古代エジプトで、出産を控えた女性たちが最も頼りにした神様がいたことをご存じでしょうか?
その名はタウエレト(別名:トエリス)。
現代の私たちから見るとユーモラスにも見える、カバの頭を持つこの女神は、母と子を守る強い母性の象徴として、約5000年もの長い間、人々の暮らしに寄り添ってきました。
この記事では、古代エジプトの民衆に深く愛された女神タウエレトの姿や特徴、神話での役割について詳しくご紹介します。
概要

タウエレト(トエリス)は、古代エジプトで妊娠と出産を守護する女神として信仰されました。
その名前は「偉大なるもの」を意味し、これは恐ろしい力を持つ存在に敬意を示すための呼び方なんです。
古王国時代から続く信仰
タウエレトへの信仰は紀元前2686年ごろ、つまり古王国時代から始まりました。これは日本でいえば縄文時代の終わりごろにあたる、とても古い時代ですね。
特筆すべきは、王族だけでなく一般の民衆に広く愛されたという点です。
日常に溶け込んだ女神
タウエレトは、もう一人の守護神ベスとともに、日常生活のあらゆる場面に登場しました。
- 護符(お守り)として身につけられた
- ベッドや枕に姿が刻まれた
- ミルクの壺にまで描かれた
- 魔法の象牙と呼ばれる呪具にも登場した
当時の母子の死亡率は非常に高かったため、タウエレトの護符は命を守る必需品だったのです。
系譜
タウエレトの神話上の家族関係は、時代や地域によってさまざまに変化しました。
多くの女神との習合
エジプト神話の特徴として、複数の神々が「同じ神の別の側面」として扱われることがあります。タウエレトは特に母性的な女神たちと結びつけられました。
主な習合関係
- ハトホル:愛と美の女神
- イシス:魔術と母性の女神
- ヌト:天空の女神
- テフヌト:湿気の女神
地域ごとの解釈
テーベ(ルクソール)では、現地の女神イペトと同一視され、太陽神アモンの妻であり母とされました。
ヘリオポリスでは、「九柱の神を生んだもの」として崇められ、主要な神々の母として扱われたんですね。
このように、タウエレトは様々な神話体系に組み込まれながらも、常に「母」「乳母」「保護者」という役割を担い続けました。
セトとの複雑な関係
興味深いことに、タウエレトは時として暴風の神セトの愛人とされることもありました。
セトは後に「悪の神」として嫌われるようになりますが、タウエレトは下位の神という立場だったがゆえに、セトの凋落に巻き込まれることなく、民衆からの人気を保ち続けたのです。
ローマの歴史家プルタルコスは、その著書で「タウエレトはセトを捨ててホルスたちの仲間入りを果たした」と記述しています。
姿・見た目
タウエレトの姿は、一度見たら忘れられないほど独特で印象的なんです。
異種混合の姿
エジプトの神々の多くは均整の取れた美しい姿で描かれますが、タウエレトは全く異なります。
タウエレトの身体構成
- 頭部:カバ
- 胴体:カバ(妊婦を表現した大きな腹部と垂れ下がった乳房)
- 前足:ライオン(または人間の手)
- 後ろ足:ライオン
- 背中と尾:ワニ
つまり、ナイル川に住む3種類の危険な動物の特徴を併せ持っているんですね。
なぜこの姿なのか?
古代エジプトでは、雌のカバは子供を必死に守る母親の象徴でした。一方、雄のカバは危険で暴力的な存在として恐れられていたんです。
ライオンの足は力強さを、ワニの背と尾は守護の力を表しています。
姿勢と持ち物
タウエレトは通常、後ろ足で直立した姿で描かれます。これは動物のカバとは違う、神聖な存在であることを示しているんですね。
よく持っているもの:
- サア記号:「保護」を意味する標識にもたれかかる
- アンフ記号:生命の十字架
- メナド:再生と食物のシンボル
- ナイフや松明:悪霊を追い払う道具
人間の姿での表現
場合によっては、人間の女性の頭を持ち、カバの体をゆったりとした服で覆った姿でも描かれました。
また、ハトホルの特徴である太陽円盤を挟んだ角の冠をつけることもあります。
特徴
タウエレトには、母なる女神ならではの様々な特徴がありました。
主な役割
出産の守護
これが最も重要な役割です。出産時の危険から母子を守り、無事な出産を助けると信じられていました。
悪霊退散
魔法の象牙や護符を通じて、悪霊や毒蛇から人々を守るとされました。特に夜間、眠っている間の守護神として重要だったんです。
食物の恵み
「乳母たちの家の監督者」や「食物を与えるもの」という称号が示すように、人間に食物の恵みをもたらす存在でもありました。
元素と色
タウエレトに結びつけられた元素は水です。
これはナイル川の増水(氾濫)と関連しており、毎年の洪水がエジプトに豊かさをもたらすように、タウエレトも生命と豊穣をもたらすと考えられました。
彼女を象徴する色は緑と赤。緑は再生と生命を、赤は生命力を表しています。
民衆との距離の近さ
興味深いのは、タウエレトに捧げられた大きな神殿がほとんど存在しないという点です。
カルナクに小さな礼拝堂があった程度で、主要な神殿はありませんでした。
しかし、これはタウエレトが重要でなかったということではありません。むしろ逆で、彼女は日常生活に深く溶け込んだ存在だったのです。
発見されている遺物
- 彫像
- ナイフ
- 扇
- ベッドの装飾
- 子供用の哺乳カップ
- 数え切れないほどの護符
これらがエジプト各地の遺跡から発見されており、民衆の暮らしにいかに密着していたかがわかります。
神話・伝承
タウエレトは様々な神話に登場し、重要な役割を果たしました。
ラーの目の神話
最も有名な神話の一つが「ラーの目」の物語です。
あらすじ
- 太陽神ラーの目(娘でもある女神)が父に怒り、ライオンの姿でヌビア(現在のスーダン)に逃げてしまった
- 他の神々が彼女を説得してエジプトに連れ戻した
- 帰還した彼女はカバの姿(つまりタウエレト)に変身した
- その結果、ナイル川の増水(氾濫)が起こった
この神話は、タウエレトが豊穣と再生の女神であることを示しています。ナイルの氾濫は、エジプトに肥沃な土をもたらす恵みの現象だったからです。
天空の守護者
新王国時代(紀元前1550年頃~)になると、タウエレトは星座としても描かれるようになりました。
天井画に描かれた天文図では、タウエレトは北の空に位置し、背中にワニを乗せた姿で表現されています。
実はこれ、現在の「大熊座」にあたると考えられているんです。
セトの前足を見張る役割
興味深い神話が『昼と夜の書』に記録されています。
「セトの前足(北斗七星)は、北の空で金の鎖によって2本の杭につながれている。これをカバの姿のイシス(タウエレト)が見張っている」
つまり、タウエレトは混乱の神セトの力が暴走しないよう、宇宙レベルで監視する役割を担っているんですね。
ホルスの乳母
メッテルニヒ石碑という重要な文書には、女神イシスがこう語る場面があります。
「ホルスは雌豚と小人によって育てられた」
この「雌豚」がタウエレト、「小人」が守護神ベスを指しているとされています。
これは、タウエレトが神の子供たちの乳母として重要な役割を果たしたことを示す伝承なんです。
太陽神の母
後の時代、特にプトレマイオス朝時代になると、タウエレトは太陽神を産み、育てた存在とされるようになりました。
カルナクのイペト神殿では、「毎日、太陽神がカバの女神たちから生まれる」という儀式が行われていたそうです。
ファイユーム地方の伝承
『ファイユームの書』という文書では、タウエレトがファイユーム湖(モエリス湖)に現れる場面が描かれています。
ここでは、ワニの神ソベク=ラーを守護する母神として登場します。興味深いことに、ここでのタウエレトはネイト女神の役割も兼ねているんですね。
出典・起源
タウエレト信仰がいつ、どのように始まったのかは、実は完全には解明されていません。
古い時代からの信仰
最古の証拠はピラミッド・テキスト(紀元前2400年頃)に見られます。
ここでは「イペト」という名前で、「その白く輝く甘いミルクを王に与える」乳母の女神として登場するんです。
この時点で、すでに保護と養育の女神という性格が確立していたことがわかります。
先史時代の起源
もっと遡ると、先王朝時代(紀元前3000年以前)から、雌カバの姿をした護符が作られていました。
これは、タウエレト信仰の起源がエジプト文明の始まり以前にまで遡る可能性を示しています。
名前のバリエーション
タウエレトには、実に多くの別名がありました。
主な別名
- トエリス(Toeris):ギリシャ語読み
- タウルト(Taurt)
- イペト(Ipet):「乳母」の意味
- レレト(Reret):「雌豚」の意味
- オペット(Opet)
これらは本来、別々のカバ女神だった可能性もありますが、時代とともにタウエレトという一つの女神像に統合されていったようです。
主な信仰地
ヘリオポリス(下エジプト第13ノモスの州都)
古くからタウエレトが崇拝されており、「九柱の神を生んだもの」として重要視されました。
テーベ(上エジプト第4ノモスの州都)
ルクソール神殿では、イペト=タウエレトとしてアモン神と結びつけられました。
ゲベル・シルシレ
古名を「清らかな水」といい、タウエレトの祭儀が公式儀式として行われた唯一の場所です。ここでは洪水の時期に、ナイル川に供物を投げ込む儀式が行われました。
エジプト以外への伝播
タウエレトの信仰は、エジプトの外にも広がりました。
レヴァント地方(現在のシリア、レバノン、イスラエル周辺)
中王国時代の交易を通じて、アジア系の文化圏にも伝わり、同様の母性神として受け入れられました。
クレタ島(ミノア文明)
地中海貿易によって、タウエレトはクレタ島に伝わり、「ミノアの精霊」と呼ばれる守護神へと変化しました。この影響はさらに本土ギリシャのミケーネ文明にまで及んだんです。
ヌビア
エジプトの南に位置するヌビア王国でも、タウエレトは王室の儀式に取り入れられ、王の権威を象徴する存在となりました。
時代を超えた人気
タウエレトの護符は、プトレマイオス朝時代(紀元前332~30年)とローマ時代(紀元前30年~紀元390年)に最も多く作られました。
ギリシャやローマの支配下になっても、エジプトの人々はタウエレトへの信仰を捨てなかったんですね。
まとめ
タウエレトは、古代エジプトの人々の日常に最も近い存在だった女神です。
重要なポイント
- 紀元前2686年頃から約3000年以上信仰された出産・妊娠の守護女神
- カバの頭、ライオンの足、ワニの背を持つ独特の姿
- 名前は「偉大なるもの」を意味し、敬意を込めた呼び名
- 民衆に広く愛され、護符や日用品に姿が刻まれた
- ハトホル、イシス、ヌトなど多くの母性神と習合した
- 大神殿はないが日常生活に密着した存在だった
- ナイルの増水、星座、太陽神の母など多面的な神話を持つ
- エジプト外にも伝播し、クレタ島やヌビアでも信仰された
カバというと現代の私たちは「かわいい動物」というイメージを持ちますが、古代エジプト人にとっては「恐ろしくも子を守る強い母親」の象徴でした。
タウエレトの姿は、まさに強い母性と守護の力を表現した、古代エジプト人の知恵の結晶なのです。

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