俵藤太のムカデ退治伝説|龍神に選ばれた弓の名人が挑んだ大百足との戦い

神話・歴史・伝承

琵琶湖のほとりを歩いていると、突然大蛇が現れて道をふさいだら、あなたはどうしますか?

平安時代、その大蛇を平然と踏みつけて渡った勇者がいました。

その名は藤原秀郷(ふじわらのひでさと)、通称「俵藤太(たわらのとうた)」です。

この一歩が、日本の伝説史に残る「大ムカデ退治」の始まりでした。

山を七巻き半もするという巨大ムカデに、たった三本の矢で立ち向かった英雄の物語。

この記事では、俵藤太の大ムカデ退治伝説について、その詳しいあらすじから現代に残る伝説の痕跡まで、わかりやすく解説していきます。


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俵藤太(藤原秀郷)とは?

歴史上の人物

俵藤太こと藤原秀郷は、平安時代中期に実在した武将です。

基本情報

  • 生没年: 生年不詳〜958年頃
  • 本名: 藤原秀郷(ふじわらのひでさと)
  • 通称: 俵藤太、田原藤太
  • 出身: 下野国(現在の栃木県)
  • 官位: 従四位下、鎮守府将軍

秀郷は藤原北家の流れを汲む名門の出身でした。

若い頃から弓の名手として知られ、その武勇は関東一円に響き渡っていたといいます。

平将門の乱と秀郷

秀郷が歴史に名を刻んだ最大の功績は、平将門の乱の鎮圧です。

天慶3年(940年)、関東で反乱を起こした平将門を、平貞盛とともに討ち取りました。

この功績により、秀郷は従四位下に昇進。

下野国と武蔵国の国司、さらに鎮守府将軍に任じられています。

彼の子孫からは、奥州藤原氏をはじめ、多くの武家が生まれました。

「俵藤太」の名の由来

なぜ「俵」藤太と呼ばれるようになったのでしょうか?

これには複数の説があります。

説1:田原の里に由来

秀郷が下野国の田原(たわら)の里に住んでいたことから「田原藤太」と呼ばれ、それが「俵藤太」に転じたという説があります。

説2:龍神からの贈り物に由来

もう一つは、ムカデ退治の褒美として龍神からもらった「尽きることのない米俵」に由来するという説です。

この米俵は、いくら米を取り出しても減ることがなかったといいます。


大ムカデ退治伝説のあらすじ

瀬田の唐橋での出会い

ある日のこと、藤原秀郷が近江国(現在の滋賀県)の瀬田の唐橋を渡ろうとしました。

すると、橋の中ほどに長さ二十丈(約60メートル)にもなる大蛇が横たわっていたのです。

目をギラギラと光らせ、口から炎を吐いています。

橋を通る人々は皆、その恐ろしい姿に怯えて逃げ出しました。

しかし、秀郷は違いました。

「こんなところに寝そべるとは、邪魔なやつだ」

そう言うと、大蛇の背中を平然と踏みつけて渡っていったのです。

龍神からの依頼

その夜、秀郷のもとに一人の美しい女性が訪れました。

「私は昼間の大蛇です。その正体は、琵琶湖の底に住む龍神一族の娘なんです」

龍女は語り始めます。

「あれは、勇気ある人間を探すためでした。今日まで何人もがあの橋を渡りましたが、みな逃げ出してしまった。でも、あなたは違った。だからお願いがあるのです」

龍女の話によると、近くの三上山(みかみやま)に巨大なムカデが住み着いているというのです。

このムカデが琵琶湖に降りてきては、龍神一族の仲間を次々とさらっていく。

「どうか、三上山の大ムカデを退治してください」

秀郷は問いました。

「龍神ならば、ムカデくらい退治できるのではないか?」

「いいえ。このムカデは、山を七巻き半もするほどの怪物なのです。私たちの力ではとても敵いません」

秀郷は二つ返事で承諾しました。

「そんなに困っているのなら、退治してやろう」

竜宮城での宴

龍女は喜び、秀郷を竜宮城へと招きました。

琵琶湖の水が左右に分かれ、秀郷の衣服は濡れることもなく湖底へと続く道が現れます。

やがて見えてきたのは、きらびやかな宮殿でした。

そこで秀郷は龍王に歓迎され、盛大なもてなしを受けます。

水晶の皿に盛られた山海の珍味。

黒檀の箸。

金魚の舞姫たちの踊りと、鯉の楽師たちが奏でる雅な音楽。

秀郷は極上の酒に酔いしれ、時を忘れて楽しんでいました。

大ムカデの襲来

真夜中を過ぎた頃のこと。

突然、宮殿全体が激しく揺れ始めました。

ドスン、ドスン、ドスン……

まるで大軍が行進してくるような地響きが近づいてきます。

秀郷と龍王がバルコニーに駆け出すと、三上山の方角から二つの巨大な火の玉が近づいてくるのが見えました。

それは大ムカデの目だったのです。

松明が二千本も三千本も連なって動いているかのような光景。

それが大ムカデの無数の足でした。

龍王は恐怖に震えています。

一の矢、二の矢

秀郷は五人張りの大弓を手に取りました。

南無八幡大菩薩!

祈りを込めて、渾身の力で弓を引き絞り、最初の矢を放ちます。

カーン!

矢は大ムカデの甲羅に当たりましたが、あっさりと弾かれてしまいました。

秀郷は二本目の矢をつがえます。

今度こそと狙いを定めて放ちましたが、結果は同じ。

ムカデの硬い外殻には、矢が通用しないのです。

残る矢は、あと一本だけ。

大ムカデは今にも秀郷に襲いかからんとしていました。

唾の秘密

絶体絶命の窮地で、秀郷はあることを思い出しました。

人間の唾は、ムカデの天敵だ

古くからの言い伝えを信じ、秀郷は最後の矢尻に唾をつけました。

そして、再び八幡神に祈りを捧げます。

南無八幡大菩薩!どうかお力を!

渾身の力を込めて放たれた三の矢は、真っ直ぐに大ムカデの眉間へと飛んでいきました。

ズン!

今度は弾かれることなく、矢は深々と突き刺さります。

大ムカデは苦悶の叫びをあげ、のたうち回った後、ついに息絶えました。

龍神からの褒美

大ムカデを見事に退治した秀郷に、龍王は深く感謝しました。

「おかげで一族を救うことができました。これはお礼の品です」

龍王から贈られた宝物は、以下のものでした。

秀郷が龍神から受け取った宝物

  • 尽きることのない米俵 – いくら取り出しても米が減らない
  • 無尽の巻絹 – いくら切っても減らない絹の反物
  • 赤銅の釣鐘 – 美しい音色を奏でる梵鐘
  • 太刀 – 龍神から授かった名刀
  • – 神秘の力を持つ甲冑
  • 食べ物があふれる鍋 – 何を入れても尽きることがない

米俵は「取り出しても取り出しても米が尽きない」という不思議な品でした。

都の人々はこの話を聞いて、秀郷のことを「俵藤太」と呼ぶようになったのです。


伝説の舞台となった場所

瀬田の唐橋

大蛇との出会いの場所となった瀬田の唐橋は、現在も滋賀県大津市に存在します。

琵琶湖から流れ出る唯一の川、瀬田川にかかる橋です。

古来より「京都の喉元」と呼ばれ、東海道の要衝として重要な役割を果たしてきました。

橋の右岸(京都側)から渡ると、堤防沿いの遊歩道に大蛇と大ムカデのレリーフが描かれているのを見ることができます。

また、橋の東詰には龍王宮秀郷社(橋守神社)があり、秀郷と龍王が祀られています。

三上山(近江富士)

大ムカデが住んでいたとされる三上山は、滋賀県野洲市にあります。

標高は432メートルと、それほど高い山ではありません。

しかし、周囲の平野に独立してそびえるその姿は美しく、「近江富士」の愛称で親しまれています。

三上山の麓には御上神社(みかみじんじゃ)があり、国宝の本殿や重要文化財の楼門が残されています。

伝説によると、秀郷はムカデ退治の前にこの神社で祈願し、御祭神から「矢尻に唾をつけて眉間を狙え」という秘訣を授かったといいます。

三井寺(園城寺)

秀郷が龍神から授かった赤銅の釣鐘は、三井寺(園城寺)に奉納されました。

この鐘にはさらに有名な後日談があります。

比叡山延暦寺と三井寺の争いの際、武蔵坊弁慶がこの鐘を奪い、比叡山まで引きずり上げたのです。

ところが、鐘を撞いてみると「イノー、イノー」(関西弁で「帰りたい」の意味)としか鳴りません。

怒った弁慶は鐘を谷底へ投げ捨ててしまいました。

現在、この「弁慶の引摺り鐘」は三井寺の霊鐘堂に安置されており、弁慶が引きずった時についたとされる傷跡やひび割れが残っています。

この鐘は奈良時代の制作で、国の重要文化財に指定されています。


伝説の文学的発展

御伽草子『俵藤太物語』

俵藤太のムカデ退治伝説は、室町時代に御伽草子(おとぎぞうし)として成立しました。

『俵藤太物語』では、龍神が美しい女性の姿で秀郷の前に現れます。

ムカデ退治の後には竜宮城に招待され、数々の宝物を授かるという展開です。

この物語は江戸時代に広く読まれ、多くの絵巻物や版本が作られました。

太平記

14世紀の軍記物語『太平記』にも、秀郷のムカデ退治が記されています。

ただし、太平記版では龍神が「小男」の姿で登場するなど、細部が異なります。

また、ムカデの住処も三上山ではなく比良山とされている点も特徴的です。

英語への翻訳

この伝説は明治時代に英語に翻訳され、海外でも知られるようになりました。

“My Lord Bag of Rice”(米袋の殿様)というタイトルで、バジル・ホール・チェンバレンが1887年に翻訳。

尾崎英子(イェイ・セオドラ・オザキ)も1903年に『Japanese Fairy Tales(日本おとぎ話)』に収録しています。


伝説に秘められた意味

なぜムカデだったのか?

この伝説で敵役となっているのが「ムカデ」という点は興味深いものがあります。

ムカデは古来より、以下のような両義的なイメージを持っていました。

ムカデの象徴的意味

  • 悪の象徴: 毒を持ち、人を害する存在
  • 武の象徴: 「百足」の字から、多くの足で前進する=後退しない
  • 金運の象徴: 鉱山の守り神として信仰される地域も

武将の家紋や兜の装飾にムカデが使われることも多く、「後ろに下がらない」という武人の心意気を表していました。

この伝説では、悪しきムカデを倒すことで、秀郷の武人としての資質が証明されているとも解釈できます。

唾の呪力

三本目の矢に唾をつけて射るという展開は、古代の呪術的な信仰を反映しています。

人間の体液、特に唾液には魔を祓う力があると信じられていました。

ムカデが人間の唾を苦手とするという設定は、人間の呪力が妖魔に勝るという古代的な世界観を表現しているのかもしれません。

龍とムカデの対立

龍神がムカデに苦しめられているという構図も、古い信仰を反映している可能性があります。

中国の伝承では、龍の天敵として「蜈蚣(ごこう=ムカデ)」が挙げられることがあります。

水を司る龍と、山や鉱山に関連するムカデ。

この対立構造が、日本の伝説に取り込まれたと考えられています。


俵藤太ゆかりの地を訪ねる

滋賀県

瀬田の唐橋周辺

  • 橋守神社(龍王宮秀郷社): 秀郷と龍王を祀る
  • 雲住寺: 秀郷遺愛の品を伝える

三上山周辺

  • 御上神社: 秀郷が祈願したとされる神社(国宝の本殿あり)
  • 三上山登山道: 山頂には御上神社奥宮がある

大津市

  • 三井寺(園城寺): 弁慶の引摺り鐘(霊鐘堂)、三井の晩鐘

その他の地域

秀郷ゆかりの伝承は、彼の出身地である栃木県にも残っています。

宇都宮市には「百目鬼退治」という伝説があり、秀郷が「百目鬼(どどめき)」という鬼を退治したと伝えられています。


俵藤太伝説が後世に与えた影響

武家の祖としての秀郷

藤原秀郷は、平将門討伐の功績により、源氏・平氏と並ぶ武家の棟梁となりました。

その子孫は秀郷流藤原氏と呼ばれ、日本各地で多くの武家を輩出しています。

秀郷を祖とする主な氏族

  • 奥州藤原氏
  • 佐藤氏
  • 結城氏
  • 小山氏
  • 波多野氏

「俵藤太物語」の末尾には、こんな一文があります。

「日本六十余州に弓矢をとって藤原と名のる家、おそらくは秀郷の後胤たらぬはなかるべし」

それほど多くの武家が、秀郷の血を引いていると主張したのです。

現代文化への影響

俵藤太のムカデ退治伝説は、現代でも様々な形で親しまれています。

浮世絵

  • 月岡芳年の「藤原秀郷、龍宮城にて大百足を射る図」(1890年)

ゲーム・創作作品

  • 数々のRPGやファンタジー作品で、巨大ムカデを退治する英雄のモチーフとして使われています

まとめ

俵藤太の大ムカデ退治伝説は、単なる妖怪退治の物語ではありません。

それは、勇気と知恵を持った人間が、神秘的な存在と協力して悪を倒すという、普遍的な英雄譚なんです。

この伝説が伝えていること

  • 勇気の価値: 恐れずに前に進む者だけが、助けを求める声に応えられる
  • 知恵の重要性: 力だけでは勝てない敵にも、知恵があれば道は開ける
  • 約束を守ること: 龍神との約束を果たした秀郷は、末永い繁栄を得た

瀬田の唐橋を渡る時、三上山を眺める時、三井寺の鐘を見る時。

千年以上前の英雄の物語に思いを馳せてみてはいかがでしょうか。

その時、あなたの耳には、龍宮城から響いてくる梵鐘の音が聞こえるかもしれません。

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