タイの心霊番組やホラー映画を見ていると、「ウインヤーン(วิญญาณ)」という言葉がよく出てきます。日本語に直訳すると「霊魂」や「魂」にあたるこの言葉、じつはただの「幽霊」を指す言葉ではありません。
ウインヤーンの背景には、仏教の哲学的な概念と、タイに古くから伝わる精霊信仰(ピー信仰)が複雑に絡み合った独特の世界観があるんです。
この記事では、ウインヤーンの語源や仏教での本来の意味、タイの民間信仰での使われ方、そして「ピー」や「クワン」との違いまで、なるべくわかりやすく解説していきます。
ウインヤーンの語源は仏教用語の「識(ヴィンニャーナ)」
ウインヤーンという言葉は、もともとパーリ語(上座部仏教の聖典に使われる言語)の「ヴィンニャーナ(viññāṇa)」を借用したものです。サンスクリット語では「ヴィジュニャーナ(vijñāna)」にあたり、日本の仏教用語では「識(しき)」と訳されます。
Wiktionary「วิญญาณ」によると、タイ語の「วิญญาณ」はパーリ語からの学術的借用語(learned borrowing)で、本来の意味は「認識」「知覚」です。ラオス語の「ວິນຍານ(win nyān)」やクメール語の「វិញ្ញាណ」とも同源の言葉になります。
つまり、ウインヤーンの語源をたどると、仏教における「意識」や「認知する働き」を意味する哲学用語にいきつくわけです。
仏教における「ヴィンニャーナ」は五蘊のひとつ
仏教の教義では、ヴィンニャーナ(識)は「五蘊(ごうん)」と呼ばれる5つの構成要素のひとつに位置づけられています。
五蘊とは、人間の存在を構成する5つの要素のことで、以下の5つからなります。
- 色(しき / rūpa):物質的な身体や外界の物質
- 受(じゅ / vedanā):感覚や感情(快・不快・中立)
- 想(そう / saññā):知覚、対象を認識すること
- 行(ぎょう / saṅkhāra):意志や心の働き
- 識(しき / viññāṇa):意識、対象を認知する働き
Wikipedia「Vijñāna」の解説によれば、仏教経典の中でヴィンニャーナは「酸っぱい、苦い、辛い、甘い、塩辛い」といった感覚を認知する働きとして説明されています。つまり、目・耳・鼻・舌・身体・心の6つの感覚器官を通じて対象を認知する精神作用のことなんです。
ここで大事なのは、仏教の「識」は永遠不変の魂(アートマン)ではないということです。仏教には「無我(アナッター)」という根本的な教えがあり、固定された「自己」の存在を否定しています。ブリタニカ百科事典「Skandha」でも、五蘊のどれひとつとして「自己」と同一視できるものはない、と説明されています。
タイの民間信仰における「ウインヤーン」= 人間の霊魂
ところが、タイの民間信仰の中では、ウインヤーンの意味が仏教の「識」からだいぶ変わっています。一般のタイ人にとって、ウインヤーンは「人間の身体に宿っている霊魂」のことです。
バンコク在住のライター・髙田胤臣氏の解説(webムー)によると、タイの人々はウインヤーンについて次のような特徴を信じているとされています。
まず、ウインヤーンは人間にしか宿らないものとされています。動物にはウインヤーンがないとタイ人は考えていて、そのためタイ国内では動物にまつわる心霊話や古典的な怪談がほとんど存在しないのだそうです。上座部仏教の教えで畜生道は人間よりも下等とされることが、その背景にあります。
また、人が亡くなった直後、肉体から抜け出たウインヤーンはまだ形が定まらず、人魂や火の玉として目撃されることがあるとされています。本来であれば速やかに成仏(次の生に転生)するべきなのですが、この世に長く留まってしまうと「ピー」(タイ語で幽霊・精霊を意味する言葉)になると信じられています。
さらに、ウインヤーンがピーになると、多くの場合は「ピー・ドゥ(悪霊)」になるとも考えられています。成仏できないということは、この世に未練や怨念があるということであり、その「念」によってウインヤーンが悪霊化してしまうという考え方です。
ウインヤーン・ピー・クワン ── 3つの概念の違い
タイの霊的世界を理解するには、「ウインヤーン」「ピー(ผี)」「クワン(ขวัญ)」という3つの概念の違いを押さえておく必要があります。この3つはよく混同されますが、それぞれ成り立ちも意味合いもまったく異なります。
ピー(ผี)── 仏教以前から存在する精霊の総称
ピーは、タイに仏教が伝わるよりもはるか以前から信仰されてきた精霊・霊的存在の総称です。Wikipedia「ピー信仰」によれば、ピーの概念には土地の守護霊、祖先霊、自然の精霊、悪霊など非常に幅広い存在が含まれています。
タイの民俗学者アヌマーン・ラーチャトーンの研究によると、時代が下るにつれて「ピー」は善霊よりも悪霊的な意味合いで使われることが増えてきたとされています。Wikipedia「Ghosts in Thai culture」にも記載されているように、タイには100種類以上のピーが伝承されており、プラカノーンの「メー・ナーク」のような有名な幽霊から、ピー・ポープ(人に取り憑く霊)、ピー・グラスー(内臓を引きずって飛ぶ女性の妖怪)まで、実に多種多様です。
クワン(ขวัญ)── 仏教以前のアニミズムに根差す精霊
クワンは、ウインヤーンよりもずっと古い概念で、東南アジア一帯に広がるアニミズム(精霊信仰)に由来します。
タイの歴史家スジット・ウォンテート氏の著書の内容を紹介しているTheMatter.co の記事や、マティチョン・スットサップダー紙のコラムによると、クワンとウインヤーンには以下のような根本的な違いがあります。
ウインヤーンは仏教由来(パーリ語)の概念で、人間ひとりにつき1つだけ宿り、死後は肉体を離れてすぐに転生するとされています。これに対して、クワンは仏教以前のアニミズム由来の概念で、ひとりの人間の身体の各部位に複数(伝統的には32のクワンがあるとされる)宿っています。さらに、クワンは人間だけでなく動物・植物・道具・建物など、あらゆるものに宿ることができるとされています。
また、ウインヤーンが「その人の意識そのもの=自己」であるのに対し、クワンは「その人の自己ではない部分」であるという点も大きな違いです。人が死ぬとクワンは身体から離れていきますが、クワン自体は消滅しません。クワンが離れた状態が「死」であり、離れたクワンがそのまま「ピー」になるというのが、仏教以前の古い信仰の考え方です。
スジット・ウォンテート氏は「クワンとウインヤーンはまったく別のものだが、現代では混同されてしまっている」と指摘しています。
3つの概念が混ざり合う理由
なぜこれらの概念が混同されるようになったのかというと、タイの宗教文化が複数の信仰の「習合」で成り立っているからです。
英語版Wikipedia「Tai folk religion」にも記されているように、タイの民間信仰(サートサナー・ピー)はもともとタイ族の間で信仰されていた古い精霊信仰で、後にインドから伝わった仏教やバラモン教(ヒンドゥー教)と融合していきました。
その結果、仏教由来のウインヤーン、アニミズム由来のクワンとピーが混ざり合い、タイ独特の死生観が形成されたわけです。タイ人自身も普段の会話ではこれらの概念を厳密に区別せず使っているため、外から見るとかなり分かりにくい構造になっています。
死後のウインヤーンはどうなる?── タイの死生観
タイの人々は、「死」を終わりとは考えていません。大東文化大学の研究資料「葬儀:タイ」によると、タイの文化では死は「ひとつの存在様式から別の存在様式への移行」として捉えられています。
一般的に信じられている流れはこうです。人が亡くなると、ウインヤーンは肉体を離れます。通常であれば、このウインヤーンは速やかに次の生へと向かいます。上座部仏教の輪廻転生の教えに基づき、生前の行い(カルマ)に応じて、天界・人間界・餓鬼道・地獄道などのいずれかに生まれ変わるとされています。
しかし、問題はウインヤーンがこの世に留まってしまうケースです。タイの人々は「死に方」が死後のウインヤーンの運命を大きく左右すると考えています。
「通常死」と「異常死」── 死に方で運命が変わる
名城大学の津村文彦教授の研究によれば、タイには死の種類に「通常死(ターイ・タマダー)」と「異常死(ターイ・ホーン)」の2つの区分が存在します。MOVIE WALKER PRESSの記事でも紹介されているように、病気や老衰など自然な形で命を終えるのが「通常死」、事故・殺人・自殺・出産中の死など不自然な形で命を絶たれるのが「異常死」です。
通常死の場合は、適切な葬儀を行うことでウインヤーンを穏やかに次の世界へ送り出すことができるとされています。一方、異常死の場合は、亡くなった本人が自分の死を理解できず、この世に留まりやすいと考えられています。とくに妊婦の死(ターイ・タングロム)は最も危険とされ、強力な悪霊になると恐れられてきました。
ウインヤーンと葬儀の深い関係
タイの葬儀は、ウインヤーンを適切に送り出すための重要な儀式として位置づけられています。
葬儀情報サイトの解説によると、タイの葬儀にはいくつかの特徴的な習慣があります。
まず、タイでは故人の死に装束として白い上衣を二重に着せる風習がありました。一枚目はわざと後ろ前を逆に着付け、故人の魂に「あなたは亡くなったのですよ」と伝える意味がありました。これは、ウインヤーンがピーにならないよう、自分の死を認識させるための工夫とされています。
また、出棺の際に故人が使っていた茶碗などの食器を打ち砕く習慣もあります。これも「もうこの世には戻ってこなくてよい」というメッセージをウインヤーンに送るためのものです。
葬儀では僧侶によるパーリ語での読経が重要な役割を果たします。海外葬送事情の記事によれば、僧侶は1日に複数回の読経を行い、読経が終わった後には高僧が無常や功徳についての説法を行います。これらはすべて、ウインヤーンが安らかに次の世へ旅立てるように導くためのものです。
タイの葬儀のもうひとつの大きな特徴は、火葬後に墓を作らないことです。適切な葬儀を行えばウインヤーンはあの世に行けたと考えるため、遺灰は川や海に流されるのが一般的です。つまり、タイの葬儀は徹頭徹尾「ウインヤーンを極楽の良い場所へ送るための儀式」なんです。
異常死の場合の特殊な葬儀
通常死と異常死では、葬儀の方法も大きく異なります。異常死の遺体は通常よりも慎重な処理が求められ、すぐには火葬せずにセメントで固めた仮の棺に数か月から数年間安置してから、清めの儀式を経て火葬するという手順が取られることもあります。
最も有名なウインヤーン ──「メー・ナーク・プラカノーン」の伝説
タイの霊の物語で最も有名なのが「メー・ナーク・プラカノーン(แม่นากพระโขนง)」の伝説です。
Wikipedia「Ghosts in Thai culture」にも記載されているこの物語は、チャクリー王朝時代のバンコク・プラカノーン地区を舞台にしています。ナークという若い妊婦が、夫マークの不在中に出産の際に命を落としてしまいます。しかし夫への深い愛情から、ナークのウインヤーンは成仏できずにこの世に留まり続けました。
やがてナークの霊は凶暴化し、近隣の人々に恐れられるようになります。この物語はタイで繰り返し映画やドラマ化されており、1999年の映画『ナンナーク』や2013年の映画『愛しのゴースト』などが有名です。
メー・ナークの伝説は、「ピー・ターイ・タングロム(ผีตายทั้งกลม)」と呼ばれる、出産中に亡くなった女性の霊の典型例です。タイの人々がこの種の死を最も恐れる理由は、母親のウインヤーンが子どもへの執着から強い念を持ち、特に強力な悪霊になると信じられているからです。
仏教と精霊信仰の「矛盾」が生むタイ独特の世界観
ここまで読んで気づいた方もいるかもしれませんが、タイのウインヤーンの概念には大きな矛盾が含まれています。
仏教の教義では、「識(ヴィンニャーナ)」は永遠の魂ではなく、条件に応じて生じては消える無常な精神現象です。死後に「魂が漂う」という考え方は、厳密には仏教の無我の教えとは相容れません。
タイ語のPPTVの記事でも、仏教的な立場からは「ウインヤーンは五蘊のひとつである『識』の意味であり、ふわふわ漂う幽霊のことではない。人が死ねば即座に次の生に転生するのであって、霊魂がさまようことはない」という見解が紹介されています。
しかし、webムーの記事で指摘されているように、タイ人は森羅万象にピーが宿ると信じる精霊信仰と、ウインヤーンは動物には宿らないという仏教的な考えの両方を同時に持っています。これは上座部仏教とタイ固有の精霊信仰が深く習合した結果生まれた「矛盾」であり、タイ独特の宗教観を象徴しているといえます。
The Thaigerの記事で説明されているように、タイの人々は自らを仏教徒と認識していますが、実際にはアニミズム(精霊信仰)やバラモン教(ヒンドゥー教)の要素も信仰の中に深く根付いています。タイ語にはアニミズムに対応する単語が存在せず、すべての信仰実践を「仏教」の名のもとに包括しているのが実情です。
この宗教的混合こそが、「ウインヤーン」という言葉が仏教哲学の「識」から民間信仰の「霊魂」へとその意味を変えていった背景なのです。
まとめ
タイの「ウインヤーン」は、仏教の哲学用語「識(ヴィンニャーナ)」を語源としながら、タイ古来のアニミズム的精霊信仰と融合することで、独自の意味を持つようになった概念です。
ポイントをまとめると、語源はパーリ語の「ヴィンニャーナ(viññāṇa)」で、仏教では五蘊のひとつ「識(意識)」を意味します。タイの民間信仰では「人間に宿る霊魂」として理解されていて、人間にのみ宿り、動物には宿らないとされています。死後にこの世に留まるとピー(悪霊)になる可能性があり、適切な葬儀はウインヤーンを送り出すために不可欠です。
また、「ピー」が仏教以前から存在する精霊の総称、「クワン」がアニミズムに根差す非自己的な精霊であるのに対して、「ウインヤーン」はその人の意識や自己そのものを指す仏教由来の概念で、3つはまったく別のものです。
タイの文化や怪談に興味がある方は、これら3つの概念の違いを理解しておくと、タイのホラー映画や民間伝承がぐっと深く楽しめるようになりますよ。
参考情報
この記事の作成にあたり、以下の情報源を参照しました。
日本語の情報源
- webムー「幽霊か精霊か生霊か? 心霊大国タイの「ピー」を分類して考える」 – タイ在住ライター髙田胤臣氏によるウインヤーンとピーの解説
- Wikipedia「ピー信仰」 – タイの精霊信仰の概要
- 大東文化大学「葬儀:タイ」 – タイの死生観と葬儀の学術的解説
- 海外葬送事情「タイ」 – タイの葬儀の実際の流れ
- みやび葬儀「タイの葬儀」 – タイの葬儀の歴史と風習
- MOVIE WALKER PRESS「タイ・イサーン地方に根付く独特の死生観」 – 津村文彦教授の研究に基づく通常死と異常死の解説
- 福島県立大学「タイの精霊信仰におけるリアリティの源泉」 – タイ東北部のピー信仰に関する学術論文
英語の情報源
- Wikipedia “Ghosts in Thai culture” – タイの幽霊文化の包括的解説
- Wikipedia “Tai folk religion” – タイ族の民間信仰の概要
- Wikipedia “Vijñāna” – 仏教における「識(ヴィンニャーナ)」の解説
- Wikipedia “Skandha” – 仏教の五蘊の解説
- Britannica “Skandha” – ブリタニカ百科事典による五蘊の解説
- Wiktionary「วิญญาณ」 – ウインヤーンの語源・用例
- Language Log “Thai khwan and Old Sinitic reconstructions” – クワンとウインヤーンの言語学的分析
- The Thaiger “Thailand’s fusion of religious beliefs” – タイの宗教融合の解説
タイ語の情報源
- TheMatter.co「นั่นก็ผี นู่นก็ผี ว่าด้วยศาสนาผี」 – スジット・ウォンテート氏のクワンとウインヤーンの違いについての解説
- マティチョン・スットサップダー「ขวัญในศาสนาผี ปนกับวิญญาณทางศาสนาพุทธ」 – スジット・ウォンテート氏によるクワンと仏教的ウインヤーンの比較
- Wreathmala.com「เรื่องผี ๆ ความเชื่อที่แตกต่าง」 – ピー・クワン・ウインヤーンの違いについての解説
- タイ語版Wikipedia「ศาสนาผี」 – タイの精霊信仰の概要
- PPTVHD36「”ผี” มีจริงไหม?」 – 仏教的観点から見たウインヤーンとピーの違い
- マティチョン「วิญญาณและผีต่างกันอย่างไร」 – 仏教用語としてのウインヤーンの正確な意味についての解説


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