「ベルサイユ宮殿」という名前を聞いたことがない人は、ほとんどいないでしょう。
フランスの絶対王政を象徴するこの壮大な宮殿は、17世紀に「太陽王」ルイ14世が築き上げた権力と美の結晶です。
年間約700万人以上が訪れる世界有数の観光地であり、1979年にはユネスコ世界文化遺産にも登録されています。
しかし、「なぜパリの郊外にこんな巨大な宮殿があるの?」「どんな歴史をたどってきたの?」と疑問に思う方も多いのではないでしょうか。
この記事では、ベルサイユ宮殿の起源から建築の特徴、主要な見どころ、そしてフランス革命後の激動の歴史まで、詳しく解説していきます。
概要
ベルサイユ宮殿(Château de Versailles)は、フランスのイヴリーヌ県ベルサイユ市に位置する壮大な宮殿です。
パリの南西約20キロメートルの場所にあり、1682年から1789年のフランス革命までフランス王国の政治・文化の中心地として機能しました。
宮殿の総面積は約800ヘクタールにおよび、700以上の部屋と2,300もの部屋数を誇ります。
フランス・バロック様式を基調とした建築は、ヨーロッパ各国の宮殿建築に多大な影響を与え、建築史上においても極めて重要な存在となっています。
ベルサイユ宮殿の歴史
ルイ13世の狩猟館──すべてはここから始まった
ベルサイユ宮殿の歴史は、意外にも質素な狩猟用の小屋から始まります。
1607年、まだ幼い王太子だったルイ13世は、父アンリ4世とともにベルサイユの地で初めて狩猟を楽しみました。
この少年時代の思い出が、後にベルサイユへの愛着を育むことになります。
1623年、22歳になったルイ13世は、ベルサイユの森に囲まれた丘の上に小さな狩猟館を建設しました。
レンガと石でできた簡素な建物で、後の回想録作家サン=シモンが「カードの城」と呼んだほど小さなものだったとされています。
1631年から1634年にかけて、建築家フィリベール・ル・ロワ(Philibert Le Roy)の手で増築が行われ、現在の「大理石の中庭」の原型となる建物が完成しました。
同時にルイ13世は1632年にベルサイユの領地を購入し、この地を王家の所有とします。
とはいえ、この時点ではベルサイユはあくまで狩猟のための別荘にすぎませんでした。
王妃アンヌ・ドートリッシュがこの館で一夜を過ごすことすらなかったと伝えられています。
ルイ14世の大改造──狩猟館から壮大な宮殿へ
ベルサイユを世界的な宮殿に変貌させたのは、「太陽王」と呼ばれたルイ14世です。
1651年、13歳のルイ14世が初めてベルサイユを訪問しました。
そして1661年、宰相マザランの死後に親政を開始すると、本格的な宮殿建設に着手します。
ルイ14世がベルサイユに執着した理由の一つに、幼少期の「フロンドの乱」(1648年〜1653年)の記憶があるとされています。
パリの貴族や民衆による反乱に恐怖を感じた若き王は、パリから離れた場所に権力の新たな拠点を築こうと考えたのです。
第一期工事(1661年〜1668年)
ルイ14世は建築家ルイ・ル・ヴォー(Louis Le Vau)、画家・装飾家のシャルル・ル・ブラン(Charles Le Brun)、そして造園家のアンドレ・ル・ノートル(André Le Nôtre)という当時最高の芸術家たちを起用しました。
この時期には庭園の整備が始まり、最初のオランジュリー(温室)や動物園が建設されています。
1664年には「魅惑の島の祝宴」と呼ばれる大規模な宮廷催事が開かれ、ベルサイユは華やかな宮廷文化の舞台として知られるようになりました。
第二期工事(1668年〜1678年)
1668年の「大王室祝祭」の際、宮廷人たちは小さな城館の不便さを痛感しました。
宿泊場所が見つからない者が続出したのです。
そこでル・ヴォーは、ルイ13世の旧城館を取り壊さず、その周囲を石造りの新しい建物で包み込む「アンヴロップ(包み込み)」と呼ばれる大胆な増築計画を提案しました。
庭園側には白い石造りのイタリア風ファサードが築かれ、北側に王の大居室、南側に王妃の大居室が配置されます。
1670年にル・ヴォーが亡くなると、助手のフランソワ・ドルベイ(François d’Orbay)が工事を引き継ぎました。
第三期工事(1678年〜1710年)
1678年、ルイ14世は新たな首席建築家としてジュール・アルドゥアン=マンサール(Jules Hardouin-Mansart)を任命します。
マンサールはベルサイユ宮殿の最も象徴的な部分を数多く手がけた人物です。
彼の代表的な仕事には、以下のようなものがあります。
- 鏡の間(1678年〜1684年)──宮殿で最も有名な空間
- 南翼棟(1678年〜1682年)──王族や血統公のための居住空間
- 北翼棟(1685年〜1689年)──貴族や政府関係者のための空間
- 大厩舎・小厩舎──宮殿前の広場に面した壮大な馬小屋
- オランジュリー──1,000本以上の木を収容する巨大な温室
- 大トリアノン宮殿(1687年)──王の私的な隠れ家
- 王室礼拝堂(1699年〜1710年)──宮殿最後の大規模増築
1682年5月6日、ルイ14世は正式にベルサイユを王宮および政府の所在地と定めました。
これ以降、フランス革命が勃発する1789年まで、約100年にわたってベルサイユはフランスの政治の中心地であり続けます。
工事のピーク時には、最大で36,000人もの労働者が同時に働いていたと記録されています。
宮殿の建設だけでなく、水のない土地に噴水を作るための大規模な水利工事も並行して行われました。
1681年にはセーヌ川から水を汲み上げる「マルリーの機械」と呼ばれる巨大なポンプ装置が建設されています。
ルイ15世・ルイ16世の時代──ロココへの転換
ルイ14世が1715年に崩御すると、ベルサイユの大規模な建設は一段落しました。
しかし、後継者たちのもとでも宮殿は変化を続けます。
ルイ15世の時代(在位1715年〜1774年)
ルイ15世はベルサイユをあまり好まず、コンピエーニュやフォンテーヌブローなどの別の宮殿にしばしば滞在しました。
それでも宮殿内部には大きな変化がもたらされています。
宮殿建築家アンジュ=ジャック・ガブリエル(Ange-Jacques Gabriel)のもと、内装の多くがバロック様式からロココ様式へと改装されました。
ロココ様式とは、バロックの重厚さとは対照的に、繊細で優美な装飾が特徴の様式です。
この時代の主な出来事は以下の通りです。
- ヘラクレスの間の装飾が完成(1736年)
- 大使の階段が取り壊された(1752年)
- 小トリアノン宮殿の建設(1761年〜1768年)
- 王立オペラ劇場の完成(1770年)
なお、1763年には幼いモーツァルトがベルサイユ宮殿を訪れ、ルイ15世の前で演奏を披露したことも記録に残っています。
ルイ16世とマリー・アントワネットの時代(在位1774年〜1792年)
ルイ16世の時代に最も注目されるのは、王妃マリー・アントワネット(Marie-Antoinette)の存在でしょう。
1770年、わずか14歳でオーストリアからフランスに嫁いだマリー・アントワネットは、ベルサイユの堅苦しい宮廷儀礼に息苦しさを感じていたとされています。
そのため彼女は、小トリアノン宮殿に自分だけの空間を築き、さらにその敷地内に「王妃の村里(アモー)」と呼ばれる人工的な農村を作らせました(1783年〜1786年)。
牧歌的な田園生活を模した「王妃の村里」は、マリー・アントワネットのプライベートな隠れ家でした。
しかし、国家財政が逼迫する中でのこうした贅沢は、やがて民衆の怒りを買うことになります。
フランス革命とベルサイユの終焉
1789年、フランス革命が勃発しました。
同年10月5日、パンの値段高騰に激怒したパリの女性たちが、ベルサイユ宮殿に向かって行進を始めます。
翌10月6日、群衆は宮殿に侵入し、ルイ16世とマリー・アントワネットは約100年ぶりにパリへ連れ戻されました。
この「ベルサイユ行進」によって、ベルサイユ宮殿は王宮としての役割を終えます。
革命の混乱の中で宮殿内の多くの調度品や美術品が略奪・売却され、宮殿は荒廃していきました。
その後の歴史については、ナポレオンの時代にも関わりがあります。
ナポレオンは大トリアノン宮殿の修復を命じましたが、ベルサイユ本館を王宮として使用することはありませんでした。
博物館としての再生
1837年、「フランス国民の王」を自称したルイ=フィリップは、ベルサイユ宮殿を「フランスの栄光のすべてに捧げられた」博物館として一般公開しました。
南翼棟に設けられた「戦闘の回廊」には、フランス史の重要な戦いを描いた巨大な絵画が並べられています。
この決断がなければ、ベルサイユ宮殿は取り壊されていた可能性すらあります。
ルイ=フィリップの博物館構想は、王党派、革命派、ナポレオン派など対立するすべてのフランス人を一つに結びつけようとする政治的意図も込められていました。
建築の特徴
バロック様式とフランス古典主義の融合
ベルサイユ宮殿の建築様式は、「フランス・バロック」と呼ばれます。
イタリア・バロックの壮大さと劇的な表現を取り入れつつも、フランス特有の左右対称の秩序と古典的な均整美を重視した様式です。
庭園側のファサードは全長約400メートルにおよび、ル・ヴォーとマンサールが設計しました。
3層構造のファサードには、1階のアーケード、2階の高い窓とイオニア式のピラスター(付け柱)、そして屋上の彫刻群という古典的な構成が見られます。
一方、中庭側のファサードにはルイ13世時代のレンガと石の旧城館が残されており、庭園側のイタリア風とは対照的なフランス初期古典主義のスタイルを見ることができます。
庭園──アンドレ・ル・ノートルの傑作
ベルサイユの庭園は、造園家アンドレ・ル・ノートル(André Le Nôtre)が設計した「フランス式庭園」の最高傑作です。
幾何学的に整然と配置された花壇、噴水、彫刻、そして全長約1,800メートルのグランド・カナル(大運河)が、宮殿から地平線に向かって壮大な遠近法を生み出しています。
庭園内には約500〜600もの噴水があり、大理石彫刻も多数設置されています。
これらの噴水はルイ14世にとって特別な意味を持っていました。
本来、ベルサイユの周辺は水に乏しい湿地帯でした。
そこにセーヌ川から水を引き、壮大な噴水を実現させることは、「自然をも支配する王の力」を象徴するものだったのです。
庭園の建設には宮殿以上の労力が費やされ、宮殿の25,000人に対して36,000人もの労働者が投入されたと記録されています。
ちなみに、庭園に配置された彫刻の多くはギリシャ神話をモチーフにしたものです。
特に「アポロンの戦車の泉」は、太陽神アポロンが馬車で天空に昇る姿を表現しており、「太陽王」ルイ14世の象徴として庭園の中心軸に置かれています。
シャルル・ル・ブランが設計し、彫刻家ジャン=バティスト・テュビが1668年から1670年にかけて鉛で鋳造した後、金メッキが施されました。
主要な見どころ
鏡の間(Galerie des Glaces)
ベルサイユ宮殿で最も有名な空間が「鏡の間」です。
全長73メートル、幅10.5メートル、高さ12.3メートルのこの大回廊には、357枚もの鏡が17面のアーチ状窓に対面する形で配置されています。
鏡が非常に高価だった時代に、これほど大量の鏡を使うこと自体が「国力の誇示」でした。
当時、鏡の製造技術はヴェネツィア(イタリア)がほぼ独占していましたが、ルイ14世はフランス国内にサン・ゴバン(Saint-Gobain)製造所を設立させ、国産の鏡でこの大回廊を飾ったのです。
天井にはル・ブランが描いた30の天井画があり、ルイ14世の軍事的勝利と政治的業績を称える内容となっています。
鏡の間は歴史上の重要な舞台にもなりました。
- 1770年:マリー・アントワネットの婚礼舞踏会
- 1871年1月18日:ドイツ帝国の成立宣言(プロイセン王ヴィルヘルム1世がドイツ皇帝として即位)
- 1919年6月28日:第一次世界大戦を終結させたベルサイユ条約の調印
特に1871年と1919年の出来事は象徴的です。
普仏戦争でフランスを破ったプロイセンは、あえて敵国の宮殿でドイツ帝国の成立を宣言し、フランスに最大の屈辱を与えました。
第一次世界大戦後、フランスはその報復として、同じ鏡の間でドイツにとって苛酷な条約の調印をさせたのです。
王の大居室(Grand Appartement du Roi)
王の大居室は、宮殿の北側に位置する7つの連続した部屋で構成されています。
各部屋は天井に描かれたギリシャの神々にちなんで名付けられました。
- ヘラクレスの間
- 豊穣の間
- ヴィーナスの間
- ディアナの間
- マルスの間
- メルクリウスの間
- アポロンの間(玉座の間)
ギリシャ神話の神々を各部屋のテーマとしたのは、ルイ14世が太陽神アポロンに自らを重ね合わせていたことと深く関係しています。
各部屋の天井画はル・ブランが手がけ、大理石や金泥を使った豪華な装飾が施されています。
王室礼拝堂(Chapelle Royale)
王室礼拝堂は、マンサールが設計し1710年に完成した宮殿最後の大規模建築です。
建設は1689年に開始されましたが、戦争のために中断し、完成までに約20年の歳月を要しました。
2層構造で、上層は王族のための空間、下層は一般の信者のための空間となっています。
天井一面に描かれたフレスコ画と壮麗なパイプオルガンは、見る者を圧倒します。
ルイ16世とマリー・アントワネットの結婚式(1770年)もこの礼拝堂で執り行われました。
王立オペラ劇場(Opéra Royal)
宮殿北翼の最奥部に位置する王立オペラ劇場は、建築家ガブリエルが設計し、1770年に完成しました。
ルイ14世の時代から構想されていましたが、オーストリア継承戦争や七年戦争による財政難のため完成が遅れ、最終的にはルイ15世の愛妾デュ・バリー夫人の資金援助で完成に至ったとされています。
完成後最初の大イベントは、王太子(のちのルイ16世)とマリー・アントワネットの結婚祝賀でした。
大トリアノン宮殿(Grand Trianon)と小トリアノン宮殿(Petit Trianon)
宮殿の敷地内には、2つの離宮があります。
大トリアノン宮殿は、マンサールが1687年に設計した、ピンク色の大理石で覆われた優美な建物です。
ルイ14世が宮廷の煩雑な儀礼から離れて過ごすための私的な空間として建てられました。
現在はフランス大統領の公邸の一つとしても使用されています。
小トリアノン宮殿は、ガブリエルが1761年から1768年にかけて建設した新古典主義様式の建物です。
当初はルイ15世と愛妾ポンパドゥール夫人のために計画されましたが、ポンパドゥール夫人は完成前に亡くなっています。
後にルイ16世がマリー・アントワネットに贈り、王妃はこの小さな宮殿を自分好みに改装して「王妃の村里(アモー)」を併設しました。
ベルサイユ宮殿の数字で見る規模
ベルサイユ宮殿のスケールは、数字で見るとさらに驚くべきものです。
| 項目 | 数値 |
|---|---|
| 部屋の数 | 約2,300室 |
| 窓の数 | 1,944枚 |
| 暖炉の数 | 352基 |
| 鏡の間の鏡 | 357枚 |
| 鏡の間の全長 | 73メートル |
| 庭園の面積 | 約800ヘクタール |
| 庭園の小道の総延長 | 約43キロメートル |
| 庭園の彫刻 | 155体以上 |
| 噴水の数 | 約500〜600基 |
| ルイ14世時代の居住者 | 最大約20,000人 |
| 建設ピーク時の労働者 | 36,000人 |
| ユネスコ世界遺産登録 | 1979年 |
| 年間来場者数 | 約700万人以上 |
近現代の歴史的舞台として
ベルサイユ宮殿は、フランス革命後もたびたび歴史の表舞台に登場しています。
1871年の普仏戦争後、パリ・コミューンの混乱を避けてフランス国民議会がベルサイユに移転しました。
第三共和政の誕生もベルサイユで宣言され、1879年まで議会がこの地に置かれています。
1919年のベルサイユ条約の調印は、第一次世界大戦の終結を告げるとともに、鏡の間を再び世界史の中心に押し上げました。
第二次世界大戦中にはドイツ軍に占領されましたが、幸いにも大きな破壊は免れています。
1953年にはフランスの国家事業として大規模な修復プロジェクトが開始され、現在も継続的な修復作業が行われています。
ベルサイユ宮殿がヨーロッパに与えた影響
ベルサイユ宮殿は、17世紀後半から18世紀にかけてヨーロッパの宮殿建築に絶大な影響を与えました。
各国の君主たちは競ってベルサイユを模倣し、自国に同様の壮大な宮殿を建設しようとしたのです。
ベルサイユの影響を受けた宮殿として、以下のようなものが挙げられます。
- シェーンブルン宮殿(オーストリア・ウィーン)
- サンスーシ宮殿(ドイツ・ポツダム)
- ニンフェンブルク宮殿(ドイツ・ミュンヘン)
- ペテルゴフ宮殿(ロシア・サンクトペテルブルク)
- ラ・グランハ宮殿(スペイン・セゴビア)
- ストックホルム宮殿(スウェーデン)
- ハンプトン・コート宮殿(イギリス)
建築だけでなく、ル・ノートルが確立した「フランス式庭園」のスタイルもヨーロッパ中に広まりました。
幾何学的に整理された庭園は「人間が自然を秩序づける」という理念の表現であり、絶対王政の権力思想と深く結びついていたのです。
なお、ギリシャ神話のモチーフを芸術作品に取り入れる伝統は、ベルサイユの装飾にも色濃く反映されています。
宮殿や庭園に配置された彫刻や天井画の多くは、ギリシャ・ローマ神話の場面を題材としたものです。
まとめ
ベルサイユ宮殿について、以下のポイントを解説しました。
- 起源:1623年にルイ13世が建てた狩猟館が始まり
- 大改造:ルイ14世が1661年から数十年をかけて壮大な宮殿に拡張
- 建築家:ル・ヴォー、アルドゥアン=マンサール、ガブリエルの三人の建築家が歴代の工事を担当
- 庭園:ル・ノートルが設計したフランス式庭園の最高傑作
- 政治の中心:1682年から1789年までフランスの首都機能を担った
- フランス革命:1789年の「ベルサイユ行進」で王宮としての歴史が終焉
- 博物館:1837年から一般公開され、現在は世界有数の観光地
- 近現代:ドイツ帝国の成立宣言(1871年)やベルサイユ条約の調印(1919年)の舞台となった
ベルサイユ宮殿は、単なる豪華な建造物ではありません。
フランスの絶対王政の栄華と、その崩壊の歴史を今に伝える、生きた歴史の証人なのです。
同じフランスの世界遺産として、モン・サン・ミシェルも1,300年以上の壮大な歴史を持つ場所です。
フランスの歴史や文化に興味がある方は、あわせてご覧ください。
参考情報
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この記事で参照した情報源
学術資料・公式サイト
- ベルサイユ宮殿公式サイト「L’histoire」 – ベルサイユ宮殿の歴史に関する公式情報
- ベルサイユ宮殿公式サイト「Les origines du château de Versailles」 – ベルサイユの起源に関する公式情報
- ベルサイユ宮殿公式サイト「Jules Hardouin-Mansart」 – マンサールに関する公式情報
- ベルサイユ宮殿公式サイト「Louis Le Vau」 – ル・ヴォーに関する公式情報
- Britannica「Palace of Versailles」 – 主要百科事典による概説
- フランス国立図書館「L’histoire du château de Versailles」 – フランス国立図書館による歴史資料
- コトバンク「ベルサイユ宮殿」 – 日本大百科全書等による解説
参考になる外部サイト
- Wikipedia「ヴェルサイユ宮殿」 – 基本情報の確認
- Wikipedia「Palace of Versailles」(英語版) – 英語版による詳細情報
- Wikipedia「Chronologie du château de Versailles」(フランス語版) – 年表形式の詳細な時系列情報

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