地図にも載っていない山奥の村に、古代から伝わる黒い石碑があるとしたら、あなたはその場所を訪れたいと思いますか?
ハンガリーの山岳地帯には、かつて恐ろしい儀式が行われていたとされる、呪われた歴史を持つ村が存在します。
その名も「シュトレゴイカバール」――現地の言葉で「魔女の村」を意味するこの場所には、今も謎めいた黒い石碑が立ち続けているんです。
この記事では、クトゥルフ神話に登場する呪われた村「シュトレゴイカバール」について、その歴史や伝承を詳しくご紹介します。
概要

シュトレゴイカバール(Stregoicavar)は、ハンガリーの山奥、もみの木が生い茂る谷間にあるとされる架空の村です。
ロバート・E・ハワードが1931年に発表した短編小説『黒い石』(The Black Stone)に登場する、クトゥルフ神話の舞台となっています。
この村の名前は現地の言葉で「魔女の村」や「魔女の集会所」を意味し、その名の通り、かつて邪教の信奉者たちが忌まわしい儀式を行っていた場所として描かれました。
地図にすら記載されない秘境にあるため、外部の人間が訪れることはほとんどありません。村の近くには「黒の碑」と呼ばれる謎めいた古代の石碑が立っており、この石碑こそが村の呪われた歴史を物語る存在なんです。
小説の中では、ドイツの学者フリードリヒ・ヴィルヘルム・フォン・ユンツが著した架空の魔道書『無名祭記書』(Unaussprechlichen Kulten)にも、この村と石碑について記述があるとされています。
村の起源と先住民
シュトレゴイカバールの歴史は、16世紀以前にさかのぼります。
ストゥルタン(Xuthltan)と呼ばれた時代
オスマン・トルコ帝国が東ヨーロッパに侵攻する16世紀以前、この村は「ストゥルタン」(またはズトゥルタン、Xuthltan)という別名で呼ばれていました。
当時の住民は、スラブ人と原始的な謎めいた民族との混血種族だったとされています。現在のハンガリー人(マジャール人)とは全く異なる人々でした。
邪教の信奉者たち
先住民たちは邪教を信奉しており、近隣の村から女性や子供を誘拐していたという恐ろしい記録が残っています。
彼らの信仰と行動
- 旧約聖書の時代から伝わるような異教の神々を崇拝
- 付近の森や村から女性や子供を攫う
- 奉じる神々への生贄として捧げる儀式を行う
- 黒い石碑を祭壇として使用
これらの行為は、当時の基準から見ても極めて忌まわしいものとして恐れられていました。
黒い石碑の謎
シュトレゴイカバールの象徴ともいえるのが、村外れに立つ謎の黒い石碑です。
石碑の特徴
「黒の碑」と呼ばれるこの石碑には、いくつかの特徴があります。
物理的特徴
- 形状:八角形
- 高さ:約5メートル
- 材質:黒い石(詳細不明)
- 表面:解読不能な文字のようなものが彫られている
村から見える崖の斜面を越え、樹木の茂る台地をしばらく進むと、この石碑が聖地の中央に立っているんです。
石碑の正体
この石碑の起源については、いくつかの説があります。
最も有力な説は、有史以前に存在した巨大な城の尖塔の先端部分だというもの。つまり、地中にはさらに巨大な建造物が埋まっている可能性があるんですね。
表面に刻まれた文字は、現代の言語学者でも解読できない古代の文字だとされています。これがどんな意味を持つのか、今も謎のままです。
石碑で行われた儀式
黒い石碑は、単なる記念碑ではありませんでした。先住民たちはここで生贄を捧げる祭壇として使用していたんです。
「魔女の集会」と呼ばれる儀式がこの場所で定期的に開かれ、誘拐された犠牲者たちが邪神に捧げられていたと伝えられています。村の名前「魔女の村」は、まさにこの忌まわしい儀式が実際に行われていたことを示す証拠だといえるでしょう。
トルコ軍の侵攻と虐殺
1526年、シュトレゴイカバールの歴史は大きな転換点を迎えます。
セリム・バドゥルの侵攻
オスマン・トルコ帝国の軍勢が東ヨーロッパに侵攻した際、セリム・バドゥルという指揮官が率いる部隊がこの村にたどり着きました。
セリム・バドゥルは、有名なトルコの歴史家であり書記官でもありました。彼の部隊が村の実態を知ったとき、そのあまりの忌まわしさに驚愕したといいます。
先住民の根絶
トルコ軍が目撃したものは、想像を絶する光景でした。
女性や子供への犠牲、邪教の儀式、そして石碑での生贄――これらの実態を知ったトルコ軍は、全ての先住民を虐殺するという極端な決断を下します。
イスラム教徒であるトルコ軍にとっても、この邪教はあまりにも異質で危険なものだったんですね。
洞窟の怪物
トルコ軍の戦いは、先住民の虐殺だけでは終わりませんでした。
黒の碑の近くにある洞窟に足を踏み入れた彼らは、奥に潜んでいた蟇蛙(ひきがえる)のような怪物と遭遇したといいます。
激しい戦いの末、トルコ軍は鋼鉄の武器(ムハンマドによって祝福された剣)を使ってこの怪物を倒しました。少なくとも10人の兵士が命を落とす壮絶な戦いだったと記録されています。
この怪物が石碑の上部に現れたという目撃情報もあり、邪教の儀式と何らかの関係があったと考えられているんです。
現在の村
邪教を根絶したトルコ軍がこの地を離れた後、村は一時期、完全に打ち捨てられました。
新しい住民
その後、マジャール人(ハンガリー人)がこの廃村に入植し、新たなコミュニティを築きました。
重要なポイント
- 現在の住民は先住民の子孫ではない
- 全員がマジャール人の子孫
- 呪われた先住民の血を引く人間は一人もいない
つまり、現在のシュトレゴイカバールの住民は、かつての邪教とは何の関係もないんですね。それでも村の名前と黒い石碑は、過去の呪われた歴史の記憶として残り続けています。
過疎化と新たな問題
現代のシュトレゴイカバールは、過疎化が進んでいるといわれています。
さらに、旧共産圏からの放射性廃棄物が村外れの洞窟に投棄されているという噂が、ヨーロッパの環境保護団体の間で囁かれているそうです。
古代の呪いに加えて、現代の問題まで抱えているとは、なんとも皮肉な話ですね。
聖ヨハネ節の怪異
黒い石碑では、今でも不可解な現象が報告されています。
6月23日の夜
毎年聖ヨハネ節の前夜(6月23日)になると、石碑の周辺で異常な出来事が起きるといわれています。
聖ヨハネ節とは、キリスト教の祝日で夏至の時期に祝われる祭りのこと。ヨーロッパでは古くから魔術的な力が強まる夜として知られていました。
幻影の儀式
この特別な夜、石碑の周辺ではかつて行われていた邪教の儀式の光景が、幻影のように浮かび上がることがあるそうです。
報告されている現象
- 石碑の周りで踊り、唱える人影
- 生贄として捧げられる赤ん坊
- 石碑の上に現れる巨大な蟇蛙のような怪物
- 若い娘が怪物に捧げられる光景
これらの光景を目撃した者の中には、精神に異常をきたして狂ってしまった人も少なからず存在するといいます。
詩人ジャスティン・ジョフリの訪問
アメリカの天才詩人ジャスティン・ジョフリ(1898-1926)は、ハンガリーへ旅行した際にこの呪われた村を訪れました。
彼は黒い石碑から強烈なインスピレーションを受け、それを幻想詩『碑の一族』(The People of the Monolith)という作品に結実させます。
しかし、その代償は大きなものでした。ジョフリは村を訪れた後、奇妙な言動が目立つようになり、最終的には精神病院で叫びながら死亡したといわれています。
村人たちは、彼が滞在中にぶつぶつと独り言を言い続ける不気味な様子を今でも覚えているそうです。
村人たちの恐怖
現在の村人たちは、誰も黒い石碑に近づこうとしません。
地元の言い伝えによれば、「石碑にハンマーやつるはしを当てた者は、悪い死に方をする」とされています。そのため、村人たちはこの忌まわしい遺物を破壊することもできず、ただ避け続けるしかないんです。
さらに、石碑の近くで眠った者は残りの人生ずっと悪夢に悩まされるという呪いもあるといわれています。
真夏の夜に石碑を訪れた者は、発狂して死ぬという最も恐ろしい伝承もあります。
まとめ
シュトレゴイカバールは、クトゥルフ神話に登場する呪われた歴史を持つ架空の村です。
重要なポイント
- ハンガリー山奥の地図にない村(架空の設定)
- 「魔女の村」を意味する名前
- 16世紀以前は「ストゥルタン」と呼ばれた
- 先住民が邪教を信奉し、生贄の儀式を行っていた
- 高さ5メートルの八角形の黒い石碑が存在
- 1526年、トルコ軍が先住民を虐殺し、洞窟の怪物を退治
- 現在の住民はマジャール人の子孫
- 聖ヨハネ節(6月23日)の夜に怪異が起きる
- 詩人ジャスティン・ジョフリが訪問後、精神病院で死亡
- ロバート・E・ハワードの小説『黒い石』に登場
この村の物語は、ロバート・E・ハワードによって創作されたフィクションですが、H・P・ラヴクラフトの作品と同様に、古代から続く人知を超えた恐怖を描いた傑作として、今もクトゥルフ神話ファンの間で愛され続けています。
架空の村ではありますが、その背景にある「人間の理解を超えた古代の恐怖」というテーマは、私たちに何か深いものを感じさせてくれるかもしれませんね。

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