諏訪頼重とは?2人の「諏訪頼重」の生涯と中先代の乱・武田信玄との関係をわかりやすく解説

神話・歴史・伝承

「諏訪頼重」という名前を聞いたことはありますか?

最近では漫画・アニメ『逃げ上手の若君』で注目を集めているこの人物ですが、実は歴史上に「諏訪頼重」という名前を持つ武将は2人存在します。一人は鎌倉幕府滅亡後の動乱期に活躍した南北朝時代の人物で、もう一人は武田信玄に滅ぼされた戦国時代の当主です。

どちらも信濃国(現在の長野県)の名門・諏訪氏の当主であり、諏訪大社の大祝(おおほうり)を務めた神官でもありました。武士でありながら神に仕える神官という、独特の立場を持つ一族だったのです。

この記事では、2人の諏訪頼重の生涯と歴史的な役割について、それぞれの時代背景とともに詳しく解説していきます。


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諏訪氏とは?武士であり神官でもある特別な一族

諏訪大社と諏訪氏の関係

諏訪氏は、信濃国諏訪郡(現在の長野県諏訪地方)に勢力を持った豪族です。同時に、信濃国一宮である諏訪大社上社の大祝を代々務めてきた神官の家系でもありました。

諏訪大社は、建御名方神(たけみなかたのかみ)を祀る古社で、東国武士にとっての精神的な拠り所でもあったのです。
諏訪氏はこの神社の祭祀を司る「現人神」(あらびとがみ)として、周辺の豪族たちから崇拝を集めていました。

北条氏との深い関係

鎌倉時代、諏訪氏は鎌倉幕府の御家人として活躍しました。
特に北条得宗家(北条氏の嫡流)とは深い主従関係にあり、「御内人」(みうちびと)として北条氏に仕える者も輩出しています。

信濃国は北条氏が守護を務めた地域でもあり、諏訪氏と北条氏の絆は非常に強固なものでした。この関係性が、後に南北朝時代の諏訪頼重の運命を大きく左右することになります。


南北朝時代の諏訪頼重──中先代の乱の立役者

基本情報

項目内容
生没年生年不詳〜建武2年8月19日(1335年9月6日)
別名盛継、盛高、照雲(法名)
官位三河権守
役職諏訪大社大祝
主な功績中先代の乱の首謀者として北条時行を奉じ挙兵

鎌倉幕府滅亡と北条時行の保護

元弘3年(1333年)、新田義貞の攻撃によって鎌倉幕府は滅亡します。
最後の得宗である北条高時をはじめ、北条一門の多くが東勝寺で自刃しました。

このとき、諏訪一族の諏訪直性(じきせい)や諏訪時光(円光入道)なども北条氏に殉じて命を落としています。
しかし、大祝家の諏訪頼重は本国の信濃にいたため、この難を逃れました。

鎌倉が陥落する直前、北条高時の遺児である北条時行(ときゆき)が信濃に落ち延びてきます。

このとき時行はわずか10歳前後の幼い少年でした。頼重は諏訪大社でこの時行を匿い、養育することを決意します。

なぜ頼重は時行を保護したのでしょうか。

一つには、諏訪氏と北条得宗家の深い絆がありました。
また、諏訪大社の大祝である頼重が時行を庇護すれば、諏訪明神を崇拝する周辺の豪族たちも時行を害することはできません。
信濃は山深く、追手も容易には入り込めない土地柄でもあったのです。

建武政権との対立と挙兵への道

鎌倉幕府滅亡後、後醍醐天皇による「建武の新政」が始まります。

新政権は信濃国の守護として小笠原貞宗を任命しましたが、諏訪氏はこの新体制に不満を抱いていました。

建武2年(1335年)6月、京都では公家の西園寺公宗が後醍醐天皇の暗殺を企てる事件が発覚します。
この計画は失敗に終わりましたが、各地の旧幕府勢力を糾合しようとする動きが活発化していました。

時機到来と見た頼重は、ついに決起を決断します。

中先代の乱の勃発と快進撃

建武2年(1335年)7月、諏訪頼重は北条時行を総大将に据え、滋野氏・仁科氏などの諏訪神党の武将たちとともに挙兵しました。これが歴史に名高い「中先代の乱」です。

「中先代」という名称は、「前の代」(北条氏)と「後の代」(足利氏)の間に一時的に鎌倉を支配したことに由来します。

時行軍の快進撃は目覚ましいものでした。

  1. 信濃国司を撃破 – 諏訪・滋野らが信濃の国衙を攻め、国司を自害に追い込む
  2. 小笠原貞宗を撃退 – 信濃守護の軍勢を各地で破る
  3. 武蔵国へ進撃 – 上野を経て武蔵に入り、討伐軍を次々と撃破
  4. 鎌倉占領 – 足利直義(尊氏の弟)を鎌倉から追い出し、占領に成功

わずか20日ほどで鎌倉を奪還したこの快進撃は、頼重の優れた戦略眼と、北条氏への根強い支持を示すものでした。

足利尊氏の反撃と最期

しかし、時行軍の勝利は長くは続きませんでした。

京都にいた足利尊氏は、後醍醐天皇の許可を得ないまま鎌倉鎮圧に向かいます。

尊氏率いる追討軍は圧倒的な戦力を持ち、以下のように時行軍を追い詰めていきました。

  • 8月9日:遠江・橋本で敗北
  • 8月12日:遠江・小夜中山で敗北
  • 8月14日:駿河国府で敗北
  • 8月17日:相模・箱根で敗北
  • 8月18日:相模川で敗北

連敗を重ねた時行軍は、8月19日、ついに鎌倉を放棄せざるを得なくなりました。

諏訪頼重は子の諏訪時継、そして43人の郎党とともに、鎌倉の勝長寿院(しょうちょうじゅいん)に籠もり、自刃して果てました。

顔の皮を剥いだ壮絶な最期

頼重の最期には、ある壮絶なエピソードが伝わっています。

自害する前、頼重は北条時行を逃がすため、自分たちの顔の皮を剥いでから死んだとされています。
追手が遺体を確認しても、顔が判別できないため、時行が逃亡したことに気づかなかったというのです。

時行を生き延びさせるためなら、死後の遺体をも利用する──頼重の忠義心の深さを物語る逸話といえるでしょう。

頼重の死後と北条時行のその後

頼重の犠牲によって逃げ延びた北条時行は、その後も足利尊氏と戦い続けます。

驚くべきことに、時行は生涯で3度も鎌倉を奪還することに成功しました。
さらに、かつて父・高時を「朝敵」(天皇の敵)に追いやった後醍醐天皇とさえ手を結び、足利氏と戦う道を選んでいます。

諏訪頼重が命をかけて守った北条時行は、その後約20年にわたって足利氏に抗い続けたのです。

諏訪氏の家督は、頼重の孫・諏訪頼継が継承しました。

頼継も南朝方に与して戦い、一時は罰として大祝職を剥奪されましたが、その後も諏訪氏は信濃の有力な氏族として存続していきます。


戦国時代の諏訪頼重──武田信玄に滅ぼされた名門当主

基本情報

項目内容
生没年永正13年(1516年)〜天文11年7月20日(1542年)
幼名宮増丸
通称刑部大輔
役職諏訪氏第19代当主、諏訪大社大祝、上原城城主
主な功績諏訪氏の全盛期を維持、信濃四大将の一人

南北朝時代の諏訪頼重から約200年後、同じ「諏訪頼重」の名を持つ戦国武将が登場します。

諏訪氏の全盛期を受け継いで

戦国時代の諏訪頼重は、永正13年(1516年)に諏訪頼隆の嫡男として生まれました。幼少時には大祝を務め、後にこの職は弟の諏訪頼高に譲っています。

頼重が家督を継いだのは天文8年(1539年)、祖父・諏訪頼満の死後のことでした。祖父の頼満は「諏訪氏中興の祖」と呼ばれ、諏訪下社の金刺氏を倒して諏訪一帯を統一するなど、諏訪氏の最盛期を築いた人物です。

頼重は、この全盛期の諏訪氏を受け継ぐ形で当主となったのです。

武田氏との同盟と婚姻

諏訪氏は祖父・頼満の代から甲斐の武田氏としばしば争っていましたが、天文4年(1535年)に武田信虎と和睦しました。

天文9年(1540年)11月、頼重は武田信虎の三女・禰々(ねね)を正室に迎えます。これにより、武田氏と諏訪氏は婚姻関係で結ばれた同盟国となりました。

翌年の海野平の戦いでは、頼重は武田信虎・村上義清と共同で信濃小県郡に侵攻し、真田氏の本家筋である海野一族を追放しています。このように、両家の関係は良好に推移していました。

同盟破棄と武田信玄の侵攻

しかし、天文10年(1541年)6月、甲斐国内で大きな政変が起きます。武田信虎の嫡男・晴信(後の武田信玄)が、父の信虎を駿河に追放したのです。

若き武田晴信が甲斐の当主となったことで、武田氏と諏訪氏の関係にも変化が生じました。

天文11年(1542年)、関東管領・上杉憲政が佐久郡に出兵すると、頼重は武田・村上に無断で上杉氏と単独講和し、所領を分割してしまいます。武田晴信はこれを同盟違反と見なしました。

天文11年6月、武田晴信は諏訪氏との同盟を破棄し、諏訪への侵攻を開始します。さらに悪いことに、諏訪惣領家の座を狙う伊那郡の高遠頼継が武田側に寝返り、挟み撃ちの形となってしまいました。

降伏と非業の最期

孤立無援となった頼重は、上原城、次いで桑原城で籠城しましたが、ついに7月、降伏を余儀なくされます。

武田晴信は当初、頼重の身柄の安全を約束していたと伝わります。しかし、頼重と弟の頼高は甲府に連行された後、東光寺に幽閉されました。

そして同月20日、頼重は東光寺で自刃に追い込まれます。弟の頼高も同様に命を絶ち、諏訪惣領家は滅亡しました。頼重、享年27歳でした。

禰々との間に生まれた嫡男・寅王丸(千代宮丸)のその後は記録が途絶えており、夭折したと考えられています。

諏訪御料人と武田勝頼──諏訪の血を継ぐ者

諏訪氏滅亡後、頼重の娘は数奇な運命をたどることになります。

父を死に追いやった仇敵・武田晴信の側室となったのです。
彼女は「諏訪御料人」(すわごりょうにん)と呼ばれ、『甲陽軍鑑』には「かくれなき美人」と記されています。

天文15年(1546年)、諏訪御料人は男児を産みました。この子が後の武田勝頼です。

勝頼には武田氏の通字「信」ではなく、諏訪氏の通字「頼」が与えられました。

これは、勝頼に諏訪氏の名跡を継がせる意図があったためと考えられています。実際、勝頼は一時期「諏訪四郎勝頼」と名乗っていました。

しかし、武田義信の廃嫡などの事情により、勝頼は最終的に武田家の家督を継承することになります。
そして天正10年(1582年)、織田信長・徳川家康連合軍の侵攻により、勝頼は天目山で自刃。武田氏は滅亡しました。

皮肉なことに、諏訪頼重の血を引く者が武田家最後の当主となり、武田氏の滅亡とともにその命脈も絶えたのです。

諏訪氏の存続──大祝家の系譜

ただし、諏訪氏そのものは完全には滅んでいません。

諏訪大祝の職は、頼重の叔父・諏訪満隣の家系が継承しました。
満隣の孫にあたる諏訪頼水は、徳川家康に仕えて近世大名として再興を果たし、高島藩3万石の藩主となっています。

諏訪氏は江戸時代を通じて大名家として存続し、幕末には諏訪忠誠が老中にまで昇進しました。

戊辰戦争では新政府軍側につき、近藤勇の甲陽鎮撫隊と戦っています。


2人の諏訪頼重の比較

項目南北朝時代の頼重戦国時代の頼重
生没年不詳〜1335年1516年〜1542年
主な出来事中先代の乱武田信玄による侵攻
最期勝長寿院で自刃東光寺で自刃
保護/対立した相手北条時行を保護武田信玄と対立
子孫への影響時行を逃がし、その後の抵抗を可能に娘が武田勝頼を産む
現代での知名度『逃げ上手の若君』で注目武田信玄関連作品で登場

どちらの諏訪頼重も、時代の大きな転換点に巻き込まれ、悲劇的な最期を遂げました。

しかし、その忠義心や決断は、後世に語り継がれる形で歴史に刻まれています。


現代文化への影響

『逃げ上手の若君』での諏訪頼重

南北朝時代の諏訪頼重は、松井優征による漫画『逃げ上手の若君』(週刊少年ジャンプ連載)で大きく取り上げられています。

この作品では、頼重は「現人神」として描かれ、未来を見通す神力を持つ人物として登場します。普段は茶目っ気たっぷりで「胡散臭い」と言われることもありますが、本質的には聡明で、北条時行を「逃げる才能」で天下を取り戻す英雄へと導いていきます。

2024年7月にはTVアニメ化もされ、諏訪頼重役を中村悠一さんが演じました。アニメの放送により、長野県諏訪市や諏訪大社への関心も高まっています。

戦国時代の諏訪頼重と武田信玄作品

戦国時代の諏訪頼重は、武田信玄を題材にした小説やドラマ、ゲームなどで登場することがあります。

特に娘の諏訪御料人は、「信玄最愛の女性」として描かれることが多く、新田次郎の小説『武田信玄』では「由布姫」という名で登場しています。

NHK大河ドラマ『風林火山』(2007年)では、由布姫を演じた柴本幸さんの演技が話題となりました。


諏訪頼重ゆかりの地

諏訪大社(長野県諏訪市)

諏訪氏が代々大祝を務めてきた神社です。上社と下社に分かれ、上社には本宮と前宮があります。前宮には南北朝時代の諏訪頼重(照雲)の供養塔が残されています。

上原城跡(長野県茅野市)

戦国時代の諏訪頼重の本城でした。永明寺山の山頂付近に位置し、諏訪一帯を見渡すことができます。現在は城跡として整備されています。

東光寺(山梨県甲府市)

戦国時代の諏訪頼重が最期を迎えた場所です。武田氏ゆかりの寺院として知られています。

勝長寿院跡(神奈川県鎌倉市)

南北朝時代の諏訪頼重が自刃した場所です。源頼朝が父・義朝の菩提を弔うために建てた寺院で、現在は跡地のみが残っています。


まとめ

「諏訪頼重」という名を持つ2人の武将は、それぞれ異なる時代に生きながら、共通した運命をたどりました。

南北朝時代の諏訪頼重は、鎌倉幕府の遺児・北条時行を命がけで守り抜き、中先代の乱を起こして一時は鎌倉を奪還しました。最期は自らの顔の皮を剥いでまで時行を逃がし、その後の時行の戦いを可能にしたのです。

戦国時代の諏訪頼重は、諏訪氏の全盛期を受け継ぎながらも、武田信玄の野望の前に屈しました。しかし、その血は娘を通じて武田勝頼へと受け継がれ、戦国時代最後の大決戦まで武田の名を背負い続けることになります。

武士であり神官でもあるという特異な立場にあった諏訪氏。その当主として生きた2人の諏訪頼重の物語は、日本史の大きな転換点を彩る重要なエピソードといえるでしょう。

『逃げ上手の若君』をきっかけに興味を持った方は、ぜひ諏訪大社や上原城跡を訪れてみてください。700年前、そして500年前の「諏訪頼重」の息遣いを感じることができるかもしれません。

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