聖徳太子とはどんな人物?生涯・業績・伝説・実在論争をわかりやすく解説

かつてお札の顔として、日本人なら誰もが知っていた聖徳太子。
しかし「具体的に何をした人?」と聞かれると、意外と答えられない方も多いのではないでしょうか。
それどころか近年では「聖徳太子は実在しなかった」という説まで登場し、教科書の記述も変化しています。
この記事では、聖徳太子の生涯から政治的業績、仏教への貢献、有名な伝説、そして近年の実在論争まで、わかりやすく解説します。

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聖徳太子の基本情報

まず、聖徳太子の基本的なプロフィールを確認しましょう。
聖徳太子は、574年(敏達天皇3年)に生まれ、622年(推古天皇30年)に49歳で亡くなった飛鳥時代の皇族・政治家です。
父は用明天皇、母は穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)。
母・穴穂部間人皇女の父は欽明天皇ですが、その母(聖徳太子の母方の祖母)が蘇我稲目の娘・小姉君(おあねのきみ)にあたります。
すなわち蘇我稲目は聖徳太子の母方の曾祖父。
さらに父・用明天皇の母も蘇我稲目の娘・堅塩媛(きたしひめ)であるため、父方の曾祖父もまた蘇我稲目です。
聖徳太子は父方・母方の双方から、蘇我氏の血を色濃く引き継いでいたのです。

「聖徳太子」は本名ではない

実は「聖徳太子」という名前は、生前に使われていたものではありません。
生前の名は「厩戸皇子(うまやどのおうじ)」あるいは「豊聡耳皇子(とよとみみのおうじ)」だったと伝えられています。
「聖徳太子」という呼び名が文献に初めて登場するのは、751年に編纂された漢詩集『懐風藻(かいふうそう)』においてです。
つまり、没後100年以上経ってから「聖徳」という諡号(しごう)で呼ばれるようになったわけです。
なお『日本書紀』にも「厩戸皇子」として登場しますが、「聖徳太子」という名称そのものは使われていません。
このことは、後述する「虚構説」とも深く関わってきます。

聖徳太子が生きた時代背景

聖徳太子の業績を理解するには、当時の日本がどのような状況だったかを知る必要があります。

蘇我氏と物部氏の対立

6世紀後半の日本(大和朝廷)では、二つの有力豪族が激しく対立していました。
仏教の受容を推進する蘇我氏と、日本古来の神道を重んじて仏教に反対する物部氏。
587年、この対立は武力衝突にまで発展し、蘇我馬子が率いる軍勢が物部守屋を滅ぼしました。
『日本書紀』によると、若き日の聖徳太子もこの戦いに参加しています。
太子は四天王の像を彫り、「勝利すれば四天王を祀る寺を建てる」と誓願したと伝えられているのです。
この誓願が後の四天王寺建立につながったとされています。

推古天皇の即位と摂政就任

592年、崇峻天皇が蘇我馬子によって暗殺されるという事件が起きます。
その後を受けて即位したのが、日本史上初の女性天皇とされる推古天皇でした。
推古天皇は聖徳太子の叔母にあたります。
593年、推古天皇は甥の聖徳太子を摂政に任命。
こうして太子は、蘇我馬子と協調しながら国政を担うことになります。
当時の東アジアでは、中国大陸を隋が統一し(589年)、朝鮮半島では高句麗・百済・新羅が三国に分かれてしのぎを削っていました。
この激動の国際情勢の中で、聖徳太子は日本の国家体制を根本から改革しようとしたのです。

聖徳太子の三大業績

聖徳太子の政治的功績として、特に重要なのが以下の三つです。

①冠位十二階の制定(603年)

603年、聖徳太子は「冠位十二階(かんいじゅうにかい)」を制定しました。
これは、家柄ではなく個人の才能や功績によって位階を授ける制度です。
徳・仁・礼・信・義・智の六つの徳目を大小に分けて十二段階とし、それぞれに異なる色の冠を定めました。
それまでの日本では、豪族の地位は氏族の家柄(氏姓制度)によって決まるのが当然でした。
冠位十二階は、この古い慣習を打ち破り、天皇を中心とした中央集権的な人材登用の仕組みを作ろうとした画期的な制度でした。

②十七条憲法の制定(604年)

翌604年には「十七条憲法(じゅうしちじょうけんぽう)」が制定されました。
これは現代の憲法のような法律ではなく、官僚や豪族たちに向けた道徳的・政治的な心得でした。
第一条の「和を以て貴しと為す(わをもってとうとしとなす)」という言葉はあまりにも有名でしょう。
また第二条では「篤く三宝を敬え」と、仏教(仏・法・僧の三宝)への帰依を説いています。
第三条では「詔を承りては必ず謹め」と、天皇の命令に従うことを求めました。
十七条憲法は、仏教と儒教の思想を融合させながら、天皇中心の国家秩序を理念的に示した文書として高く評価されています。

③遣隋使の派遣(607年〜)

607年、聖徳太子は小野妹子(おののいもこ)を遣隋使として中国の隋に派遣しました。
このとき隋の煬帝(ようだい)に送った国書には、次のような内容が書かれていたと伝えられています。
「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙なきや」
この文面は「東の天子が西の天子に手紙を送る」という対等な外交姿勢を示すもので、煬帝を激怒させたと『隋書』に記録されています。
しかしこの大胆な外交は、日本が中国の属国ではなく対等な独立国であることを主張した点で、極めて重要な意味を持っていました。
遣隋使の派遣によって、日本は隋の進んだ制度や文化、仏教の経典などを積極的に取り入れることが可能になったのです。
日本史の重要年号の中でも、607年の遣隋使派遣は特に重要な出来事として位置づけられています。

仏教への貢献

聖徳太子は政治家であると同時に、日本における仏教の最大の庇護者でもありました。

寺院の建立

聖徳太子が建立したとされる寺院は数多くあります。
中でも代表的なのが、奈良の法隆寺と大阪の四天王寺です。
法隆寺は現存する世界最古の木造建築群として知られ、ユネスコ世界遺産にも登録されています。
607年頃に建立されたとされ、その西院伽藍は飛鳥時代の建築様式を今に伝える貴重な文化遺産です。
四天王寺は、先述の物部氏との戦いの際の誓願に基づいて建立されたと伝えられています。
このほかにも中宮寺、橘寺、広隆寺、法起寺、葛木寺など、太子が関わったとされる寺院は各地に残っています。
これらの寺院は飛鳥文化を代表する建造物として、日本の文化史において重要な位置を占めています。

三経義疏の著述

聖徳太子は仏教の経典に対する注釈書「三経義疏(さんぎょうぎしょ)」を著したとされています。
三経義疏とは、『法華経』『維摩経(ゆいまぎょう)』『勝鬘経(しょうまんぎょう)』の三つの経典に対する注釈のことです。
これらは日本人による最古の仏教注釈書とも言われ、太子の深い仏教理解を示す証拠とされてきました。
ただし、三経義疏の著者については研究者の間で議論があり、中国の既存の注釈書を参考にしている部分も指摘されています。
それでも、7世紀初頭の日本でこのような高度な仏典研究が行われていたこと自体が、仏教受容史上の重要な出来事であることは間違いありません。

太子信仰の成立

聖徳太子は没後、単なる歴史上の人物を超えて、仏教における崇拝の対象となりました。
これを「太子信仰」と呼びます。
平安時代以降、太子は観音菩薩の化身として信仰されるようになりました。
特に鎌倉時代の浄土真宗の開祖・親鸞は、聖徳太子を「和国の教主」と讃え、深い敬意を表しています。
太子信仰は、宗派を超えて日本仏教全体に広がり、各地で太子像が作られ、太子に関する伝説が数多く生み出されていきました。
仏教の天部をはじめとする仏教の守護神たちと並んで、聖徳太子は日本の仏教史において特別な存在であり続けています。

聖徳太子にまつわる有名な伝説

聖徳太子には、数多くの超人的な伝説が語り継がれています。

馬小屋の前で生まれた

「厩戸皇子」という名前の由来とされる伝説です。
母の穴穂部間人皇女が厩(馬小屋)の前を通りかかった際に、産気づいて太子を産んだとされています。
この話はキリストの降誕伝説との類似が指摘されることがありますが、直接的な関連は学術的に証明されていません。

一度に十人の話を聞き分けた

聖徳太子の伝説の中で最も有名なのが、「一度に十人の話を聞き分けて、すべてに的確な答えを返した」というエピソードでしょう。
「豊聡耳(とよとみみ)」という別名も、この聡明な聴力に由来するとされています。
もちろんこれは字義通りの超能力ではなく、太子の非凡な知性と判断力を象徴的に表現した逸話と考えるのが妥当です。

黒駒に乗って富士山を越えた

太子が甲斐の国から献上された黒駒(くろこま)という名馬に乗って空を駆け、富士山を越えたという伝説もあります。
この伝説は各地に太子ゆかりの地名や伝承を生み出し、太子信仰の広がりを物語っています。

達磨大師との出会い

片岡山で飢えた乞食に出会った太子が、自分の衣服と食事を与えたところ、その乞食は実は達磨大師(だるまたいし)の化身だったという伝説です。
乞食が亡くなった後、太子が墓を確認させると、遺体は消えて衣服だけが残されていたと伝えられています。
この伝説は、太子の慈悲心と仏教への深い理解を示すエピソードとして広く知られています。

聖徳太子の最期と子孫の悲劇

622年(推古天皇30年)2月22日、聖徳太子は斑鳩宮(いかるがのみや)で亡くなりました。
享年49歳です。
注目すべきは、最愛の妃・膳部菩岐々美郎女(かしわでのほききみのいらつめ、膳大郎女とも)が太子の前日に亡くなっていることです。
法隆寺に伝わる釈迦三尊像の光背銘には、太子と妃が相次いで亡くなった経緯が刻まれており、これは聖徳太子に関する最も信頼性の高い同時代資料のひとつとされています。
太子は現在の大阪府太子町にある磯長陵(しながのみささぎ)に葬られました。

山背大兄王の悲劇

聖徳太子の死後21年、643年に太子の一族は壊滅的な悲劇に見舞われます。
蘇我入鹿(そがのいるか)が斑鳩宮を襲撃し、太子の子である山背大兄王(やましろのおおえのおう)とその一族が自害に追い込まれたのです。
こうして聖徳太子の直系の子孫は途絶えることになりました。
この事件は、後の645年に起こる「乙巳の変(いっしのへん)」で蘇我氏が滅ぼされる遠因のひとつともなっています。

お札の顔としての聖徳太子

聖徳太子は、日本の紙幣に最も多く肖像が採用された人物です。
1930年(昭和5年)の百円券を皮切りに、千円札、五千円札、一万円札と、実に7回もお札の顔になっています。
特に1958年から1986年まで使用された一万円札の肖像は、多くの日本人にとって「聖徳太子=お札」という強いイメージを作りました。
ただし、お札に描かれている肖像画のモデルとされてきた「唐本御影(とうほんみえい)」が本当に聖徳太子を描いたものかどうかについては、近年疑問が呈されています。

「聖徳太子は実在しなかった」? ─ 大山誠一の虚構説

1999年、歴史学者の大山誠一が著書『〈聖徳太子〉の誕生』で、聖徳太子の実在を根本的に疑う説を発表しました。
この説は大きな反響を呼び、教科書の記述にも影響を与えることになります。

虚構説の主張

大山説のポイントは、「厩戸王(うまやとおう)という皇族は実在したが、『聖徳太子』という超人的な政治家像は720年の『日本書紀』編纂時に創作された」というものです。
具体的には次のような主張がなされています。
十七条憲法は推古朝(7世紀初頭)のものではなく、日本書紀の編纂過程で作られた可能性がある、という点がまず指摘されました。
また、「皇太子」という制度は689年の飛鳥浄御原令まで存在せず、推古朝に聖徳太子が「摂政」として政治を主導したとする記述は後世の脚色だとも主張されています。
さらに大山は、聖徳太子像の創作には藤原不比等、長屋王、僧・道慈らが関与したと論じました。

虚構説への反論

大山説に対しては、多くの研究者から批判が寄せられています。
まず、法隆寺の釈迦三尊像光背銘(622年頃の製作)には太子に関する記述があり、これは日本書紀(720年)よりもはるかに古い同時代資料です。
この光背銘の存在は、太子が没後間もない時期から特別な人物として認識されていたことを示しています。
また、厩戸皇子が斑鳩宮という独自の宮殿を構え、壬生部(みぶべ)という私的な民を管理していた事実は、単なる一皇族を超えた政治的影響力を持っていたことの証拠とされています。
仏教学者の石井公成は2021年に「学界で大山説を積極的に承認する論文は、この10年以上出なくなっている」と指摘しました。

教科書の変化

虚構説の影響で、歴史教科書の記述は変化しています。
2017年には文部科学省が学習指導要領の改定案として、中学校の表記を「厩戸王(聖徳太子)」に変更することを提案しました。
ただし、この提案は国民のパブリックコメントで批判が相次ぎ、最終的に小中学校の表記は基本的に「聖徳太子」に維持される方向で落ち着きました。
現在、高校の一部教科書(山川出版社『詳説日本史B』など)では「厩戸王(聖徳太子)」の表記を採用しています。
これは虚構説を全面的に受け入れたわけではなく、「歴史的人物としての実態」と「後世に作られたイメージ」を区別しようとする学問的な慎重さの表れです。

現在の学術的な見解

現在の学界では、次のような穏当な見方が主流となっています。
厩戸皇子という有力な皇族は実在し、推古朝の政治に重要な役割を果たした、という点についてはおおむね合意が得られています。
ただし、『日本書紀』には太子の業績を誇張・美化した部分が含まれていることも認められています。
十七条憲法や三経義疏の著者問題など、個別の業績については引き続き研究と議論が必要です。
「聖徳太子は完全な虚構」とする極端な説は支持を失いつつある一方で、「日本書紀に書かれていることがすべて史実」とする素朴な見方も退けられています。
歴史学においては、厩戸皇子の実像と、後世に形成された「聖徳太子」像を丁寧に区別することが求められているのです。

まとめ

聖徳太子(厩戸皇子)は、飛鳥時代の日本を大きく変えた人物です。
冠位十二階や十七条憲法によって天皇中心の国家体制の基礎を築き、遣隋使の派遣で対等な外交を実現し、仏教の興隆に力を注ぎました。
没後は仏教の聖者として崇拝され、お札の肖像にも採用されるなど、1400年以上にわたって日本人の心に刻まれ続けています。
近年の虚構説によって、厩戸皇子の「実像」と後世に形成された「聖徳太子像」の区別が進んだことは、むしろ歴史研究の健全な発展と言えるかもしれません。
古事記・日本書紀に登場する神様の世界から人の世へと移り変わる時代に、仏教という新たな精神的支柱を日本にもたらした聖徳太子。
その歴史的意義は、虚構説をめぐる論争を経てもなお、揺らぐことはないでしょう。

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