者を分けたもの

秀郷と将門は、どちらも関東の豪族として似た立場にありました。

両者とも名門の出身でありながら、地方で勢力を築いた武人です。

では、なぜ一方は勝者となり、もう一方は滅んだのでしょうか。

伝説が語るように、慎重さと礼節の有無が分かれ目だったのかもしれません。

将門は勢いとカリスマ性で関東を席巻しましたが、長期的な戦略や周到な準備には欠けていたようです。

一方の秀郷は、時機を見極め、適切な相手と手を組む判断力がありました。

敵と味方が入れ替わる戦国前史

興味深いことに、将門を討った平貞盛の子孫からは平清盛が生まれています。

また、秀郷の子孫からは奥州藤原氏が出ており、源義経を守った佐藤継信・忠信兄弟も秀郷の末裔です。

歴史とは不思議なもので、この時代の勝者と敗者の子孫たちが、後の時代に複雑に絡み合っていくのです。

ゆかりの地を訪ねる

藤原秀郷にゆかりのある場所

場所所在地関連する内容
唐沢山城跡栃木県佐野市秀郷が築いたとされる城
宇都宮二荒山神社栃木県宇都宮市秀郷が霊剣を授かった神社
瀬田の唐橋滋賀県大津市大ムカデ退治伝説の舞台
伊勢神宮三重県伊勢市秀郷奉納の刀剣「蜈蚣切」を所蔵

平将門にゆかりのある場所

場所所在地関連する内容
将門の首塚東京都千代田区大手町将門の首を祀る塚
神田明神東京都千代田区将門を祭神として祀る神社
国王神社茨城県坂東市将門の娘が創建したと伝わる神社
成田山新勝寺千葉県成田市将門調伏の祈祷が起源

まとめ

俵藤太(藤原秀郷)と平将門の関係は、日本史における武士の勃興を象徴するドラマです。

二人の武人が歩んだ道のりをまとめると、次のようになります。

  • 平将門は、皇族の血を引く武人として関東で勢力を拡大し、「新皇」を名乗って朝廷に反旗を翻しました。しかし、周到な準備を欠いたまま勢いに乗ってしまい、わずか2ヶ月で滅びます。
  • 藤原秀郷は、下野国の豪族として地道に力を蓄え、将門という人物を見極めた上で討伐に加わりました。その功績で武門の頂点に立ち、子孫は全国に広がる名門武家を形成します。

伝説の世界では、秀郷は大ムカデを退治した英雄として語り継がれ、将門は日本三大怨霊の一人として恐れられながらも、民衆のヒーローとして愛されています。

歴史と伝説が交差するこの物語は、1000年以上経った今も、私たちに多くのことを教えてくれるのです。

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