一晩で城を築く——そんな突拍子もない話、信じられますか?
実はこれ、戦国時代に本当にあったとされる出来事なんです。
若き日の豊臣秀吉が、織田信長の命を受けて築いたとされる「墨俣一夜城」。
この城が秀吉の出世のきっかけになったと言われています。
でも、本当に一晩で城なんて造れるんでしょうか?
歴史の真相を探っていきましょう。
墨俣一夜城とは?
墨俣一夜城は、岐阜県大垣市墨俣町にあったとされる城です。
別名「墨俣城」「スノマタ・キャッスル」とも呼ばれています。
この城が築かれたのは、織田信長が美濃国(現在の岐阜県南部)を攻略しようとしていた時代。
美濃と尾張の国境近くを流れる長良川沿いに、前線基地として築かれました。
当時、木下藤吉郎と名乗っていた豊臣秀吉が、わずかな期間でこの城を完成させたんですね。
その素早さから「一夜城」と呼ばれるようになったんです。
なぜ墨俣に城が必要だったのか?
織田信長は、隣国の美濃を手に入れたがっていました。
美濃を治めていたのは斎藤氏で、その本拠地が稲葉山城(後の岐阜城)だったんです。
でも、稲葉山城は難攻不落の名城。
正面から攻めても、なかなか落とせない。
そこで信長は考えました。
「敵の目と鼻の先に拠点を作って、そこから攻めよう」
その拠点こそが、墨俣だったんですね。
長良川を挟んで斎藤氏の領地と向かい合う、まさに最前線の場所です。
伝説の「一夜城」築城物語
失敗を繰り返す織田家の重臣たち
信長が墨俣に城を築くよう命じたところ、まず柴田勝家が挑戦しました。
次に佐久間信盛も挑みましたが、どちらも失敗。
なぜかというと、墨俣は敵地のすぐそば。
工事をしていると、斎藤氏の軍勢がすぐに襲ってくるんです。
「もう無理じゃないか」
そんな空気が漂う中、手を挙げたのが木下藤吉郎でした。
藤吉郎の大胆な作戦
藤吉郎は、地元の有力者・蜂須賀小六の協力を得ました。
そして、驚くべき方法で城を築いたんです。
まず、川の上流で材木を加工して、城の部品を事前に組み立てました。
それを筏に乗せて川で運び、現地で一気に組み立てたんですね。
いわば「プレハブ工法」です。
現場での作業時間を最小限に抑えることで、敵の攻撃を避けたんです。
伝承では「一夜」だが実際は?
伝承によると、雨の夜に工事を行い、朝になったら城ができていたとか。
斎藤氏は「昨日まで何もなかった場所に、突然城が!」と驚いたそうです。
でも、実際には一晩では無理ですよね。
2〜3日、あるいは7日程度かかったと考えられています。
大事なのは「一夜で完成した」と敵に思わせることでした。
これは心理戦なんです。
「あの男は魔法使いか?」
そう思わせることで、斎藤氏の士気を下げる狙いがあったんですね。
実際の墨俣城はどんな城だった?
現在の墨俣城は立派な天守がそびえていますが、実際の墨俣城は全然違いました。
当時の墨俣城は、簡易的な砦のような造りだったんです。
木製の柵、見張り台、空堀——そんな程度。
天守なんてありません。
あくまで「敵を威圧するための拠点」として機能すればよかったんです。
それでも十分に効果はありました。
この城を足がかりに、織田信長は1567年(永禄10年)8月、ついに稲葉山城を攻め落とすことに成功します。
墨俣一夜城は本当にあったのか?
実は、墨俣一夜城の話には大きな疑問があります。
信頼できる史料には記載がない
織田信長の一代記である『信長公記』には、墨俣一夜城のことが全く書かれていません。
信長にとっても秀吉にとっても重要な出来事のはずなのに、です。
当時の他の記録にも、墨俣一夜城の話は見当たらないんです。
これは不自然ですよね。
物語として広まった可能性
墨俣一夜城の話が初めて登場するのは、江戸時代中期の『総見記』という軍記物です。
さらに『絵本太閤記』や『真書太閤記』といった大衆向けの読み物で、どんどん脚色されていきました。
つまり、秀吉の立身出世を描くための「物語」として作られた可能性が高いんです。
武功夜話という謎の文書
昭和34年(1959年)、愛知県江南市で「前野家古文書」が発見されました。
別名「武功夜話」と呼ばれるこの文書には、墨俣一夜城の築城について詳しく書かれています。
現在の墨俣城歴史資料館も、この文書を基に展示を行っているんです。
ただし、この文書には大きな問題があります。
多くの研究者が「偽書(後世に作られた偽物)」だと指摘しているんですね。
例えば、昭和29年(1954年)に誕生した「富加」という地名が記載されているとか。
戦国時代の文書に、昭和の地名が出てくるはずがありません。
原本も公開されておらず、学術的な調査ができない状態なんです。
真実はどうだったのか?
では、墨俣には何もなかったのでしょうか?
そうとも言い切れません。
『信長公記』には、永禄4年(1561年)に織田信長が「洲股要害」の修築を命じたという記述があります。
誰が担当したかは書かれていませんが、何らかの拠点が作られたことは事実のようです。
おそらく、以下のような経緯があったのではないでしょうか。
- 信長が墨俣周辺に簡易的な拠点を築いた
- 秀吉がその工事に関わった可能性はある
- でも「一夜で完成」というのは後世の脚色
- 江戸時代に物語として広まった
秀吉の活躍を語るエピソードとして、時代を経るうちに「一夜城」の伝説が生まれたんでしょうね。
その後の墨俣城
墨俣城は、稲葉山城攻略後も使われ続けました。
天正12年(1584年)4月、小牧・長久手の戦いの際に、伊木忠次が城を改修したという記録があります。
これが墨俣城の最後の記録です。
その2年後の天正14年(1586年)6月、木曽三川に大洪水が起こりました。
木曽川の流路が大きく変わったため、墨俣は戦略上の重要性を失ってしまったんです。
以来、この地が城として使われることはありませんでした。
現在の墨俣城
現在、墨俣城跡は公園として整備されています。
そして平成3年(1991年)4月、「大垣市墨俣歴史資料館」が開館しました。
この建物は、大垣城の天守を模した模擬天守です。
実際の墨俣城とは全く異なる姿なんですね。
資料館では、秀吉の生涯や墨俣築城の経緯について学ぶことができます。
展示の多くは前野家古文書を基にしていますが、伝説として楽しむ分には面白いですよ。
桜の名所として
墨俣城周辺を流れる犀川の堤防には、約700本の桜が植えられています。
春になると、ライトアップされた城と夜桜の組み合わせが幻想的です。
4月には「さくらまつり」、6月には「あじさい祭り」も開催されます。
歴史散策と花見を一緒に楽しめる、素敵なスポットなんです。
アクセス情報
住所: 岐阜県大垣市墨俣町墨俣1742-1
開館時間: 9:00〜17:00
休館日: 月曜日(祝日の場合は翌火曜日)
入館料: 200円
駐車場: 無料(さい川さくら公園駐車場など)
まとめ
墨俣一夜城について、重要なポイントをまとめます。
- 戦国時代に織田信長の美濃攻略の前線基地として築かれたとされる城
- 木下藤吉郎(豊臣秀吉)が短期間で築城し、「一夜城」の伝説が生まれた
- 実際には簡易的な砦で、事前組み立て方式により工期を短縮した
- 『信長公記』など信頼できる史料には記載がなく、史実かどうかは疑問
- 江戸時代の軍記物によって物語として広まった可能性が高い
- 現在は大垣城を模した模擬天守が歴史資料館として公開されている
歴史の真実は謎に包まれていますが、「一夜で城を築く」という発想の面白さは変わりません。
伝説として楽しみながら、戦国時代のロマンを感じてみてはいかがでしょうか。

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