「誠」の一字を掲げ、幕末の京都を震え上がらせた剣客集団をご存知ですか?
新撰組(しんせんぐみ)は、幕末の動乱期に京都の治安維持を担った武装組織です。近藤勇、土方歳三、沖田総司といった名前は、時代劇や漫画、ゲームでもおなじみですよね。
でも、「名前は知っているけど、実際どんな人たちだったの?」「隊士って何人いたの?」という疑問を持つ方も多いのではないでしょうか。
実は新撰組の隊士たちは、武士だけでなく農民や町人出身者も多く、その人生は波乱万丈そのものでした。天才剣士として名を馳せた者、裏切りによって粛清された者、明治を生き抜いて語り部となった者——それぞれの人生ドラマがあったのです。
この記事では、新撰組の組織構造から主要隊士の詳細プロフィール、重要事件、そして彼らのその後まで、網羅的に解説していきます。
新撰組とは?

幕末の京都で生まれた治安維持組織
新撰組は、江戸時代末期(幕末)に江戸幕府の命によって組織された浪士隊です。
1853年のペリー来航以降、日本国内は開国派と攘夷派に分かれて激しく対立していました。特に京都では、尊王攘夷派(天皇を敬い、外国を排除しようとする思想を持つ人々)の浪士たちが暴れ回り、治安は極度に悪化していたのです。
この状況を打開するため、幕府は京都守護職を設置し、会津藩主・松平容保がその任につきます。そして容保の配下として活動したのが、新撰組でした。
新撰組の名称について
「選」と「撰」、どちらの表記も使われることがあります。
隊士たちが残した手紙でも両方の字が使われていますが、隊の公印には「選」の文字が使用されていました。そのため、現在の教科書や報道機関では「新選組」と表記するのが一般的です。本記事では、両方の表記が使われていた歴史的経緯を踏まえ、「新撰組」の表記も併用しています。
新撰組の歴史年表
| 時期 | 出来事 |
|---|---|
| 1863年2月 | 浪士組として江戸を出発、京都へ |
| 1863年3月 | 京都残留組が「壬生浪士組」を結成 |
| 1863年8月 | 八月十八日の政変で活躍、「新選組」の名を拝領 |
| 1863年9月 | 芹沢鴨暗殺、近藤体制の確立 |
| 1864年6月 | 池田屋事件──新撰組の名が天下に轟く |
| 1865年2月 | 屯所を西本願寺に移転 |
| 1867年6月 | 幕臣に取り立てられる |
| 1867年11月 | 油小路事件(伊東甲子太郎暗殺) |
| 1868年1月 | 鳥羽・伏見の戦いで敗北 |
| 1868年4月 | 近藤勇、板橋で斬首 |
| 1868年5月 | 沖田総司、病没 |
| 1869年5月 | 土方歳三、箱館で戦死──新撰組の終焉 |
新撰組の組織構造
新撰組は、当時としては画期的な小隊制を採用していました。最盛期には約230名もの隊士を擁する大組織となっています。
天然理心流と試衛館
新撰組の主要メンバーの多くは、「天然理心流(てんねんりしんりゅう)」という剣術流派を学んでいました。
天然理心流は、寛政年間(1789年〜1800年頃)に近藤内蔵之助が創始した総合武術で、剣術・居合術・柔術・棒術などを含みます。当時の三大道場(北辰一刀流・鏡新明智流・神道無念流)と比べると知名度は低く、「田舎剣法」「芋道場」などと揶揄されることもありました。
しかし、天然理心流の真価は実戦にありました。道場での試合ではなく、真剣勝負を想定して編み出された剣法であり、これこそが新撰組の強さの源泉となったのです。
近藤勇は天然理心流四代目宗家として、江戸市谷にあった「試衛館」道場を継承していました。この道場に土方歳三、沖田総司、井上源三郎らが集い、後の新撰組の中核メンバーが形成されたのです。
隊服と装備──浅葱色のダンダラ羽織
新撰組といえば、「浅葱色(あさぎいろ)のダンダラ模様の羽織」が有名ですよね。
ダンダラ羽織の由来
実は、この隊服のデザインは歌舞伎『仮名手本忠臣蔵』に登場する赤穂浪士の衣装にインスピレーションを受けたものでした。
「ダンダラ」とは山形のギザギザ模様のこと。芹沢鴨(一説には土方歳三)が『忠臣蔵』に感銘を受け、このデザインを取り入れたと言われています。浅葱色は武士が切腹する際に着る着物の色であり、「死を覚悟して戦う」という決意の表れだったとされています。
実際はあまり着られていなかった?
ところが、興味深いことに、この羽織は隊士たちからあまり評判が良くなかったようです。
当時の京都では黒縮緬の羽織が流行しており、「派手すぎる」「田舎くさい」と感じる隊士も多かったとか。さらに資金難から生地も上等なものではなく、着用期間は約1年ほどで終わってしまいました。
池田屋事件が最後の目撃記録とされ、その後は「黒装束」に変わったという説が有力です。永倉新八の遺品には黒羅紗の陣羽織が残されており、現在も北海道開拓記念館に所蔵されています。
なお、現存するダンダラ羽織の実物は一着も発見されておらず、現在目にするものはすべて考証に基づいた復元品です。
隊士たちの愛刀
新撰組は「剣客集団」として知られ、隊士たちはそれぞれ名刀を佩刀していました。
| 隊士名 | 愛刀 | 備考 |
|---|---|---|
| 近藤勇 | 長曽祢虎徹(ながそねこてつ) | 偽物説あり。四つ胴を斬れる剛刀 |
| 土方歳三 | 和泉守兼定(いずみのかみかねさだ) | 会津十一代兼定作。現存し土方歳三資料館に所蔵 |
| 沖田総司 | 菊一文字則宗(きくいちもんじのりむね) | 創作説が有力。実際は加州清光か大和守安定 |
| 永倉新八 | 播州住手柄山氏繁 | 池田屋事件で刃こぼれするほど使い込む |
| 斎藤一 | 鬼神丸国重 | 諸説あり |
沖田総司の「菊一文字」は司馬遼太郎の小説で広まったイメージですが、当時すでに国宝級の刀であり、実際に所持していた可能性は低いとされています。池田屋事件で使用されたのは「加州清光」だったという記録が残っています。
組織図(慶応元年頃)
局長:近藤勇
│
副長:土方歳三
│
参謀:伊東甲子太郎
│
├── 一番隊組長:沖田総司
├── 二番隊組長:永倉新八
├── 三番隊組長:斎藤一
├── 四番隊組長:松原忠司
├── 五番隊組長:武田観柳斎
├── 六番隊組長:井上源三郎
├── 七番隊組長:谷三十郎
├── 八番隊組長:藤堂平助
├── 九番隊組長:鈴木三樹三郎
└── 十番隊組長:原田左之助
なぜ「局長」と呼ばれたのか
新撰組のトップは「組長」ではなく「局長」と呼ばれていました。
これは、新撰組が「会津藩お預かり」の組織だったことと関係があります。会津藩は新撰組を「会津藩における一部局」として扱っていたため、そのトップには「局長」という名称が用いられたのです。
局中法度──厳格な隊規
新撰組を語る上で欠かせないのが、「局中法度(きょくちゅうはっと)」と呼ばれる隊規です。
局中法度の五箇条
- 士道ニ背キ間敷事(武士道に背く行為をしてはならない)
- 局ヲ脱スルヲ不許(新撰組からの脱退は許されない)
- 勝手ニ金策致不可(無断で借金をしてはならない)
- 勝手ニ訴訟取扱不可(無断で訴訟に関係してはならない)
- 私ノ闘争ヲ不許(個人的な争いをしてはならない)
これらに違反した者には、容赦なく切腹が申し渡されました。この厳格な規律こそが、烏合の衆だった浪人集団を強力な組織へと変えた要因だったのです。
「局中法度」は後世の創作?
興味深いことに、「局中法度」という名称は子母澤寛の『新選組始末記』(1928年刊)で初めて登場したもので、当時の古文書には確認されていません。
永倉新八の回想談『新撰組顛末記』では、「私闘禁止」の第五条がなく、四箇条のみが記録されています。また、「局中法度」という呼び方も永倉の証言には出てきません。
ただし、何らかの隊規が存在し、違反者が処分されていたことは確かです。新撰組が敵を斬った数より、内部粛清で失った隊士の数の方が多かったとも言われています。
なぜ切腹が多かったのか
新撰組の隊士は、もともと武士身分ではない者がほとんどでした。彼らには金銭や禁固といった「武士としての処分」を受ける権利がありませんでした。そのため、「武士らしく」振る舞うための唯一の処分方法が切腹だったという見方もあります。
局長・副長──新撰組の頭脳

近藤勇(こんどう いさみ)──新撰組局長
基本情報
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 生年 | 天保5年(1834年) |
| 没年 | 慶応4年(1868年)4月25日 |
| 享年 | 35歳 |
| 出身 | 武蔵国多摩郡上石原村(現・東京都調布市) |
| 剣術 | 天然理心流四代目宗家 |
| 死因 | 斬首(板橋刑場にて処刑) |
生涯
近藤勇は、農家の三男として生まれました。本名は宮川勝五郎といいます。
子どもの頃から剣術の才能を見せ、天然理心流三代目・近藤周助の養子となりました。26歳で道場「試衛館」を継ぎ、ここに後の新撰組幹部となる土方歳三、沖田総司、井上源三郎らが集まることになります。
1863年、将軍警護のための浪士組に参加して上洛。京都に残留し、壬生浪士組を結成します。当初は芹沢鴨が筆頭局長でしたが、その乱暴狼藉を問題視した会津藩の命により、近藤らは芹沢を暗殺。これにより、近藤が単独の局長となりました。
人物像
近藤は、人柄がおおらかで大まか。慕ってくる人間を誰でも受け入れてしまう懐の深さがあったといいます。
ただし、政治的な駆け引きは苦手だったとも言われ、そうした面は副長の土方歳三が補っていました。
最期
鳥羽・伏見の戦いで敗れた後、甲陽鎮撫隊を率いて甲府へ向かうも敗走。下総国流山で新政府軍に捕縛され、板橋刑場で斬首されました。
農民の子であったため、武士として切腹することは許されませんでした。処刑後、首は京都に送られてさらし首となりましたが、その後の行方は諸説あり、謎に包まれています。
土方歳三(ひじかた としぞう)──新撰組副長
基本情報
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 生年 | 天保6年(1835年) |
| 没年 | 明治2年(1869年)5月11日 |
| 享年 | 35歳 |
| 出身 | 武蔵国多摩郡石田村(現・東京都日野市) |
| 剣術 | 天然理心流 |
| 死因 | 戦死(箱館戦争にて銃弾を受ける) |
生涯
土方歳三は、豪農の末っ子として生まれました。幼くして両親を亡くし、次兄の妻に育てられています。
実家に伝わる「石田散薬」という薬を行商しながら各地の剣術道場で腕を磨き、やがて近藤勇と出会います。「武士になりたい」「徳川将軍家を守りたい」という志で意気投合し、義兄弟の契りを結びました。
幼い頃から喧嘩っ早く「バラガキ(乱暴者)」と呼ばれていましたが、その一方で優れた戦略家でもありました。局長の近藤を支え、新撰組を強靭な組織へと育て上げたのは、土方の手腕によるところが大きいのです。
「鬼の副長」
土方は「鬼の副長」と恐れられました。
隊規に違反した者には容赦なく粛清を命じ、時には自らの手で処断することもあったといいます。しかし普段は温厚な人柄で、京都の女性たちからモテモテだったとか。和歌や俳諧を嗜む風流人の一面もあり、その句は『豊玉発句集』としてまとめられています。
最期
新撰組の終焉まで戦い抜いた土方は、最後まで刀を握って散りました。
鳥羽・伏見の戦いで敗れた後も、会津、仙台、蝦夷地と転戦を続けます。箱館では「蝦夷共和国」の陸軍奉行並として、最後の抵抗を続けました。
1869年5月11日、一本木関門付近の戦いで馬上にて銃弾を受け、35歳の生涯を閉じています。蝦夷共和国の閣僚8人の中で、戦死したのは土方ただ一人でした。
現代への影響
司馬遼太郎の小説『燃えよ剣』をはじめ、多くの作品で描かれてきた土方歳三。新撰組の主要メンバーの中でも、今なお抜群の人気を誇っています。
土方歳三の兄・喜六の子孫は、現在も東京都日野市で「土方歳三資料館」を運営しています。
十番隊組長──新撰組を支えた剣豪たち
一番隊組長:沖田総司(おきた そうじ)
基本情報
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 生年 | 天保13年または15年(1842年または1844年) |
| 没年 | 慶応4年(1868年)5月30日 |
| 享年 | 25歳または27歳 |
| 出身 | 陸奥国白河藩(現・福島県白河市) |
| 剣術 | 天然理心流(塾頭を務める)、北辰一刀流免許皆伝 |
| 死因 | 労咳(肺結核) |
天才剣士の素顔
沖田総司は、新撰組最強とも言われる天才剣士でした。
9歳頃に天然理心流の道場・試衛館に入門し、若くして塾頭を務めるほどの腕前を見せます。永倉新八は後年、「土方歳三、井上源三郎、藤堂平助、山南敬助などが竹刀を持っては子供扱いされた。本気で立ち合ったら師匠の近藤もやられるだろうと皆が言っていた」と語っています。
得意技は「三段突き」。一瞬のうちに三度の突きを繰り出すという、神業のような技だったといいます。
明るくて冗談好きな一面
剣の稽古では「荒っぽくて、すぐ怒る」と恐れられていた沖田ですが、普段は明るく陽気な性格で、冗談ばかり言っていたそうです。
新撰組と敵対していた西村兼文ですら、沖田については悪く書いていません。誰からも愛される好人物だったのでしょう。
悲劇の最期
池田屋事件の際に肺結核の発作を起こしたとも言われる沖田は、次第に病状が悪化していきます。
鳥羽・伏見の戦い以降は参戦できなくなり、江戸・千駄ヶ谷の植木屋の離れで療養生活を送りました。近藤の死は周囲から固く口止めされていたため、沖田は最期まで師の死を知らなかったといいます。
「先生はどうされたのでしょうね、お便りは来ませんか?」
師を気遣う言葉を幾度となく口にしながら、近藤の死から2ヶ月後、静かに息を引き取りました。
二番隊組長:永倉新八(ながくら しんぱち)
基本情報
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 生年 | 天保10年(1839年) |
| 没年 | 大正4年(1915年)1月5日 |
| 享年 | 77歳 |
| 出身 | 武蔵国江戸(現・東京都) |
| 剣術 | 神道無念流免許皆伝 |
| 死因 | 骨膜炎と敗血症(虫歯が原因) |
新撰組きっての剣豪
永倉新八は、沖田総司と並ぶ新撰組最強の剣客です。
松前藩士の子として江戸に生まれ、10代で神道無念流の免許皆伝を得ました。武者修行を続ける中で試衛館の食客となり、近藤らと運命を共にすることになります。
池田屋事件では近藤、沖田、藤堂らと共に突入し、獅子奮迅の活躍を見せました。
新撰組との決別
鳥羽・伏見の戦いで敗れた後、永倉は近藤と意見が対立します。
永倉が新組織への参加を進言すると、近藤は「拙者の家臣となって働くというならば同意もいたそう」と答えたといいます。これに激怒した永倉は、原田左之助と共に新撰組を離脱。靖兵隊を結成して独自に戦いを続けました。
語り部としての晩年
明治を生き延びた永倉は、新撰組の名誉回復に生涯を捧げます。
『浪士文久報国記事』『同志連名控』などの記録を残し、大正2年には『小樽新聞』で連載も行いました。この連載は後に『新撰組顛末記』として刊行され、新撰組の真の姿を後世に伝える貴重な史料となっています。
晩年は北海道小樽で暮らし、大正4年、虫歯が原因の骨膜炎と敗血症により77歳で死去。新撰組幹部の中で最も長寿を全うした人物です。
漫画『ゴールデンカムイ』では、老剣士となった永倉新八が登場し、話題となりました。
三番隊組長:斎藤一(さいとう はじめ)
基本情報
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 生年 | 天保15年(1844年) |
| 没年 | 大正4年(1915年)9月28日 |
| 享年 | 72歳 |
| 出身 | 武蔵国江戸(現・東京都) |
| 剣術 | 一刀流(諸説あり) |
| 死因 | 胃潰瘍 |
謎多き最強剣士
斎藤一は、新撰組の中でも特に謎の多い人物です。
沖田や永倉と並ぶ剣の遣い手でありながら、その生い立ちや剣術の流派については諸説あり、今もはっきりとは分かっていません。無口で寡黙な性格だったといわれ、その分余計にミステリアスな印象を与えています。
スパイとしての活躍
斎藤は剣の腕だけでなく、情報収集能力にも長けていました。
伊東甲子太郎が御陵衛士として新撰組を離脱した際、斎藤も同行していますが、これは土方の命によるスパイ活動だったという説が有力です。伊東暗殺(油小路事件)の際にも重要な役割を果たしたとされています。
明治を生きた剣客
会津藩降伏後、斎藤は「藤田五郎」と改名して警視庁に奉職します。
1877年の西南戦争では警視隊として従軍し、実戦でもその剣の腕を発揮しました。会津藩主・松平容保の媒酌で高木時尾と結婚し、三人の子供にも恵まれています。
近年発見された晩年の写真には、年老いてもなお衰えない鋭い眼光が写っています。
漫画『るろうに剣心』では、主要キャラクターの一人として登場。作者の和月伸宏は新撰組ファンとして知られ、多くのキャラクターが新撰組隊士をモデルにしています。
四番隊組長:松原忠司(まつばら ちゅうじ)
基本情報
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 生年 | 天保6年(1835年)頃 |
| 没年 | 慶応元年(1865年)9月1日 |
| 享年 | 31歳頃 |
| 出身 | 播磨国(現・兵庫県) |
| 剣術 | 関口流柔術 |
| 死因 | 病死または切腹(諸説あり) |
松原忠司は、柔術の達人として知られていました。剣術だけでなく柔術にも長けており、組み伏せるような接近戦でも強さを発揮したといいます。
彼の死因については謎が多く、病死説と切腹説があります。一説によれば、遊女との心中を図ったものの自分だけ生き残り、その責任を取って切腹したとも言われています。
五番隊組長:武田観柳斎(たけだ かんりゅうさい)
基本情報
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 生年 | 不明 |
| 没年 | 慶応3年(1867年)6月22日 |
| 享年 | 不明 |
| 出身 | 出雲国(現・島根県)または甲斐国(現・山梨県) |
| 剣術 | 甲州流軍学 |
| 死因 | 暗殺(新撰組により粛清) |
武田観柳斎は、甲州流軍学を修めた軍学者でした。
池田屋事件の後に入隊し、五番隊組長を務めます。しかし次第に近藤や土方と対立するようになり、最終的には新撰組を裏切ろうとした疑いで粛清されました。
漫画『るろうに剣心』に登場する悪役「武田観柳」は、この武田観柳斎がモデルとなっています。
六番隊組長:井上源三郎(いのうえ げんざぶろう)
基本情報
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 生年 | 文政12年(1829年) |
| 没年 | 慶応4年(1868年)1月5日 |
| 享年 | 40歳 |
| 出身 | 武蔵国日野宿(現・東京都日野市) |
| 剣術 | 天然理心流 |
| 死因 | 戦死(鳥羽・伏見の戦いにて) |
井上源三郎は、近藤勇の兄弟子にあたる人物です。
年長者として隊士たちから「源さん」と慕われ、温厚な人柄で知られていました。新撰組の各隊長の中で、唯一戦場で命を落とした人物です。
鳥羽・伏見の戦いで砲弾を受けて戦死。40歳でした。
七番隊組長:谷三十郎(たに さんじゅうろう)
基本情報
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 生年 | 天保3年(1832年) |
| 没年 | 慶応2年(1866年)4月1日 |
| 享年 | 35歳 |
| 出身 | 備中国(現・岡山県) |
| 剣術 | 不明 |
| 死因 | 暗殺(祇園で何者かに刺殺) |
谷三十郎は、弟の谷万太郎、谷周平と共に新撰組に入隊しました。
七番隊組長を務めましたが、慶応2年に祇園で何者かに刺殺されます。犯人は不明ですが、新撰組による粛清だったとする説もあります。
八番隊組長:藤堂平助(とうどう へいすけ)
基本情報
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 生年 | 天保15年(1844年) |
| 没年 | 慶応3年(1867年)11月18日 |
| 享年 | 23歳 |
| 出身 | 武蔵国江戸(現・東京都) |
| 剣術 | 北辰一刀流目録 |
| 死因 | 戦死(油小路事件にて) |
藤堂平助は、斎藤一と並ぶ最年少幹部の一人でした。
北辰一刀流を学んだ後、試衛館に入門。池田屋事件では近藤らと共に突入し、額に傷を負いながらも奮戦しています。
しかし後に伊東甲子太郎と共に新撰組を離脱し、御陵衛士となりました。油小路事件で伊東が暗殺された後、遺体を引き取りに来たところを襲撃され、23歳の若さで命を落としています。
九番隊組長:鈴木三樹三郎(すずき みきさぶろう)
基本情報
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 生年 | 天保8年(1837年) |
| 没年 | 大正8年(1919年)7月11日 |
| 享年 | 83歳 |
| 出身 | 常陸国志筑(現・茨城県かすみがうら市) |
| 剣術 | 北辰一刀流 |
| 死因 | 老衰 |
鈴木三樹三郎は、参謀・伊東甲子太郎の実弟です。
兄と共に新撰組に入隊し、九番隊組長を務めました。御陵衛士として離脱した後は、油小路事件、鳥羽・伏見の戦い、戊辰戦争とあらゆる戦線を生き抜いています。
明治以降は警察官として勤務し、83歳で老衰により死去。新撰組幹部の中で最も長生きした人物の一人です。
晩年、兄を殺害した永倉新八と顔を合わせたことがあったといいますが、お互いに緊張した空気が流れたという逸話が残っています。
十番隊組長:原田左之助(はらだ さのすけ)
基本情報
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 生年 | 天保11年(1840年) |
| 没年 | 慶応4年(1868年)5月17日 |
| 享年 | 29歳 |
| 出身 | 伊予国松山(現・愛媛県松山市) |
| 剣術 | 種田流槍術 |
| 死因 | 戦死(上野戦争にて) |
血気盛んな槍の名手
原田左之助は、槍術を得意とした武闘派です。
15、6歳の頃、武士と口論になった際に「切腹の方法も知らないくせに」とののしられ、激怒して自らの腹を切ったという逸話があります。一命は取り留めましたが、この傷を生涯自慢していたといいます。
池田屋事件では得意の槍で暴れ回り、芹沢鴨暗殺や伊東甲子太郎暗殺にも関わったとされています。
新撰組との決別と最期
甲陽鎮撫隊での敗北後、近藤と意見が対立し、永倉新八と共に新撰組を離脱します。
その後、彰義隊に合流して上野戦争に参加しましたが、戦闘中に銃撃を受け、その傷がもとで29歳の若さで死去しました。
なお、「原田左之助は生き延びて中国大陸に渡り、馬賊の頭目になった」という伝説も残っています。真偽は定かではありませんが、このような話が語り継がれるのは、彼が愛された人物だった証でしょう。
その他の重要人物
山南敬助(やまなみ けいすけ)──悲劇の総長
基本情報
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 生年 | 天保4年(1833年) |
| 没年 | 元治2年(1865年)2月23日 |
| 享年 | 33歳 |
| 出身 | 陸奥国仙台(現・宮城県仙台市) |
| 剣術 | 北辰一刀流 |
| 死因 | 切腹(脱走の罪により) |
山南敬助は、新撰組の「総長」を務めた人物です。
温厚で知識人肌の山南は、血気盛んな隊士たちの中では異色の存在でした。しかし1865年、突如として屯所を脱走。追っ手として送られた沖田総司に捕縛され、局中法度に従い切腹となりました。
脱走の理由は今も謎に包まれています。組織の方針に疑問を感じたのか、別の事情があったのか——いずれにせよ、悲劇的な最期を遂げた幹部として、多くのフィクション作品で描かれています。
芹沢鴨(せりざわ かも)──初代筆頭局長
基本情報
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 生年 | 文政9年または天保元年(1826年または1830年) |
| 没年 | 文久3年(1863年)9月18日 |
| 享年 | 34歳または38歳 |
| 出身 | 常陸国芹沢村(現・茨城県行方市) |
| 剣術 | 神道無念流 |
| 死因 | 暗殺(近藤らにより粛清) |
芹沢鴨は、壬生浪士組の筆頭局長でした。
剣の腕は確かでしたが、酒乱で粗暴な振る舞いが目立ち、商家から強引に金を借りたり、遊郭で乱暴狼藉を働いたりと問題行動を繰り返しました。
会津藩から粛清を命じられた近藤らは、1863年9月18日の夜、酒宴の後に泥酔した芹沢を暗殺。これにより、近藤を中心とする体制が確立しました。
伊東甲子太郎(いとう かしたろう)──参謀から離反へ
基本情報
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 生年 | 天保6年(1835年) |
| 没年 | 慶応3年(1867年)11月18日 |
| 享年 | 33歳 |
| 出身 | 常陸国志筑(現・茨城県かすみがうら市) |
| 剣術 | 北辰一刀流 |
| 死因 | 暗殺(油小路事件にて) |
伊東甲子太郎は、池田屋事件後に新撰組に入隊した人物です。
学識があり、参謀として重用されましたが、実は勤王思想の持ち主でした。1867年、「御陵衛士」として分派しますが、近藤暗殺を企てていることが発覚。油小路で待ち伏せにあい、暗殺されました。
新撰組の重要事件
池田屋事件(1864年6月5日)
新撰組の名を天下に轟かせた一夜
池田屋事件は、新撰組史上最も有名な事件です。
尊王攘夷派の浪士たちが、祇園祭を利用して京都に火を放ち、孝明天皇を長州に連れ去ろうとする計画を新撰組が察知。三条小橋西の旅館「池田屋」に集まっていた浪士を急襲しました。
わずか10人で30人以上に斬り込む
先行した近藤隊はわずか10人。沖田、永倉、藤堂らを率いた近藤は、躊躇することなく踏み込みます。
狭い旅館の中で、天井も低く、刀を振り回すのも難しい状況での乱戦となりました。沖田が体調不良で離脱すると、一時は近藤と永倉の二人だけになる場面も。しかし、土方隊の到着で戦況は一気に有利に傾き、浪士側は7人が死亡、20人以上が捕縛されました。
この事件で新撰組の名は一躍天下に轟き、隊士の募集には応募者が殺到したといいます。
油小路事件(1867年11月18日)
裏切者への粛清
御陵衛士として新撰組を離脱した伊東甲子太郎は、密かに近藤暗殺を計画していました。
しかし、斎藤一のスパイ活動により計画は露見。近藤らは伊東を酒宴に招き、帰路を襲撃しました。
伊東は七条油小路で絶命。その遺体を引き取りに来た御陵衛士たちも次々と襲撃され、藤堂平助を含む数名が命を落としています。
鳥羽・伏見の戦いと新撰組の終焉
時代の転換点
1868年1月3日、鳥羽・伏見の戦いが勃発しました。これは戊辰戦争の緒戦であり、新撰組にとっては運命の分かれ道となる戦いでした。
新撰組は伏見方面で新政府軍と交戦しますが、最新式の銃器を装備した薩摩・長州軍の前に苦戦を強いられます。この戦いで土方歳三は「もはや刀や槍の時代は終わった」と痛感したといいます。
六番隊組長・井上源三郎はこの戦いで砲弾を受けて戦死。新撰組は隊士の約3分の1を失ったとも言われています。
甲陽鎮撫隊から崩壊へ
敗走後、新撰組は「甲陽鎮撫隊」と改名し、甲府城を目指して進軍しました。しかし、板垣退助率いる迅衝隊に先を越され、甲州勝沼の戦いでわずか2時間で敗退。
その後、近藤勇は下総国流山で新政府軍に捕縛されます。偽名を名乗りましたが正体がばれ、1868年4月25日、板橋刑場で斬首されました。農民出身だったため、武士としての切腹は許されませんでした。
永倉新八と原田左之助は方針の違いから離隊し、靖兵隊を結成。沖田総司は鳥羽・伏見の戦い以前から肺結核が悪化しており、江戸・千駄ヶ谷で療養中に近藤の死から2ヶ月後に病死しました。
土方歳三、北へ
土方歳三は最後まで戦い続けることを選びます。
会津戦争、仙台での戦いを経て、榎本武揚率いる旧幕府艦隊と共に蝦夷地へ渡航。箱館で「蝦夷共和国」が樹立されると、土方は陸軍奉行並として軍事を統括しました。
1869年5月11日、一本木関門付近での戦闘中、馬上で銃弾を受けて戦死。35歳でした。蝦夷共和国閣僚8人の中で、戦死したのは土方ただ一人。新撰組は、土方の死をもって事実上消滅しました。
新撰組隊士 完全一覧【主要隊士】
幹部・組長一覧
| 役職 | 氏名 | 出身 | 最期 |
|---|---|---|---|
| 局長 | 近藤勇 | 武蔵国 | 斬首(1868年) |
| 副長 | 土方歳三 | 武蔵国 | 戦死(1869年) |
| 総長 | 山南敬助 | 陸奥国 | 切腹(1865年) |
| 参謀 | 伊東甲子太郎 | 常陸国 | 暗殺(1867年) |
| 一番隊組長 | 沖田総司 | 陸奥国 | 病死(1868年) |
| 二番隊組長 | 永倉新八 | 武蔵国 | 病死(1915年) |
| 三番隊組長 | 斎藤一 | 武蔵国 | 病死(1915年) |
| 四番隊組長 | 松原忠司 | 播磨国 | 病死または切腹(1865年) |
| 五番隊組長 | 武田観柳斎 | 出雲国 | 暗殺(1867年) |
| 六番隊組長 | 井上源三郎 | 武蔵国 | 戦死(1868年) |
| 七番隊組長 | 谷三十郎 | 備中国 | 暗殺(1866年) |
| 八番隊組長 | 藤堂平助 | 武蔵国 | 戦死(1867年) |
| 九番隊組長 | 鈴木三樹三郎 | 常陸国 | 老衰(1919年) |
| 十番隊組長 | 原田左之助 | 伊予国 | 戦死(1868年) |
明治を生き延びた主要隊士
幹部の中で明治維新後も生き延びたのは、わずか3名でした。
- 永倉新八:新撰組の語り部として記録を残す
- 斎藤一:警視庁に奉職、西南戦争にも従軍
- 鈴木三樹三郎:警察官として勤務
全員が大正時代まで生き、70歳以上の長寿を全うしています。
現代文化への影響
エンターテイメントでの新撰組
新撰組は、現代の様々なメディアで取り上げられ、今も人気を集めています。
小説・ドラマ
- 司馬遼太郎『燃えよ剣』『新選組血風録』
- 子母澤寛『新選組始末記』
- NHK大河ドラマ『新選組!』(2004年)
漫画・アニメ
- 『るろうに剣心』(和月伸宏):斎藤一が主要キャラクターとして登場
- 『銀魂』(空知英秋):新撰組をモデルにした「真選組」が活躍
- 『ゴールデンカムイ』(野田サトル):老齢の永倉新八と土方歳三が登場
- 『薄桜鬼』:新撰組隊士たちを題材にした人気ゲーム・アニメ
- 『PEACE MAKER 鐵』(黒乃奈々絵)
ゲーム
- 『Fate/Grand Order』:沖田総司、土方歳三らがサーヴァントとして登場
- 『龍が如く 維新!』:新撰組を題材にしたアクションゲーム
- 『刀剣乱舞』:隊士たちの愛刀が擬人化
現存する新撰組ゆかりの地
京都──屯所の変遷
新撰組の本拠地「屯所(とんしょ)」は、活動期間中に4回移転しています。
- 八木邸・前川邸(1863年3月〜1865年3月)
- 壬生村の郷士・八木源之丞の邸宅が最初の屯所
- 芹沢鴨暗殺の刀傷が今も残る
- 隣接する前川邸では山南敬助が切腹
- 現在も八木家の子孫が継承し、一般公開中
- 西本願寺(1865年3月〜1867年6月)
- 300畳もある北集会所と太鼓楼を使用
- 境内で大砲や銃の訓練を行い、寺側は大迷惑
- 長州藩との繋がりを監視する目的もあった
- 不動堂村(1867年6月〜1867年12月)
- 西本願寺が建設費を負担して建てた大名屋敷並みの施設
- 1万平方メートルの敷地に物見櫓や大浴場も完備
- 伏見奉行所(1867年12月〜1868年1月)
- 最後の屯所。鳥羽・伏見の戦いで焼失
現在訪問できる主なスポット
- 壬生寺:近藤勇の胸像、隊士の墓がある
- 八木邸:屯所として使用された建物が現存(京都市指定有形文化財)
- 池田屋跡:現在は居酒屋チェーン店として営業
東京
- 土方歳三資料館(日野市):土方家の子孫が運営、和泉守兼定を所蔵
- 試衛館跡(新宿区):近藤らが鍛錬した道場跡地に記念碑
北海道
- 五稜郭(函館市):土方歳三最期の地、国の特別史跡
まとめ
新撰組は、幕末のわずか6年間(1863年〜1869年)に活動した組織でありながら、150年以上たった今も人々を魅了し続けています。
新撰組の特徴
- 農民や浪人の寄せ集めから、最強の剣客集団へと成長した
- 「局中法度」という厳格な規律で組織を統率した
- 池田屋事件で名を上げ、京都の治安維持に大きく貢献した
- 最盛期には約230名もの隊士を擁した
- 戊辰戦争で敗れ、箱館で土方歳三の戦死をもって消滅した
人物としての魅力
新撰組隊士たちの人生は、実に多様でした。
- 天才剣士でありながら若くして病に倒れた沖田総司
- 最後まで戦い抜き、箱館で散った土方歳三
- 明治を生き延び、語り部となった永倉新八
- 裏切りによって粛清された者、戦場で散った者
彼らは「武士になりたい」という夢を持ち、激動の時代を駆け抜けました。その生き様が、時代を超えて人々の心を打ち続けているのでしょう。
興味を持った隊士がいたら、ぜひ関連する小説や史料を読んでみてください。フィクションとは異なる、リアルな彼らの姿が見えてくるはずです。


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