上杉謙信とは?「越後の龍」と呼ばれた戦国最強の武将

神話・歴史・文化

「敵に塩を送る」という言葉、聞いたことありますよね?
実はこれ、戦国時代のある武将のエピソードが由来なんです。

その武将こそが、今回紹介する上杉謙信
武田信玄との川中島の戦いで知られ、「軍神」とまで称された人物です。

生涯で70回以上も戦に出ながら、負けたのはわずか1〜2回という驚異的な戦績。
でも彼の魅力は、ただ強いだけじゃないんです。
「義」を何よりも大切にし、困っている者がいれば敵だろうと手を差し伸べる——そんな武将でした。

この記事では、上杉謙信の生涯と戦いぶり、そして彼が大切にした「義」の心について紹介します。

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上杉謙信とは?

上杉謙信は、戦国時代に越後国(現在の新潟県本州部)を治めた戦国大名です。
内乱が続いていた越後を統一し、繁栄に導きました。

彼の本名は長尾景虎
もともと上杉家の人間ではなく、長尾家の四男として生まれました。
ところが兄の跡を継いで家督を相続し、さらに関東管領・上杉憲政の養子となって「上杉」の名を継いだんですね。

異名もいくつかあります。
「越後の龍」「越後の虎」「軍神」——どれも彼の強さを表しています。

特に「軍神」という呼び名は、彼が毘沙門天(びしゃもんてん:仏教の戦いの神)を深く信仰していたことに由来します。
謙信自身、毘沙門天の化身だと信じていたともいわれているんです。

上杉謙信の生涯

幼少期——寺で学んだ日々

1530年(享禄3年)2月18日、謙信は越後国の春日山城で生まれました。
父は越後の守護代・長尾為景、幼名は虎千代(とらちよ)。

寅年生まれだったから「虎千代」と名付けられたんですね。

四男だった虎千代は、家督を継ぐ立場ではありませんでした。
7歳の時に林泉寺という寺に預けられ、学問や兵学を学びます。

この寺での経験が、後の謙信の「義」を重んじる姿勢や深い信仰心を育んだと考えられています。

家督相続——19歳で越後のトップに

1543年、13歳で元服して長尾景虎と名乗りました。
兄の命で栃尾城に入ると、すぐに反乱軍の襲撃を受けます。

これが景虎の初陣、栃尾城の戦いです。
15歳の若造を侮った敵軍でしたが、景虎は巧みな戦術で撃退。
少数の城兵を二手に分けて敵の背後を急襲し、見事勝利を収めました。

その後も戦での活躍が続き、兄の晴景よりも景虎を支持する声が高まります。
一時は兄弟で争いになりかけましたが、越後守護・上杉定実の調停で事なきを得ました。

1548年、19歳で兄の養子となって長尾家の家督を継承。
若くして越後のリーダーとなったんですね。

1551年には22歳で越後統一を果たします。

上杉の名を継ぐ

1552年、関東管領・上杉憲政が北条氏康に追われて越後に逃げてきました。
景虎は彼を保護し、1561年に上杉憲政から山内上杉家の家督と関東管領職を譲られます。

これにより上杉政虎と改名。
後に室町幕府将軍・足利義輝から「輝」の一字を賜り、上杉輝虎となりました。

そして1571年、仏門に入って法号謙信を名乗ります。
「謙」は謙虚、「信」は信頼を意味するんですね。

最期

1578年(天正6年)4月19日、春日山城で突然倒れ、そのまま49年の生涯を閉じました。
死因は脳卒中や心臓発作と考えられています。

当時、織田信長が天下統一に向けて動いていました。
謙信は前年の1577年に手取川の戦いで織田軍を撃退しており、次の遠征準備を進めていた最中でした。

もし謙信がもう少し長生きしていたら、歴史は大きく変わっていたかもしれません。

名前の変遷

上杉謙信は生涯で何度も名前を変えています。
少しややこしいので、整理してみましょう。

  • 虎千代(とらちよ):幼名
  • 長尾景虎(ながおかげとら):元服後
  • 上杉政虎(うえすぎまさとら):上杉家を継いだとき
  • 上杉輝虎(うえすぎてるとら):将軍から一字を賜ったとき
  • 上杉謙信(うえすぎけんしん):仏門に入ったとき(法号)

正式な姓名は藤原輝虎(ふじわらのてるとら)です。

でも一般的には「謙信」という法号で知られていますね。

主要な戦い

川中島の戦い——武田信玄との宿命のライバル対決

上杉謙信といえば、やはり川中島の戦いでしょう。

1553年から1564年まで、12年間にわたって5回も戦いました。
相手は甲斐国(現在の山梨県)の武田信玄——戦国最強と称される武将です。

きっかけは、信玄に攻められた信濃国(現在の長野県)の武将たちが謙信に助けを求めたこと。
謙信は義のために立ち上がったんですね。

特に有名なのが第四次川中島の戦い(1561年)。
これは川中島の戦いの中で唯一の大規模な激突でした。

謙信は車懸りの陣(くるまがかりのじん)という特殊な戦法を使いました。
前線の兵が疲れたら後方と交代するという、今でいうローテーション戦術です。

この戦法が見事にハマり、謙信は信玄の本陣に迫りました。

そして——伝説の一騎打ちが起こります。
謙信が馬に乗ったまま信玄に斬りかかり、信玄は軍配団扇で受け止めたという逸話です。

ただし、この一騎打ちは後世の創作という説が有力。
それでも、二人の激しい戦いぶりを物語る名シーンとして語り継がれています。

結果は引き分け。
武田軍は重臣・山本勘助や信玄の弟・武田信繁を失い、上杉軍も多大な損害を受けました。
推定で上杉軍の72%、武田軍の62%が犠牲になったとも言われています。

最終的に、5回の川中島の戦いはどれも決定的な勝敗がつかないまま終わりました。

手取川の戦い——織田信長との対決

1577年、謙信は織田信長の軍勢と手取川(現在の石川県)で戦いました。

当時、信長は天下統一に向けて勢力を拡大中。
越中(えっちゅう:現在の富山県)にも進出してきたため、謙信がこれを迎え撃ったんです。

結果は謙信の圧勝。
織田軍を撃退し、信長に「謙信だけは敵に回したくない」と言わしめたとされています。

謙信はこの勢いで信長討伐の準備を進めていましたが、翌年に急死。
もし謙信が生きていたら、日本の歴史は全く違ったものになっていたのかもしれません。

その他の戦い

謙信は生涯で70回以上出陣したといわれています。

  • 小田原城攻め(1561年):北条氏の本拠地を1ヶ月間包囲
  • 越中遠征:一向一揆や越中の武将たちとの戦い
  • 関東遠征:関東管領として北条氏と何度も交戦

明確な敗北は1〜2回だけ。
それ以外はすべて勝利か引き分けという驚異的な戦績です。

上杉謙信の特徴

義を重んじた心

謙信の最大の特徴は、を何よりも大切にしたこと。

「義」とは、人として正しいことを行い、道を守る心です。

彼は自分の利益よりも正しさを優先しました。
困っている人がいれば、たとえ敵であろうと助ける——それが謙信の生き方でした。

領土拡大のために戦う武将が多かった戦国時代に、謙信は異色の存在だったんですね。

毘沙門天への深い信仰

謙信は毘沙門天を深く信仰していました。

毘沙門天は仏教の戦いの神様。
謙信は自分を毘沙門天の化身だと信じ、「毘」の文字を記した旗を戦場で掲げていたそうです。

また、謙信は生涯独身を貫きました。
これも仏教への深い信仰が影響していると考えられています。

戦の天才

「軍神」の異名は伊達じゃありません。

車懸りの陣のような独自の戦術、迅速な判断力、そして自ら前線に立つ勇猛さ——すべてが一級品でした。

敵将の中には、謙信が出陣すると聞いただけで撤退する者もいたとか。
それだけ恐れられていたんですね。

優れた統治者

謙信は戦だけでなく、領国経営も優秀でした。

越後は内乱が続いていましたが、謙信が統一してからは産業や貿易が発展。
領民の生活水準も向上したといわれています。

また、部下への待遇も良く、多くの武将が謙信を慕っていました。

有名なエピソード

敵に塩を送る

上杉謙信といえば、この逸話が最も有名でしょう。

武田信玄の領国・甲斐国は海のない内陸地。
塩は今川氏との貿易で手に入れていました。

ところが信玄が今川氏と関係悪化し、塩の供給をストップされます。
塩がなければ食料の保存もできず、人々は困窮しました。

これを聞いた謙信は「戦いは正々堂々とすべきだ。塩がなくて苦しむのは卑怯だ」と考えました。
そして敵である武田領に塩を送るよう命じたんです。

これが「敵に塩を送る」という言葉の由来です。

ただし、この逸話は後世の創作という説もあります。
でも謙信が塩の供給を止めた記録はないため、少なくとも「塩で苦しめる」という卑怯な手は使わなかったことは確かなようです。

武田信玄への尊敬

謙信と信玄はライバルでしたが、同時に互いを認め合う関係でもありました。

信玄が死んだとき、謙信は号泣したといわれています。
「吾れ好敵手を失へり、世に復たこれほどの英雄男子あらんや」(私は良きライバルを失った。世にこれほどの英雄はもう現れないだろう)と。

また、家臣が「信玄の後を継いだ武田勝頼を攻めましょう」と進言したとき、謙信は「勝頼風情にそのような事をしても大人げない」と退けたそうです。

一方で、信玄が家督を継ぐ際に父を追放したことや、領土拡大のために謀略を使ったことを、謙信は苦々しく思っていたともいわれています。

複雑だけど、どこか通じ合うものがあった——そんな関係だったんですね。

出陣前の「お立ち飯」

謙信は兵士たちを大切にしました。

出陣前には必ず炊きたての白米を振る舞ったそうです。
これを「お立ち飯」と呼びました。

当時の兵糧は干し飯(ほしいい:乾燥させた保存食)が一般的。
でも謙信は少しでも美味しいものを食べさせたかったんですね。

こうした心配りが、兵士たちの士気を高めたのでしょう。

まとめ

上杉謙信は、戦国時代を代表する武将の一人です。

  • 越後国を統一し、繁栄に導いた
  • 生涯70回以上出陣し、負けたのは1〜2回だけ
  • 武田信玄との川中島の戦いで名を馳せた
  • 「義」を重んじ、困っている者を助けた
  • 毘沙門天を深く信仰し、生涯独身を貫いた
  • 「敵に塩を送る」という言葉の由来となった

強さだけでなく、人としての誠実さも兼ね備えた謙信。
彼の「義」の心は、現代を生きる私たちにも大切なことを教えてくれます。

「正しいことを行う」「困っている人を助ける」——簡単なようで難しいことですよね。
でも謙信は、戦国の世でそれを貫き通しました。

もし謙信があと10年長生きしていたら、日本の歴史はどう変わっていたでしょうか。
そんな「もしも」を想像するのも、歴史の楽しみ方の一つかもしれませんね。

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