新撰組とは?幕末を駆け抜けた最強剣客集団の真実

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時代劇やアニメで「新撰組」という名前を聞いたことはありませんか?

浅葱色のだんだら羽織に身を包み、「誠」の一文字を掲げて京都の治安を守った剣客集団。近藤勇、土方歳三、沖田総司といった名前は、歴史に詳しくなくても一度は耳にしたことがあるでしょう。

でも、「実際にどんな組織だったの?」「なぜそんなに人気があるの?」と思う方も多いのではないでしょうか。

農民や浪人の出身でありながら、幕末最強の剣客集団として恐れられた新撰組。その栄光と悲劇の物語は、150年以上経った今でも多くの人の心を惹きつけてやみません。

この記事では、新撰組の結成から終焉まで、その歴史と主要隊士たちの生涯を詳しくご紹介します。


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新撰組って何?

幕末の京都を守った武装警察

新撰組は、幕末の文久3年(1863年)から明治2年(1869年)頃まで活動した、京都の治安維持を担った武装組織です。

当時の京都は、幕府を倒そうとする「尊王攘夷派」の志士たちが暗躍する危険な街でした。天誅(てんちゅう)と称して要人を暗殺する事件が相次ぎ、治安は極めて悪化していたんです。

そんな中、京都守護職を務める会津藩の配下として、新撰組は反幕府勢力の取り締まりにあたりました。身分は「会津藩お預かり」という非正規雇用のような立場でしたが、その実力は折り紙付き。京都の尊攘派志士たちを震え上がらせる存在となったのです。

「新選組」と「新撰組」、どっちが正しい?

実は、「選」と「撰」のどちらの表記も使われていました。

近藤勇をはじめとする隊士たちが残した手紙でも、両方の字が使われています。ただし、隊の公印が押された文献では「選」の文字が使用されていたため、近年の教科書では「新選組」の表記が増えてきました。

とはいえ、「撰」の字が常用漢字外であることから、現代のメディアでは「新選組」と表記するのが一般的です。この記事では両方の表記が混在することをご了承ください。


新撰組誕生の物語

浪士組から壬生浪士組へ

新撰組の歴史は、1863年(文久3年)2月に始まります。

当時、14代将軍・徳川家茂が京都に上洛することになりました。しかし京都は尊王攘夷派の志士が跋扈する危険地帯。そこで幕府は、将軍警護のための浪士を江戸で募集したのです。

この呼びかけに応じた234名の浪士たちは「浪士組」と呼ばれ、将軍に先立って京都へ向かいました。この中に、後の新撰組を率いることになる近藤勇や土方歳三たちがいたんですね。

ところが、京都に到着してすぐに問題が発生します。浪士組の発案者である清河八郎が、突然こう宣言したのです。

「浪士組は幕府と主従関係にはない。我々は天皇のために攘夷の先兵となるのだ」

幕府の警護が目的だと思っていた近藤勇らは、これに強く反発しました。清河が江戸への帰還を命じると、多くの浪士が従いましたが、近藤勇を中心とするグループと、水戸藩出身の芹沢鴨を中心とするグループ、計17名ほどが京都に残ることを選んだのです。

京都に残った浪士たちは、会津藩主・松平容保の承認を得て「会津藩お預かり」の身分となり、宿所があった壬生村の地名から「壬生浪士組」を名乗りました。これが新撰組の前身です。

八月十八日の政変と「新撰組」命名

壬生浪士組が正式に「新撰組」の名を得たのは、1863年(文久3年)8月18日の政変がきっかけでした。

この政変は、長州藩を中心とする過激な尊攘派が朝廷から排除されたクーデターです。壬生浪士組も会津藩の一隊として御所の警備にあたり、南門(建礼門)の守備を任されました。

この功績が認められ、松平容保から「新撰組」という新しい隊名を賜ったのです。「新撰」という名前は、会津藩に古くから伝わる軍制上の部局名から取られたとされています。

芹沢鴨の暗殺と近藤体制の確立

新撰組の名を得た直後、組織には大きな問題を抱えていました。それが、筆頭局長・芹沢鴨の存在です。

芹沢鴨は剣の腕は確かでしたが、酒癖が極めて悪い人物でした。泥酔しては商家を焼き討ちにしたり、京都の町で暴れたりと、蛮行を繰り返していたのです。

会津藩は、こうした芹沢の行いを問題視し、近藤勇に粛清を命じました。1863年(文久3年)9月16日の夜、土方歳三や沖田総司らが刺客となり、酔って就寝中の芹沢鴨を暗殺。

こうして新撰組の局長は近藤勇ただひとりとなり、副長・土方歳三とともに組織の強化が進められることになったのです。


新撰組の組織と隊規

組織構成

最盛期の新撰組は、約200〜300名の隊士を擁していました。組織は以下のような構成でした。

主要幹部

  • 局長:近藤勇(組織のトップ)
  • 総長:山南敬助
  • 副長:土方歳三
  • 参謀:伊東甲子太郎

十の組と組長

  • 一番隊組長:沖田総司
  • 二番隊組長:永倉新八
  • 三番隊組長:斎藤一
  • 四番隊組長:松原忠司
  • 五番隊組長:武田観柳斎
  • 六番隊組長:井上源三郎
  • 七番隊組長:谷三十郎
  • 八番隊組長:藤堂平助
  • 九番隊組長:鈴木三樹三郎
  • 十番隊組長:原田左之助

新撰組の掟

新撰組には「禁令」と呼ばれる厳しい掟がありました。一般に「局中法度」として知られていますが、この名称自体は後世の創作とされています。

永倉新八の記録によると、掟の内容は以下の4か条でした。

  1. 士道に背くまじきこと(武士道に反する行いをしてはならない)
  2. 局を脱するを許さず(隊からの脱走は許さない)
  3. 勝手に金策致すべからず(勝手な金集めは禁止)
  4. 勝手に訴訟取り扱うべからず(私的な訴訟を起こしてはならない)

これらの条々に背いた者は切腹を命じられました。実際に、多くの隊士がこの掟により命を落としています。

ただし、近年の研究では「新撰組が誰彼構わず切腹させた恐怖政治の組織だった」というイメージは誇張されている面もあるとされています。当時の藩でも、武士道に背く行いは禁止され、脱藩は切腹という厳しい規律がありました。新撰組の掟は、当時の常識の範囲内だったという見方もあるんですね。

新撰組の制服

新撰組といえば、あの独特の制服が有名です。

浅葱色のだんだら羽織が最大の特徴。浅葱色(あさぎいろ)とは、薄い青緑色のことです。この色には深い意味がありました。古来、武士が切腹する際に着用する裃(かみしも)は浅葱色とされており、「いつでも死ぬ覚悟がある」という決意を表していたのです。

羽織の袖には白い山形模様(だんだら模様)が施され、非常に目立つデザインでした。これは味方の識別と、同時に敵への威嚇の意味もあったとされています。

また、隊士たちは羽織の下に軽い鎖帷子を着込み、軽量の鉄兜をかぶっていました。実戦を想定した装備だったんですね。


池田屋事件──新撰組の名を轟かせた一夜

事件の背景

1864年(元治元年)6月5日、新撰組の名を一躍天下に轟かせる大事件が起こります。「池田屋事件」です。

前年の八月十八日の政変で京都を追われた長州藩を中心とする尊攘派は、勢力回復を狙っていました。彼らは京都に潜伏し、ある恐ろしい計画を練っていたのです。

その計画とは——

  • 祇園祭の前の風の強い夜に、御所の風上から京都に火を放つ
  • 混乱に乗じて、公武合体派の中川宮朝彦親王を幽閉
  • 京都守護職・松平容保や一橋慶喜(後の徳川慶喜)を暗殺
  • 孝明天皇を長州へ連れ去る

まさに京都転覆を狙った大規模テロ計画でした。

古高俊太郎の逮捕

新撰組は、この計画を察知します。きっかけは、四条小橋にある古道具屋「桝屋」への踏み込みでした。

桝屋喜右衛門という商人は、実は「古高俊太郎」という筋金入りの尊攘派志士。地下倉庫からは大量の火薬と武器、そして同志たちの連判状が見つかったのです。

新撰組は古高を屯所に連行し、副長・土方歳三が厳しい拷問を行いました。そして、志士たちが三条木屋町の旅館「池田屋」に集まって謀議を行う予定であることを突き止めたのです。

池田屋への突入

事件当日の夜。新撰組は約36名(諸説あり)で出動し、近藤隊と土方隊に分かれて市中を捜索しました。

午後10時頃、近藤勇率いる隊が池田屋に到着。中では約20名の志士たちが密談の真っ最中でした。

近藤隊はわずか数名。圧倒的に不利な状況にもかかわらず、近藤勇は躊躇せず突入を決断します。

「御用改めである!」

この言葉を合図に、約1時間半に及ぶ死闘が始まりました。

死闘の末に

薄暗い室内での戦闘は、日頃から剣術を鍛え、実戦に慣れている新撰組が有利でした。しかし、志士たちも必死に抵抗します。

激戦の最中、沖田総司が持病の悪化により戦線離脱。藤堂平助も額を斬られて視界を奪われ、戦闘続行が困難に。永倉新八は愛刀を折られながらも奮戦を続けました。

一時は近藤勇と永倉新八のわずか2名という危機的状況に陥りますが、そこに土方歳三率いる別働隊が到着。形勢は一気に逆転しました。

結果、尊攘派志士は宮部鼎蔵、吉田稔麿ら7〜9名が討ち取られ、20名以上が捕縛されました。新撰組側も3名の死者を出しましたが、テロ計画を未然に防ぐという大功を立てたのです。

池田屋事件の影響

この事件により、新撰組の名は一躍全国に轟きました。京都の尊攘派は中心人物を失い、壊滅的な打撃を受けます。

「この事件により明治維新が5年遅れた」とも言われるほど、歴史に大きな影響を与えた事件でした。

一方で、池田屋事件に激昂した長州藩は、翌月の「禁門の変(蛤御門の変)」を引き起こすことになります。新撰組はこの戦いにも参加し、さらなる武功を挙げていくのです。


主要隊士たちの人物像

近藤勇(こんどう いさみ)──局長

生没年:1834年〜1868年(享年35)

新撰組の顔であり、組織の精神的支柱だった人物です。

武蔵国多摩郡(現在の東京都調布市)の農家に生まれた近藤勇。幼い頃から剣術の才能を発揮し、15歳で天然理心流の道場「試衛館」に入門しました。その腕前を認められ、道場主・近藤周助の養子となり、やがて4代目宗家を継承します。

性格は豪胆で人望があり、幕府への忠義を何よりも大切にした人物でした。多摩地方は幕府の直轄地「天領」であり、そこで育った近藤には将軍への畏敬の念が強かったのです。

1868年(慶応4年)、鳥羽・伏見の戦いで敗れた後も旧幕府軍として戦い続けましたが、下総国流山で新政府軍に捕縛。同年4月25日、板橋刑場で斬首されました。首は京都で晒されたと伝えられています。

土方歳三(ひじかた としぞう)──副長

生没年:1835年〜1869年(享年35)

「鬼の副長」の異名で恐れられた、新撰組の実質的なナンバー2です。

武蔵国多摩郡石田村(現在の東京都日野市)の豪農の家に生まれました。幼くして両親を亡くし、次兄の妻に育てられます。実家秘伝の「石田散薬」を行商しながら、各地の道場で剣を磨いていました。

近藤勇とは義兄弟の契りを結んだ盟友。組織運営の実務を一手に担い、厳しい規律で隊士たちを統率しました。

鳥羽・伏見の戦い以降は、会津、そして蝦夷地(北海道)へと転戦。五稜郭で榎本武揚率いる旧幕府軍の陸軍奉行並として戦い続けました。

1869年(明治2年)5月11日、函館戦争の最中に銃弾を受けて戦死。最後まで新撰組副長として、武士として戦い抜いた生涯でした。

沖田総司(おきた そうじ)──一番隊組長

生没年:1842年または1844年〜1868年(享年25前後)

新撰組最強の剣士と称された天才剣客です。

幼くして試衛館に入門し、わずか9歳頃から近藤周助の内弟子として剣術を学びました。その才能は群を抜いており、「天然理心流の免許皆伝は沖田が最も早かった」とも伝えられています。

明るく陽気な性格で、壬生寺の境内で子供たちと遊ぶ姿も目撃されています。池田屋事件では先陣を切って活躍しましたが、戦闘中に持病(結核)が悪化して離脱。

以後、病状は徐々に悪化し、鳥羽・伏見の戦いにも参加できませんでした。1868年(慶応4年)5月30日、江戸千駄ヶ谷で病没。若くして散った天才剣士の悲劇は、多くの創作作品で描かれています。

永倉新八(ながくら しんぱち)──二番隊組長

生没年:1839年〜1915年(享年77)

池田屋事件で最も激しく戦った剣豪のひとりです。

松前藩(現在の北海道)の藩士の家に生まれ、神道無念流を修めた後、試衛館の食客となりました。剣の腕は沖田総司と並ぶと評され、池田屋事件では親指の付け根を切る重傷を負いながらも奮戦しました。

明治維新後は松前藩に帰参し、その後は小樽で剣術を教えながら晩年を過ごしました。新撰組の記録を後世に残すことに尽力し、「浪士文久報国記事」「新選組顛末記」などを著しました。これらは現在、新撰組研究の貴重な一次資料となっています。

1915年(大正4年)、77歳で病没。新撰組幹部の中では最も長命でした。

斎藤一(さいとう はじめ)──三番隊組長

生没年:1844年〜1915年(享年72)

「るろうに剣心」のキャラクターモデルとしても知られる剣豪です。

出自には諸説ありますが、江戸で生まれ、他流派を学んだ後に天然理心流を修めたとされています。無口で感情を表に出さない性格でしたが、剣の腕は沖田、永倉に並ぶと評されました。

会津戦争では最後まで会津藩のために戦い、維新後は「藤田五郎」と名を変えて警視庁に奉職。西南戦争では警視隊として従軍しました。

1915年(大正4年)に病没。永倉新八と同じ年に亡くなっています。


新撰組の終焉

鳥羽・伏見の戦いと敗走

1867年(慶応3年)10月、15代将軍・徳川慶喜が大政奉還を行い、幕府は事実上終わりを迎えます。

同年末、王政復古の大号令により新政府が樹立されると、旧幕府勢力との対立は避けられなくなりました。1868年(慶応4年)1月、鳥羽・伏見の戦いが勃発。新撰組も旧幕府軍として参戦しましたが、新式銃器で武装した新政府軍の前に敗北を喫しました。

刀と槍で戦う時代の終わりを、土方歳三は痛感したといいます。

甲陽鎮撫隊と四散

江戸に撤退した新撰組は、「甲陽鎮撫隊」と改名して甲府城接収を命じられます。しかし、甲州勝沼で新政府軍と衝突し、わずか半日で敗走。

この戦いの後、近藤勇は下総国流山で新政府軍に捕縛され、斬首刑に処されました。新撰組は事実上、解体状態となります。

土方歳三の北走

近藤勇を失った土方歳三は、榎本武揚率いる旧幕府艦隊に合流し、北へと向かいます。

宇都宮城での戦いでは負傷しながらも指揮を執り、会津戦争を戦い抜いた後、蝦夷地へ。五稜郭を拠点とする「蝦夷共和国」で陸軍奉行並として、最後の戦いに臨みました。

1869年(明治2年)5月11日、新政府軍の総攻撃の中、土方歳三は馬上で愛刀「和泉守兼定」を振りかざして突撃。銃弾を受けて戦死しました。

最後まで「新撰組副長」として散った土方歳三。彼の死をもって、新撰組は事実上の終焉を迎えたのです。


新撰組の評価と現代への影響

「賊軍」から「英雄」へ

明治維新後、新撰組は「賊軍」として扱われました。勝者である新政府の立場からすれば、新撰組は体制転覆を阻止しようとした敵だったのです。

近藤勇と土方歳三は長らく「坂本龍馬の暗殺犯」として悪名を馳せていました。1883年の小説『汗血千里駒』がきっかけで、この説が広まったとされています(実際の暗殺犯は別人と考えられています)。

しかし、大正時代に永倉新八の証言を元にした「新選組顛末記」が連載されると、状況は一変します。昭和3年(1928年)に子母澤寛の「新選組始末記」が刊行されると、「悪の人斬り集団」という従来のイメージが覆され、新撰組への再評価が始まりました。

現代の新撰組人気

現在、新撰組は日本で最も人気のある歴史的集団のひとつです。

司馬遼太郎の『燃えよ剣』『新選組血風録』をはじめ、数え切れないほどの小説、漫画、映画、ドラマが制作されてきました。2004年の大河ドラマ『新選組!』(三谷幸喜脚本)は大きな話題となり、『薄桜鬼』『るろうに剣心』などのゲームやアニメでも新撰組のキャラクターは不動の人気を誇っています。

なぜ新撰組は人気なのか

新撰組の人気の理由は何でしょうか。

「武士になりたかった者たち」の物語であること。農民や浪人の出身でありながら、「武士道」を追い求め、最後まで貫いた姿に多くの人が共感します。

悲劇性も大きな要因です。時代の流れに逆らい、最後は敗れ去る——その「滅びの美学」が日本人の心に響くのでしょう。

そして個性豊かな隊士たちの存在。豪胆な近藤勇、鬼の副長・土方歳三、天才剣士・沖田総司。それぞれの人物像が魅力的で、誰を推すかでファン同士の議論が盛り上がるのも人気の秘密かもしれません。


新撰組ゆかりの地

新撰組の足跡を辿りたい方のために、主なゆかりの地をご紹介します。

京都

八木邸(京都市中京区)
壬生浪士組発祥の地であり、初期の屯所。芹沢鴨が暗殺された場所でもあります。現在も一般公開されており、刀傷が残る柱を見ることができます。

壬生寺(京都市中京区)
新撰組の訓練場として使われた寺。境内の「壬生塚」には近藤勇の胸像や遺髪塔、芹沢鴨らの墓があります。毎年7月16日には慰霊供養祭が行われ、全国からファンが集まります。

池田屋跡(京都市中京区)
池田屋事件の現場。現在は居酒屋「池田屋 はなの舞」が営業しており、「池田屋騒動之址」の石碑が建っています。

東京・関東

試衛館跡(東京都新宿区)
近藤勇が道場主を務めた天然理心流の道場跡。現在は住宅地となっており、石碑のみが残っています。

土方歳三資料館(東京都日野市)
土方歳三の生家跡に建つ資料館。愛刀「和泉守兼定」や手紙、俳句集『豊玉発句集』などが展示されています。

近藤勇生家跡(東京都調布市)
近藤勇の生誕地。現在は住宅地ですが、近くに近藤勇の墓(龍源寺)があります。

北海道

五稜郭(北海道函館市)
土方歳三最期の地。星形の美しい城郭は、春には桜の名所としても知られています。隣接する五稜郭タワーからは、城郭全体を見渡すことができます。


まとめ

新撰組は、幕末の京都で活動した武装警察組織でした。

新撰組の歴史をおさらいすると——

  • 1863年、将軍警護のために集まった浪士組が母体
  • 近藤勇、土方歳三らが京都に残り「壬生浪士組」を結成
  • 八月十八日の政変の功績で「新撰組」の名を賜る
  • 1864年の池田屋事件で名を轟かせる
  • 最盛期には約200〜300名の隊士を擁した
  • 1868年の鳥羽・伏見の戦いで敗北後、四散
  • 近藤勇は斬首、土方歳三は函館で戦死
  • 1869年、事実上の終焉を迎える

農民や浪人の出身でありながら「武士になりたい」と願い、最後まで武士道を貫いた男たち。時代の流れに逆らい、滅びゆく幕府とともに散っていった彼らの姿は、150年以上経った今も多くの人の心を打ち続けています。

新撰組は単なる「人斬り集団」ではありませんでした。彼らは彼らなりの「誠」を胸に、激動の時代を駆け抜けたのです。

もし京都を訪れる機会があれば、壬生の地を歩いてみてください。浅葱色の羽織を纏った隊士たちの足音が、今も聞こえてくるような気がするかもしれません。

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