七人坊主とは?八丈島に伝わる僧侶の怨霊伝説と祟りの真相

神話・歴史・文化

お盆の夜、白い衣を纏った七人の僧侶が、静かに村の周りを歩き回る——。

東京から南へ約280キロ、太平洋に浮かぶ八丈島には、そんな恐ろしい伝説が語り継がれています。「七人坊主」と呼ばれるこの怨霊伝説は、単なる昔話ではありません。昭和27年に起きた土砂崩れ事故、そして平成6年に発覚した謎の人骨事件など、実際の出来事と絡めて語られ続けている、生きた伝承なんです。

この記事では、八丈島に伝わる「七人坊主」の伝説の内容から、その歴史的背景、そして現代まで続く祟りの噂について詳しく解説します。

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七人坊主とは

七人坊主(しちにんぼうず)は、東京都の離島・八丈島に古くから伝わる怨霊伝説です。

特に島の南東部にある中之郷地区では、お盆の時期になると七人の僧侶の霊が現れると信じられてきました。この霊に出会った者は災いに見舞われるとされ、島の人々は長年にわたってこの話を語り継いできたんですね。

郷土史家の浅沼良次氏による民話集『八丈島の民話』にも「七人のぼうさん」として記録されており、八丈島を代表する怪談の一つとなっています。

伝説の内容

七人坊主の伝説は、悲劇的な出来事から始まります。

漂着と飢餓

その昔、上方(大阪)から出航した船が遭難し、八丈島の藍ヶ江浜に七人の僧侶が漂着しました。彼らの身元については諸説あり、流刑にされた罪人だったとする説や、単に漂流の末にたどり着いた遭難者だったとする説があります。

漂流の間、何も口にできなかった僧侶たちは飢えに苦しみ、食べ物を求めて島をさまよいました。そうしてたどり着いたのが中之郷村だったんです。

村人からの拒絶

しかし当時の八丈島は大飢饉に見舞われていました。村人たちは自分たちの食料すら満足にない状態で、僧侶たちに分け与える余裕などありませんでした。

「よそ者に施しを与える余裕はない。出ていけ!」

村人たちは僧侶たちを東山(現在の三原山)へと追いやってしまいます。別の説では、僧侶たちが天然痘に感染していたため、疫病の蔓延を恐れた村人が受け入れを拒んだともいわれています。

山中での死

無念にも村から追い出された僧侶たちは、飢えに苦しみながら一人、また一人と山中で力尽きていきました。最後には七人全員が恨みを抱えたまま息絶えてしまったのです。

祟りの始まり

僧侶たちが亡くなった後、中之郷村では奇怪な現象が起きるようになりました。

村民の家々の周りを白衣を着た僧侶たちが歩き回る姿が目撃されるようになったんです。さらには農作物の不作が続いたり、蚕や家畜が相次いで死んだりと、次々と不幸が村を襲いました。

困り果てた村人が拝み屋に相談したところ、これらの災いは「七人の僧侶の祟り」だと告げられます。

弔いの塚

恐れをなした村人たちは、僧侶たちを追いやった東山に登り、弔いの塚を建てて自分たちの非情な行いを詫びました。

しかし、それでも祟りがおさまることはなかったといいます。以後、東山の山頂付近で七人の僧侶の話をしたり、ましてや悪口など言ったりすれば、必ず災いが起きると言い伝えられるようになりました。

歴史的な背景

この伝説を理解するには、当時の八丈島の過酷な環境を知る必要があります。

「飢餓島」と呼ばれた八丈島

八丈島は江戸時代、流刑地として知られていました。1960年代以降は南国情緒あふれる観光地として人気を博しますが、かつては「飢餓島」と呼ばれるほど食料事情が厳しい島だったんです。

火山性の土壌、強い潮風、頻繁にやってくる台風の影響で、平常時ですら作物は育ちにくい環境でした。そこへ本土から次々と送られてくる流刑人の食料も、島内の限られた作物で賄わなければなりませんでした。

実際、江戸時代の明和年間(1766〜1769年)には、八丈島で大規模な飢饉が起きた記録が残っています。

疫病の恐怖

狭い島内では、流人によって外から持ち込まれた麻疹や天然痘などの疫病も蔓延しやすかったといいます。記録によると、正徳元年(1711年)には難破船の船員が持ち込んだ天然痘で島内パンデミックが起こり、翌年の秋までに990人以上が命を落としました。

ある村では、感染者を近寄らせないために柵を設けて侵入を防いだという話も残っています。七人坊主の僧侶たちが追い払われた背景には、こうした疫病への恐怖があったのかもしれません。

華人僧侶の記録

興味深いことに、八丈島には中国から漂着した僧侶たちの記録も残っています。

八丈島出身の学者・高橋興一が享和2年(1802年)に書き残した『園翁交語』には、「いずれの頃か華人流れ来る。其墓所村々にあり。其山に入る時は祟りをなし、村民悩み煩ふ事時々なり」と記されています。

この頃には既に、漂着した僧侶が祟りをなすという信仰が存在していたことがわかりますね。七人坊主の伝説は、こうした複数の歴史的事実が習合して生まれた可能性が高いと考えられています。

「7」にまつわる事件と祟りの噂

七人坊主の伝説が現代まで語り継がれている理由の一つに、実際に起きた「7」にまつわる事件の存在があります。

昭和27年の土砂崩れ事故

昭和27年(1952年)、八丈島で林道建設の作業中に悲劇が起きました。

作業員の一人が七人坊主の祟りを信じず、坊主を馬鹿にしていたところ、突然土砂崩れが発生。なんと、ちょうど七人の作業員が命を落としてしまったのです。

事故現場が僧侶たちが亡くなったとされる場所に近かったこともあり、島には「七人坊主の祟りだ」という噂が広まりました。その後も、現場付近で緑衣を纏った僧侶の霊が目撃されたという話が伝えられています。

平成6年の火葬場人骨事件

そして平成6年(1994年)8月、さらに奇怪な事件が起きました。

八丈島唯一の火葬場で、職員が釜の中から七体分の焼却された人骨を発見したのです。4日前から火葬場は使われておらず、厳重に鍵もかけられていたにもかかわらず、誰かが遺体を焼却して姿を消していました。

調査の結果、焼かれた遺体は大人6体、子供1体と判明。島内64カ所すべての墓地を調べても、掘り起こされた形跡のある墓は見つかりませんでした。

事件は結局、解決を見ないまま時効を迎えています。偶然にも「七体」という数が七人坊主の伝説と一致したことから、この事件と関連付けて語られることも少なくありません。

七人ミサキとの関連

七人坊主と似た怪異として、四国・中国地方に伝わる「七人ミサキ」があります。

七人ミサキは常に七人組で行動する怨霊集団で、1人を取り殺すとそのうちの1人が成仏し、殺された者が新たな七人ミサキの一員になるという恐ろしい特徴を持っています。つまり、人数は永遠に7人のまま変わらないんですね。

有識者の中には、八丈島の七人坊主と四国の七人ミサキの類似性を指摘する声もあります。

ただし、七人ミサキが水辺に現れて人を取り殺すのに対し、七人坊主は特定の地域(中之郷周辺や東山)に現れ、悪口を言った者に災いをもたらすという違いがあります。両者が習合して現在の形になったのか、それとも独立した伝承なのかは、はっきりとはわかっていません。

現代の七人坊主

現在でも八丈島では、七人坊主にまつわる話題はデリケートなものとして扱われているようです。

怪奇探偵として知られる小池壮彦氏が八丈島を訪れた際、地元の人々は七人坊主についてあまり語りたがらなかったといいます。「島民が僧侶を虐殺したというような話ですからな、あまり話しやすいことではないのでしょう」と、ある郷土史家は語っています。

一方で、現代でも僧侶の霊を目撃したという証言は存在します。土砂崩れ事故の現場付近では、緑衣に身を包んだ僧侶がたびたび目撃されるという話も伝えられているんです。

お盆の時期に中之郷を訪れた観光客が、テントで寝ていたところ何者かに頭を撫でられたという体験談も残っています。地元の人は「盆だから七人の坊さんが出たのだろう」と語ったそうです。

まとめ

七人坊主は、八丈島の中之郷に伝わる怨霊伝説です。

飢饉の時代に漂着した七人の僧侶が、村人に拒絶されて山中で飢え死にし、その怨霊が祟りをなすようになったという悲しい物語が語り継がれています。

この伝説の背景には、「飢餓島」と呼ばれた八丈島の過酷な歴史があります。限られた食料、繰り返される飢饉、そして外から持ち込まれる疫病への恐怖。そうした厳しい環境の中で、人々が「よそ者」を受け入れられなかった悲劇が、この伝承の核心にあるのかもしれません。

昭和27年の土砂崩れ事故や平成6年の人骨事件など、「7」という数字にまつわる出来事と結びつけられながら、七人坊主の伝説は今も語り継がれています。

八丈島を訪れる機会があれば、この島が背負ってきた歴史と、そこから生まれた伝承に思いを馳せてみてはいかがでしょうか。ただし、東山付近で七人坊主の悪口を言うのは、くれぐれも避けたほうがよいかもしれませんね。

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