夜の闇を緑色の光が浮遊し、頭と内臓だけになった女性の姿が現れる——。
そんな恐ろしい光景を目撃したら、あなたはタイの悪霊に出会ってしまったのかもしれません。
タイは世界屈指の「心霊大国」として知られ、国民の大多数が幽霊や精霊の存在を信じています。
タイ語で「ピー(ผี)」と呼ばれるこれらの存在は、守護霊から恐ろしい悪霊まで多種多様。
仏教国でありながら、精霊信仰が深く根付いているのがタイの大きな特徴なんです。
この記事では、タイで恐れられる代表的な悪霊たちの正体と特徴をご紹介します。
ピー(ผี)とは何か
「ピー」とは、タイ語で幽霊・精霊・悪霊などを総称する言葉です。
広い意味では、神様から妖怪、心霊現象まで、霊的なものすべてを「ピー」と呼びます。
興味深いのは、タイでは国民の約94%が上座部仏教徒でありながら、仏教伝来以前からあった精霊信仰(アニミズム)が今も色濃く残っている点です。
森羅万象に精霊が宿るという考え方は、日本の神道にも通じるものがありますね。
タイ人にとってピーは、単なる怪談話の主役ではありません。
日常生活に深く関わる実在の存在として、畏敬と恐怖の対象となっているのです。
代表的な悪霊たち
タイには数多くの悪霊が伝えられていますが、ここでは特に有名で恐れられているものをご紹介します。
ピー・ガスー(ผีกระสือ) – 飛ぶ頭と内臓の悪霊
タイで最も有名な悪霊の一つが、このピー・ガスーです。
昼間は普通の女性として暮らしていますが、夜になると頭部と内臓だけが体から抜け出して浮遊します。
緑色に光る内臓を引きずりながら空を飛び、血や排泄物などの不浄なものを食べるとされています。
特に恐れられているのが、出産直後の女性や新生児を襲う習性です。
胎盤が大好物とされ、妊婦のいる家の周囲を鋭い鳴き声をあげながら飛び回ります。
対策方法
家の周りに棘のある植物の枝を置くと、内臓に引っかかるのを嫌がって近づけないと言われています。
また、外に干した洗濯物が朝になって血や汚物で汚れていたら、ガスーが口を拭った跡だとされます。
ピー・ガスーになる原因は諸説ありますが、邪悪な黒魔術(เดรัจฉานวิชา)を学んだ者が禁忌を破ると、この悪霊に変わってしまうという説が有力です。
ピー・ガハン(ผีกระหัง) – ガスーの男性版
ピー・ガハンは、ピー・ガスーと対をなす男性の悪霊です。
強力な呪術(ไสยศาสตร์)を習得したものの、その力を制御できなくなった男性が変化すると伝えられています。
夜になると、米を脱穀する道具の「กระด้ง(カード)」を翼代わりに、「สาก(サーク、杵)」を尾や足代わりに装着して空を飛びます。
ガスーと同じく、腐敗物や不浄なものを食べる習性があります。
ピー・ポープ(ผีปอบ) – 胆食いの悪霊
東北タイ(イサーン地方)で特に恐れられているのが、ピー・ポープです。
この悪霊は人に憑依し、その人の内臓、特に肝臓を食べてしまいます。
憑かれた人がどれだけ食べても、ピー・ポープが横取りしてしまうため痩せ細り、最終的には内臓を食い尽くされて死に至ります。
ピー・ポープに変わる原因も、呪術の修行中に禁忌を破ることとされています。
除霊には「モータム(หมอตำ)」と呼ばれる専門の除霊師による儀式が必要です。
ピー・ガ(ผีกะ) – 北タイの憑依霊
北タイ地方で恐れられる憑依霊です。
フクロウを媒介として人に憑き、憑かれた人は正気を失い親族を襲うとされています。
さらに恐ろしいのは、ピー・ガが「憑きもの筋」として家系に憑くという点です。
ピー・ガに憑かれた家系では、毎年「リアン・ピーガ(เลี้ยงผีกะ)」という饗応儀礼を行って災厄を防ぎます。
かつては村人が一家丸ごと村から追放することもあったほど、深刻に恐れられていました。
ピー・プレート(ผีเปรต) – タイの餓鬼
仏教に由来する悪霊で、日本でいう「餓鬼」にあたります。
椰子の木よりも背が高く、口が針のように小さく長い舌を出しているため、食べ物を口にすることができません。
これは生前に嘘をついたり、寺院で悪事を働いた報いだとされています。
バンコクの「ワット・スタット(วัดสุทัศนเปรม)」という寺院は、ピー・プレートが現れる場所として知られています。
ピー・メーナーク(ผีแม่นาค) – 最も愛される幽霊
厳密には悪霊ではありませんが、タイで最も有名な幽霊として紹介せずにはいられません。
19世紀、プラカノーン村に住んでいたナークという女性は、夫マークが出征中に難産で母子ともに亡くなってしまいます。
しかし夫への愛が強すぎたナークは幽霊となり、戦争から帰ってきた夫と何も知らずに暮らし始めます。
やがて夫がナークの正体に気づき、高僧によって退治されますが、この悲恋の物語はタイ人の心を強く捉え、何度も映画化されています。
バンコクの「ワット・マハーブット(วัดมหาบุทร)」には今もナークを祀る祠があり、多くの参拝者が訪れます。
善霊と悪霊 – ピーの二面性
タイのピーには、悪霊だけでなく善霊も存在します。
善霊の例
- ピー・プーター/ピー・ヤーイ(ผีปู่ย่าตายาย): 祖先の霊で、家や村を守護する
- ピー・ルアン(ผีเรือน): 家を守る精霊
- グマーン(กุมาร): 子どもの姿をした精霊。日本の座敷童子に似る
興味深いのは、ピーの善悪は絶対的なものではない点です。
守護霊であっても祀り方を間違えれば災いをもたらし、悪霊であっても適切に供養すれば鎮まるとされています。
この曖昧さこそが、タイのピー信仰の特徴と言えるでしょう。
起源と仏教との関係
ピー信仰は、上座部仏教がタイに伝来する以前(13世紀より前)から存在していた精霊信仰に由来します。
当時のタイは多民族国家で、人々をまとめるために仏教が政治利用されました。
しかし古来からの精霊信仰は根絶されることなく、仏教と融合して独自の信仰形態を作り上げたのです。
ピー信仰と仏教の習合の例
- 「ウィンヤーン(วิญญาณ)」という概念: 人間の魂を指し、死後に成仏しなければピーになるとされる
- ピー・プレート(餓鬼): 仏教の六道思想から
- 除霊儀礼: 僧侶や「モータム」が仏法を用いてピーを調伏する
ただし矛盾も存在します。
タイ人は「森羅万象にピーが宿る」と信じる一方で、仏教の影響で「動物には魂(ウィンヤーン)がない」とも考えています。
このため、タイには動物の妖怪がほとんど存在しないのです。
現代タイ文化への影響
ピー信仰は、現代タイ社会にも深く根付いています。
映画・ドラマ
タイは世界有数のホラー映画大国です。
ピー・ガスー、ピー・メーナーク、ピー・ポープなどを題材にした作品が数多く制作され、中には『心霊写真』のようにハリウッドでリメイクされた作品もあります。
日常生活
- 家やビルの敷地内に「サーン・プラプーム(ศาลพระภูมิ)」という祠を設置し、土地の精霊を祀る
- 寺院や祠の前を通るとき、走行中でもワイ(合掌)をする
- 夜に洗濯物を外に干さない(ガスーが口を拭くため)
- 妊婦のいる家では棘のある植物で防御する
観光地
心霊スポットツアーも人気で、アユタヤの「ワット・プラシーサンペット」などの遺跡は、CNNの「アジアの最も怖い場所10選」にも選ばれています。
一覧表:主要な悪霊と特徴
| 名前(タイ語) | 読み方 | 特徴 | 地域 |
|---|---|---|---|
| ผีกระสือ | ピー・ガスー | 頭と内臓が飛ぶ女性。緑色に光る | 全国 |
| ผีกระหัง | ピー・ガハン | ガスーの男性版。道具を翼と尾にする | 全国 |
| ผีปอบ | ピー・ポープ | 人に憑依し内臓を食べる | 東北タイ |
| ผีกะ | ピー・ガ | フクロウを媒介に憑依。家系に憑く | 北タイ |
| ผีเปรต | ピー・プレート | 背が高く口が小さい餓鬼 | 全国 |
| ผีแม่นาค | ピー・メーナーク | 夫を愛する女性の幽霊 | プラカノーン村 |
| ผีโพง | ピー・ポーン | 鼻から光を発する。北タイの悪霊 | 北タイ |
| ผีห่า | ピー・ハー | コレラなど疫病をもたらす悪霊 | 全国 |
参考情報
この記事の作成にあたり、以下の情報源を参照しました:
- ピー信仰 – Wikipedia
- 幽霊か精霊か生霊か? 心霊大国タイの「ピー」を分類して考える – webムー
- 心霊大国タイの精霊「ピー」信仰と仏教 – webムー
- タイの精霊(ピー)信仰とは? – ワイズデジタル
- タイのお化け図鑑 – と暮らす
- รายชื่อผีไทย – วิกิพีเดีย (タイ語版Wikipedia)
- เปิดจักรวาลผีไทย กับที่มาและเหล่าความเชื่อ – Thai PBS NOW (タイ語)
さらに詳しく知りたい方へ:
- 『東北タイにおける精霊と呪術師の人類学』(津村文彦)
- 『ผีไทย Thai Ghost』(เอนก นาวิกมูล) – タイの幽霊についてのタイ語書籍
まとめ
タイの悪霊「ピー」について、主要なポイントをまとめます:
ピーとは
タイ語で幽霊・精霊・悪霊などを総称する言葉。善霊と悪霊の両方が存在し、その境界は曖昧。
代表的な悪霊
ピー・ガスー(飛ぶ頭と内臓)、ピー・ポープ(胆食い)、ピー・ガ(憑依霊)など、地域ごとに特色ある悪霊が伝承される。
特徴
仏教伝来以前からの精霊信仰が、上座部仏教と融合して独自の形態を作り上げた。現代でも日常生活に深く根付いている。
文化的影響
映画・ドラマの題材として人気が高く、タイは世界有数のホラー映画大国。観光資源としても注目されている。
タイを訪れる際は、寺院や祠に敬意を払い、夜の洗濯物には気をつけましょう。
もし夜道で緑色の光を見かけたら……それはピー・ガスーかもしれません。


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