ユダ・マカバイとは?「鉄槌」の異名を持つユダヤの英雄を解説

神話・歴史・文化

運動会の表彰式でおなじみの「見よ、勇者は帰る」。
この曲、実は紀元前2世紀に活躍したある英雄を讃えて作られたものなんです。

その英雄の名は、ユダ・マカバイ。
「鉄槌」の異名で恐れられ、圧倒的に不利な状況から祖国を解放した人物です。

この記事では、ユダヤ史上最も有名な英雄のひとりであるユダ・マカバイについて、わかりやすく解説していきます。


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ユダ・マカバイとは

ユダ・マカバイは、紀元前2世紀に活躍したユダヤの民族的英雄です。

セレウコス朝シリアの支配下でユダヤ教が弾圧されていた時代、父マタティアとともに反乱を起こしました。
父の死後は反乱軍の指導者となり、数々の戦いで大国シリアの軍を打ち破っています。

彼の最大の功績は、異教徒に汚されたエルサレム神殿を奪還し、清めたこと。
この出来事は、現在も続くユダヤ教の祭り「ハヌカ」の起源となっています。

ユダ・マカバイは紀元前160年に戦死しましたが、彼が始めた独立運動は弟たちに引き継がれました。
そして最終的に、数百年ぶりとなるユダヤ人の独立国家「ハスモン朝」の成立へとつながっていくのです。


「マカバイ」の意味

「ユダ」はヘブライ語で「ヤハウェ(神)に感謝する」という意味を持つ名前です。

では「マカバイ」とは何でしょうか?
実はこの呼び名の由来には諸説あります。

アラム語の「鉄槌(maqqaba)」に由来する説
最も有名なのがこの説です。
ユダの戦いぶりがあまりにも激しく、まるで鉄槌で敵を打ち砕くようだったことから、この異名がついたと言われています。

聖書の一節に由来する説
出エジプト記15章11節「主よ、神々のうち、だれがあなたに比べられようか」という一節があります。
このヘブライ語「Mi kamokha ba’elim Adonai」の頭文字を取って「MKBI(マカビ)」になったという説です。

父の名前の略語説
「Mattityahu Kohen Ben Yochanan(祭司ヨハナンの子マタティア)」の略語だという説もあります。

どの説が正しいかは定かではありませんが、「鉄槌」説が最も広く知られています。
彼の勇猛さを物語るエピソードとして、語り継がれてきたのでしょう。


なぜ反乱は起きたのか?

ユダ・マカバイの活躍を理解するには、当時の時代背景を知る必要があります。

紀元前4世紀、アレクサンドロス大王の東方遠征によって、オリエント世界にはギリシャ文化が広まりました。
これを「ヘレニズム」と呼びます。

大王の死後、その帝国は複数の国に分裂。
パレスチナ地方は、最初はエジプトのプトレマイオス朝、その後シリアのセレウコス朝の支配下に入りました。

問題が起きたのは、セレウコス朝のアンティオコス4世エピファネスの時代です。

紀元前167年、彼はユダヤ人に対して以下のような政策を強制しました。

  • エルサレム神殿にゼウス像を設置
  • ユダヤ教の祭儀を禁止
  • 安息日や割礼の禁止
  • 律法の書物を焼却
  • 違反者には死刑

これはユダヤ人にとって、自分たちの信仰と存在そのものを否定されるようなものでした。

ユダヤ人の中にはギリシャ文化を受け入れる者もいましたが、多くの民衆は伝統を守ろうとします。
そんな中、モディンという町の祭司マタティアが、セレウコス朝の役人を殺害。

5人の息子たちとともに山中へ逃れ、反乱の狼煙を上げたのです。


ユダ・マカバイの戦い

反乱軍の指導者へ

紀元前166年、父マタティアが死去。
遺言により、三男のユダが反乱軍の指導者となりました。

長男でも次男でもなく三男が選ばれたのは、ユダの軍事的才能が群を抜いていたからだと言われています。

当初、ユダの軍勢はわずかな人数でした。
装備も貧弱で、とても正面から大国シリアの軍と戦えるような状態ではありません。

そこでユダは、ゲリラ戦術を採用しました。
夜襲や奇襲を繰り返し、敵の弱点を突いて素早く撤退する。
この戦い方で、シリア軍を翻弄していったのです。

連戦連勝の快進撃

ユダの名を世に知らしめたのは、サマリア総督アポロニオスとの戦いでした。

アポロニオスは軍を率いてユダの討伐に向かいましたが、あえなく敗北。
ユダは討ち取ったアポロニオスの剣を戦利品とし、その後の戦いで愛用したと伝えられています。

この勝利の知らせを聞いて、多くのユダヤ人がユダのもとに集まりました。

続いて、コエレ・シリア総督セロンが大軍を率いて進軍。
ユダは断食で疲弊した少数の兵を率いていましたが、ベト・ホロンの狭い峠道で待ち伏せ攻撃を敢行します。
結果、シリア軍は800人の戦死者を出して敗走しました。

さらにエマオの戦いでは、敵将ゴルギアスの裏をかく見事な作戦を展開。
敵がユダを探して山中に向かっている間に、手薄になった本陣を急襲して壊滅させたのです。

そしてベト・ズルの戦いでは、シリアの実力者リュシアスが自ら率いる大軍をも撃破。
ユダの名声は頂点に達しました。


神殿奪還とハヌカの起源

紀元前164年、ついにユダはエルサレムへ入城します。

シリア軍は市内の要塞「アクラ」に立てこもりましたが、神殿地区は解放されました。
ユダと仲間たちは、約3年間にわたって異教徒に汚されてきた神殿の清めに取りかかります。

ギリシャの神々の像を撤去し、異教の祭壇を破壊。
新しい祭壇を築き、神殿を本来のヤハウェ神への礼拝の場へと戻しました。

紀元前164年12月25日、神殿は再びユダヤの神に奉納されました。
この神殿奉献を記念して始まったのが、「ハヌカ(奉献の祭り)」です。

ハヌカは「光の祭り」とも呼ばれ、8日間にわたって燭台(メノラー)に灯をともします。
現在も世界中のユダヤ人によって祝われており、ユダ・マカバイの功績は2000年以上経った今も語り継がれているのです。


独立への戦いと最期

神殿を取り戻したことで、ユダヤ人は宗教的な自由を回復しました。
多くの人々は、これで戦争は終わりだと考えたでしょう。

しかしユダは、宗教的自由だけでは満足しませんでした。
政治的な独立、つまり完全な自由を勝ち取ることを目指したのです。

この方針の違いから、一部の敬虔派(ハシディーム)はユダから離れていきました。

ユダはその後も周辺民族やシリア軍との戦いを続けます。
イドマヤ人、アンモン人との戦いに勝利し、ガリラヤやギレアデで孤立していたユダヤ人同胞を救出しました。

ローマとの同盟

ユダは外交にも目を向けます。

セレウコス朝と敵対関係にあったローマ共和国に使節を派遣。
シリアへの牽制として、ローマとの同盟を結ぶことに成功しました。

これは小国ユダヤにとって画期的なことでした。
地中海世界の新興大国ローマを味方につけることで、シリアへの圧力を強めようとしたのです。

エラサの戦い

しかし、ローマの警告はセレウコス朝を止めることはできませんでした。

紀元前160年、シリアの将軍バッキデスが大軍を率いてユダヤに侵攻。
状況の悪化を見て、ユダの兵士の多くが離脱してしまいます。

ユダのもとに残ったのは、わずか800人ほどだったと伝えられています。

圧倒的に不利な状況でも、ユダは逃げることを選びませんでした。
「たとえ死ぬ時が来たとしても、勇敢に死のう」と語り、戦いに臨んだと言われています。

エラサの戦いで、ユダ・マカバイは戦死しました。

彼の死後、反乱軍の指揮は弟のヨナタン、そしてシモンへと引き継がれます。
そして紀元前142年、ついにセレウコス朝からの完全独立を達成。

ユダが夢見た自由は、彼の死から約20年後に実現したのです。


九偉人のひとりとして

中世ヨーロッパでは、「九偉人(Nine Worthies)」という概念が生まれました。

これは騎士道の理想を体現した9人の英雄を選んだもので、14世紀初頭にフランスの詩人ジャック・ド・ロンギュヨンが発表した詩に初めて登場します。

九偉人は以下の3つのグループに分けられています。

異教の三偉人
ヘクトル、アレクサンドロス大王、ユリウス・カエサル

ユダヤの三偉人
ヨシュア、ダビデ王、ユダ・マカバイ

キリスト教の三偉人
アーサー王、シャルルマーニュ、ゴドフロワ・ド・ブイヨン

ユダ・マカバイは、ダビデ王やヨシュアと並ぶユダヤの英雄として選ばれたのです。

この九偉人は、中世の絵画、タペストリー、彫刻などに数多く描かれました。
ドイツのケルン市庁舎には13世紀に作られた「九人の善き英雄」の彫刻が現存しており、これが九偉人の最古の造形作品とされています。

ダンテの『神曲』では、ユダ・マカバイは火星天に現れる「真の信仰の英雄たち」のひとりとして登場。
シェイクスピアの喜劇『恋の骨折り損』では、九偉人を演じる仮面劇の場面があり、ユダ・マカバイも登場人物として名前が挙げられています。


ヘンデルのオラトリオと「見よ、勇者は帰る」

ユダ・マカバイの物語は、18世紀に思わぬ形で広まることになります。

1746年、ドイツ出身でイギリスに帰化した作曲家ヘンデルは、オラトリオ『ユダス・マカベウス』を作曲しました。

このオラトリオが書かれた背景には、当時のイギリス情勢がありました。
1745年から翌年にかけて起きた「ジャコバイトの反乱」で、イングランド軍がスコットランドの反乱軍を鎮圧。
この勝利を讃えるために、古代の英雄ユダ・マカバイの物語が選ばれたのです。

オラトリオは1747年にロンドンで初演され、大成功を収めました。
当時ロンドンに住んでいた約5000人のユダヤ人も、この作品を熱狂的に歓迎したと伝えられています。

中でも有名なのが、第3部の合唱曲「見よ、勇者は帰る(See, the conqu’ring hero comes)」。
実はこの曲、初演時には存在せず、1750年の再演時に別のオラトリオ『ヨシュア』から借用されたものです。

この旋律はその後、さまざまな形で使われるようになりました。

  • ベートーヴェンがチェロとピアノのための変奏曲に編曲
  • キリスト教の賛美歌「Thine Be The Glory(栄光は主のもの)」として採用
  • イスラエルではハヌカの歌として親しまれている
  • かつては近代オリンピックの表彰式で使用されていた

日本では、1874年(明治7年)の運動会で「栄誉の曲」として演奏されたのが始まりとされ、現在も表彰式の定番曲として親しまれています。


ユダ・マカバイの基本情報

項目内容
名前ユダ・マカバイ(יהודה המכבי)
ギリシャ語名ユーダス・マッカバイオス(Ἰούδας Μακκαβαῖος)
ラテン語名ユダス・マカベウス(Judas Maccabaeus)
異名鉄槌(The Hammer)
生年不明(紀元前190年頃とする説あり)
没年紀元前160年
死因エラサの戦いで戦死
出身地モディン(現イスラエル中部)
職業・身分祭司(コーヘン)
マタティア
主な出典マカバイ記1・2、ヨセフス『ユダヤ古代誌』

ユダ・マカバイの家族

続柄名前備考
マタティアモディンの祭司。反乱の創始者
長兄ヨハネヨハネ・ガッディとも
次兄シモン後にハスモン朝の基礎を確立
本人ユダ三男。反乱軍の主要指導者
エレアザルベト・ザカリヤの戦いで戦死
末弟ヨナタンユダの死後、指導者を継承

ユダ・マカバイの主な戦歴

年代戦い結果
紀元前166年頃対アポロニオス勝利。敵将を討ち取る
紀元前166年頃ベト・ホロンの戦い勝利。セロン軍を撃破
紀元前165年頃エマオの戦い勝利。ゴルギアス軍を壊滅
紀元前164年ベト・ズルの戦い勝利。リュシアス軍を撃破
紀元前164年エルサレム入城神殿を奪還・清める
紀元前163年頃各地遠征イドマヤ、ギレアデ等で勝利
紀元前161年アダサの戦い勝利。ニカノル軍を撃破
紀元前160年エラサの戦い敗北。ユダ戦死

まとめ

ユダ・マカバイについて、ポイントを整理しましょう。

  • 紀元前2世紀、セレウコス朝シリアの宗教弾圧に対して反乱を起こしたユダヤの英雄
  • 「マカバイ」は「鉄槌」を意味し、その勇猛な戦いぶりに由来する
  • ゲリラ戦術で大国シリアの軍を次々と撃破した軍事的天才
  • エルサレム神殿を奪還・清めた功績が、ユダヤ教の祭り「ハヌカ」の起源となった
  • 紀元前160年にエラサの戦いで戦死したが、弟たちが独立を達成
  • 中世ヨーロッパでは「九偉人」のひとりとして、騎士道の理想を体現する英雄とされた
  • ヘンデルのオラトリオ『ユダス・マカベウス』の「見よ、勇者は帰る」は、今も表彰式の定番曲として親しまれている

ユダ・マカバイは、信仰と自由のために命をかけて戦った人物です。

彼の物語は2000年以上の時を超え、今なお人々の心に響き続けています。
表彰式であの曲を聴くとき、古代ユダヤの英雄に思いを馳せてみるのも面白いかもしれませんね。

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