物理や数学の教科書で、こんな記号を見たことはありませんか?
∇
逆三角形のような、ちょっと変わった形をしたこの記号。これが「ナブラ記号」(あるいは「デル記号」)と呼ばれるものです。
一見すると単なる記号に見えますが、実はこれ、大学レベルの物理学や工学で欠かせない「万能ツール」なんです。電磁気学、流体力学、熱力学など、さまざまな分野で大活躍しています。
今回は、このナブラ記号が何者なのか、どう使うのかを、できるだけ分かりやすく解説していきましょう。
ナブラ記号の正体:「微分演算子」というツール

ナブラ記号は、正確には微分演算子と呼ばれるものです。
微分演算子とは
何かに作用して、それを別のものに変える「道具」のようなもの。
足し算の「+」や掛け算の「×」と同じく、数学的な「操作」を表す記号です。
ナブラ記号は、3次元空間(x、y、z座標)において、次のように定義されています。
∇ = (∂/∂x, ∂/∂y, ∂/∂z)
これは「x方向の偏微分、y方向の偏微分、z方向の偏微分」を成分とする、形式的なベクトルのようなものです。
記号の読み方
- 日本語:ナブラ
- 英語:デル(del)またはナブラ(nabla)
ちなみに「ナブラ」という名前は、古代ギリシャの楽器「ナブラ」(竪琴の一種)に形が似ていることから名付けられました。
1870年にウィリアム・ロバートソン・スミスが提案した名前です。
ナブラの3つの基本技:勾配・発散・回転
ナブラ記号には、使い方によって3つの異なる「技」があります。それぞれ見ていきましょう。
【技その1】勾配(gradient / grad)
勾配は、スカラー場(温度や高度など、各点で数値だけが定まっている場)に対してナブラを作用させたものです。
数式表現
∇f = (∂f/∂x, ∂f/∂y, ∂f/∂z)
または grad f と書きます。
物理的な意味
勾配は「最も急激に値が増える方向」と「その増加率」を示すベクトルです。
具体例で理解しよう
山の標高を表す関数があるとします。この関数の勾配を計算すると、その場所で「最も急な登り坂の方向」と「その傾斜の度合い」が分かるんです。
- 勾配ベクトルの向き:最も急な登り方向
- 勾配ベクトルの大きさ:傾斜の急さ
逆に、勾配の反対方向に進めば、最も急な下り坂になります。これが、機械学習でよく使われる「勾配降下法」の原理です。
日常での例
Wi-Fiの電波強度も勾配で考えられます。各点での電波強度をスカラー場とすると、その勾配は「どちらに行けば電波が強くなるか」を教えてくれるわけですね。
【技その2】発散(divergence / div)
発散は、ベクトル場(風速や電場など、各点でベクトルが定まっている場)に対して、ナブラを内積のように作用させたものです。
数式表現
ベクトル場 A = (Aₓ, Aᵧ, A_z) に対して、
∇·A = ∂Aₓ/∂x + ∂Aᵧ/∂y + ∂A_z/∂z
または div A と書きます。
物理的な意味
発散は「その点からどれだけベクトル場が湧き出しているか(あるいは吸い込まれているか)」を表すスカラー量です。
具体例で理解しよう
川の流れを考えてみましょう。流速をベクトル場で表したとき、
- 発散が正:その点から水が湧き出している(水源がある)
- 発散が負:その点に水が吸い込まれている(排水口がある)
- 発散がゼロ:流入する水と流出する水が等しい(定常流)
電磁気学での例
電場の発散は電荷の密度に関係しています。正の電荷があると、そこから電場が「湧き出す」ので発散が正になります。これがガウスの法則の基本です。
【技その3】回転(curl / rot)
回転は、ベクトル場に対して、ナブラを外積のように作用させたものです。
数式表現
ベクトル場 A = (Aₓ, Aᵧ, A_z) に対して、
∇×A = (∂A_z/∂y - ∂Aᵧ/∂z, ∂Aₓ/∂z - ∂A_z/∂x, ∂Aᵧ/∂x - ∂Aₓ/∂y)
または rot A と書きます。
物理的な意味
回転は「その点でベクトル場がどれだけ回転しているか」を表すベクトル量です。
具体例で理解しよう
水流の中に小さな水車を浮かべたとき、
- 回転がゼロでない:水車が回り始める(渦がある)
- 回転がゼロ:水車は回らない(渦がない)
回転の向きは、右ねじの法則で決まります。右手の指を回転方向に曲げたとき、親指が指す方向が回転ベクトルの向きです。
電磁気学での例
磁場の回転は電流の密度に関係しています。これがアンペールの法則の基本です。電線に電流を流すと、その周りに渦巻く磁場ができますよね。
ナブラの組み合わせ技:ラプラシアン
ナブラを2回作用させる重要な演算があります。それがラプラシアンです。
定義
∇²f = ∇·(∇f) = ∂²f/∂x² + ∂²f/∂y² + ∂²f/∂z²
スカラー場 f に対して、まず勾配を取り(ベクトル場になる)、次にその発散を取る(スカラーに戻る)という2段階の操作です。
物理的な意味
ラプラシアンは「周囲との平均値からのずれ」を表します。
応用例
- 熱伝導方程式:温度の時間変化はラプラシアンに比例する
- 波動方程式:音波や光波の伝わり方を記述する
- 静電ポテンシャル:電荷がない空間では、電位のラプラシアンはゼロ(ラプラスの方程式)
ナブラが持つ便利な性質

ナブラを使うと、いくつかの重要な数学的性質が簡潔に表現できます。
重要な恒等式
- 回転の発散はゼロ
∇·(∇×A) = 0
どんなベクトル場の回転を取っても、その発散は必ずゼロになります。
- 勾配の回転はゼロ
∇×(∇f) = 0
どんなスカラー場の勾配を取っても、その回転は必ずゼロベクトルになります。
- 回転の回転
∇×(∇×A) = ∇(∇·A) - ∇²A
これらの性質は、物理学の方程式を簡潔に表現するのに役立ちます。
電磁気学での大活躍:マクスウェル方程式
ナブラ記号の真価が発揮されるのが、電磁気学の基本法則であるマクスウェル方程式です。
ナブラを使わずに書くと、非常に長くて複雑な式になってしまいますが、ナブラを使えば以下のようにスッキリ書けます。
マクスウェル方程式(真空中)
- ガウスの法則(電場):∇·E = ρ/ε₀
- ガウスの法則(磁場):∇·B = 0
- ファラデーの電磁誘導の法則:∇×E = -∂B/∂t
- アンペール-マクスウェルの法則:∇×B = μ₀J + μ₀ε₀∂E/∂t
たった4行で、電磁気学の全てが表現できてしまうんです!
ナブラがなかったら、これらの式は成分ごとに書き下す必要があり、何倍もの行数が必要になってしまいます。
実際に計算してみよう
では、簡単な例で実際に計算してみましょう。
例題:ベクトル場の発散を求める
ベクトル場 r = (x, y, z) の発散を計算してみます。
∇·r = ∂x/∂x + ∂y/∂y + ∂z/∂z
= 1 + 1 + 1
= 3
答えは3(空間の次元数)になります。
この結果は、原点を中心に放射状に広がるベクトル場が、どの点でも一定の割合で「湧き出している」ことを示しています。
例題:スカラー場の勾配を求める
スカラー場 f(x, y, z) = x² + y² + z² の勾配を計算してみます。
∇f = (∂f/∂x, ∂f/∂y, ∂f/∂z)
= (2x, 2y, 2z)
= 2(x, y, z)
これは、原点からの距離の2乗を表す関数の勾配が、原点から離れる方向(2倍した位置ベクトル)を向くことを示しています。
ナブラ記号を使う上での注意点
ナブラは便利ですが、いくつか注意すべき点があります。
順序が大事
ナブラは演算子なので、作用する順序が重要です。∇f と f∇ は同じではありません。演算子は必ず右側の関数に作用します。
座標系によって形が変わる
ここで紹介した式は、デカルト座標系(x、y、z)での表現です。円柱座標系や球座標系では、ナブラの形が変わります。
交換法則が成り立たない場合がある
通常の数と違い、∇A × ∇B ≠ ∇B × ∇A のように、順序を入れ替えられない場合があります。
まとめ:ナブラは現代物理学の必須ツール
ナブラ記号は、複雑な物理現象を簡潔に表現するための強力なツールです。
ナブラ記号のポイント
- 3次元空間での微分演算子:∇ = (∂/∂x, ∂/∂y, ∂/∂z)
- スカラー場に作用→勾配(gradient):最も急な変化の方向
- ベクトル場に内積→発散(divergence):湧き出しの度合い
- ベクトル場に外積→回転(curl):回転の度合い
- 2回作用→ラプラシアン:周囲との差
- 電磁気学のマクスウェル方程式を簡潔に表現できる
高校までの数学では出てこない記号ですが、大学の理工系分野では避けて通れない重要な概念です。
電場、磁場、流体の流れ、熱の伝わり方など、空間的に変化する現象を扱うとき、ナブラ記号は欠かせない「共通言語」になっています。
一見複雑に見えるナブラ記号ですが、その本質は「空間的な変化を測る道具」。この視点を持てば、物理学の多くの方程式がスッキリと理解できるようになります。
数式の森で迷ったとき、ナブラという「魔法の三角形」が、あなたを正しい方向へ導いてくれるはずです。

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