三国時代、天下の英雄たちの心を奪った美人姉妹がいました。
姉の大喬(たいきょう)と妹の小喬(しょうきょう)は、「江東の二喬」として名高く、その美しさは中国四大美女に匹敵するとまで言われたほどです。
しかし、大喬の人生は決して幸せなものではありませんでした。戦乱の中で捕虜となり、結婚からわずか4ヶ月で夫を失うという悲劇に見舞われたのです。
この記事では、三国時代を彩った悲劇の美女・大喬の生涯と伝承について詳しくご紹介します。
概要

大喬は、中国の後漢末期から三国時代にかけて生きた女性です。
揚州の名士である橋公(きょうこう)の娘で、妹の小喬とともに「江東の二喬」として知られています。正史『三国志』では「大橋」と表記されており、「大喬」という表記は小説『三国志演義』で使われるようになりました。
199年12月、孫策(そんさく)が皖城(かんじょう)を攻略した際に捕虜となり、孫策の妻妾となります。しかし、結婚からわずか4ヶ月足らずで孫策が急死してしまい、その後の消息は歴史の闇に消えてしまいました。
時代に翻弄された悲劇の美女として、後世の文学や芸術作品で繰り返し描かれてきた人物なんです。
江東の二喬とは
「江東の二喬」という呼び名は、どうして生まれたのでしょうか?
揚州一帯は長江の下流域に位置していたため、古くから「江東」と呼ばれていました。この地域出身の美人姉妹ということで、「江東の二喬」という通り名がついたのです。
二喬の美しさについて、『三国志演義』ではこんな表現が使われています。
「沈魚落雁・閉月羞花」
これは中国で最高級の美女を表す言葉で、「魚も恥じて沈み、雁も見とれて落ち、月も隠れ、花も恥じらう」という意味なんです。
清の時代に編纂された『百美新詠図伝』では、大喬は中国歴代で最も名高い美人100人の一人に選ばれています。歴史に名を残すほどの美貌だったことがうかがえますね。
孫策との結婚
大喬と孫策の出会いは、戦争という過酷な状況の中で起こりました。
皖城の戦い
199年12月、江東統一を目指す孫策は、親友であり義兄弟の周瑜(しゅうゆ)とともに皖城を攻略します。この戦いで橋公の娘である二喬は捕虜となり、孫策が大喬を、周瑜が小喬を妻に迎えました。
孫策の冗談
このとき、孫策は周瑜に対してこんな冗談を言ったと『江表伝』に記されています。
「橋公の二人の娘は故郷を失うことになったが、我々のような男を婿にできたのだから満足だろう」
美男子として知られた孫策と周瑜ならではの自信に満ちた言葉ですね。ただ、捕虜として連れてこられた大喬たちにとって、この言葉がどう響いたかは想像するしかありません。
わずか4ヶ月の結婚生活
悲劇は突然訪れます。
結婚からわずか4ヶ月足らずの200年4月、孫策は刺客に襲われて負傷し、26歳の若さで命を落としてしまいました。大喬との間に子供がいたという記録はなく、その後の消息も一切不明です。
野史『庸庵筆記』によると、大喬は夫の死後数ヶ月で亡くなったと伝えられています。夫の後を追うようにこの世を去ったのかもしれませんね。
赤壁の戦いと二喬
大喬の名が歴史に深く刻まれたのは、赤壁の戦い(208年)との関わりがあるからです。
曹操の野望
当時、天下統一を目指していた曹操(そうそう)は、二喬の美しさを耳にしていました。曹操が築いた銅雀台(どうじゃくだい)という宮殿に、二喬を侍らせたいと語ったという話が伝わっています。
周瑜の激怒
『三国志演義』では、この曹操の野望が赤壁の戦いの引き金になったと描かれています。
諸葛亮(しょかつりょう)が周瑜に対し、曹操の息子・曹植が書いた「銅雀台賦」という詩を引用して、曹操が二喬を奪おうとしていることをほのめかしました。これを聞いた周瑜は激怒し、曹操との開戦を決意したというのです。
ただし、これは史実ではなく『三国志演義』の創作です。実際の銅雀台は赤壁の戦いの2年後に建てられており、曹植の詩も周瑜の死後に書かれたものなんです。
とはいえ、この物語は「傾国の美女」としての二喬の伝説を、後世に広く伝える役割を果たしました。
創作作品での大喬
大喬は歴史上の人物であると同時に、多くの創作作品で描かれてきた存在でもあります。
文学作品
唐の詩人・杜牧は「赤壁」という詩で二喬に触れ、北宋の詩人・蘇軾も「念奴嬌・赤壁懐古」という有名な詞で小喬と周瑜の姿を詠んでいます。
京劇
京劇『鳳凰二喬』では、大喬は「喬靚(きょうせい)」という名前で登場します。この作品では姉妹が武芸に優れた女性として描かれ、孫策や周瑜と武術の試合をする場面もあるんです。
現代のメディア
現代でも大喬の人気は衰えていません。
- ゲーム:『真・三國無双』シリーズなど多くのゲームでプレイアブルキャラクターとして登場
- 映画:2008年の映画『レッドクリフ』では、妹の小喬役を台湾のモデル・林志玲が演じて話題に
- テレビドラマ:2010年の中国ドラマ『三国』でも姉妹が登場
悲劇的な運命を背負いながらも、その美しさと物語性から、今なお多くの人々を惹きつけ続けているんですね。
まとめ
大喬は、三国時代の動乱の中を生きた悲劇の美女です。
重要なポイント
- 揚州の名士・橋公の娘で、妹の小喬とともに「江東の二喬」と呼ばれた
- 199年、皖城の戦いで捕虜となり、孫策の妻妾に
- 結婚からわずか4ヶ月で孫策が急死し、その後の消息は不明
- 『三国志演義』では、曹操が二喬を欲したことが赤壁の戦いの一因として描かれる
- 中国歴代の美人100人に選ばれるほどの美貌の持ち主
- 京劇やゲーム、映画など現代の創作作品でも人気のキャラクター
時代に翻弄されながらも、その美しさと悲しい運命は1800年以上経った今でも語り継がれています。歴史の表舞台に立つことは少なかった大喬ですが、だからこそ人々の想像力をかき立て、様々な物語が生まれてきたのかもしれませんね。


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