柴田勝家とは?織田信長に仕えた「鬼柴田」の生涯を解説

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柴田勝家って誰?

柴田勝家は戦国時代の武将です。
織田信長の重臣として活躍し、「鬼柴田」の異名で恐れられました。

信長が築いた織田家の中で、柴田勝家は筆頭家老にまで昇りつめた人物。
勇猛果敢な戦いぶりで知られる一方、越前の統治では優れた政治手腕も発揮しています。

しかし、本能寺の変で信長が亡くなった後、運命は大きく変わります。
信長の後継者争いで羽柴秀吉と対立し、賤ヶ岳の戦いに敗れて自害。
最期は信長の妹・お市の方と共に北ノ庄城で炎に包まれる壮絶なものでした。

この記事では、柴田勝家の生涯と人物像をわかりやすく解説します。

織田家に仕えるまで

柴田勝家の出自ははっきりしていません。
生まれた年も1522年から1527年まで諸説あり、確実な記録がないのです。

一説には尾張国愛知郡(現在の愛知県名古屋市名東区)の生まれとされています。
幼名は権六といいました。

若い頃から織田信秀(信長の父)に仕えていたようです。
ただし、その頃の地位や活動についても詳しい記録は残っていません。

信長の弟を支持して敗北

1551年、織田信秀が亡くなると大きな転機が訪れます。
柴田勝家は信秀の次男・織田信行(信勝)の家老になりました。

ところが1556年、信長と信行の間で跡目争いが勃発。
柴田勝家は主君の信行側について信長と戦いますが、稲生の戦いで敗北してしまったのです。

普通なら処刑されるところでした。
しかし信長は、勝家の主君への忠誠心と武勇を認め、命を助けたんですね。

この時から柴田勝家は信長に仕えることになります。
一度は敵対しながらも、その後は死ぬまで信長への忠義を貫くことになりました。

「鬼柴田」と呼ばれた武勇

信長の家臣となってから、柴田勝家の活躍が始まります。

三つの異名

柴田勝家には三つの有名な異名がありました。

「かかれ柴田」
常に先陣を切って突撃する勇猛さから付けられた名前です。
「木綿藤吉、米五郎左、掛かれ柴田に、退き佐久間」という小唄にも登場します。

この小唄、各武将の特徴を表しているんです。
藤吉(後の秀吉)は地味だけど実用的。
五郎左(丹羽長秀)は米のように欠かせない存在。
そして柴田は突撃力随一。
佐久間(佐久間信盛)は撤退戦が上手い。

「鬼柴田」
鬼のように恐ろしい戦いぶりから付けられました。
敵からすれば悪夢のような存在だったのでしょう。

「瓶割柴田」
これには有名な逸話があります。

1570年、長光寺城で六角氏に包囲されたときのこと。
敵は約8000、味方は約2000という絶望的な兵力差でした。
しかも水の供給を断たれて窮地に陥ります。

ここで柴田勝家は驚くべき行動に出ました。
残った水を全員に飲ませた後、水瓶をすべて叩き割ったのです。

「もう退路はない。戦って勝つしかない!」

決死の覚悟を示された兵士たちの士気は急上昇。
城から打って出た柴田軍は猛攻を仕掛け、なんと六角軍を撃退してしまいました。

この「背水の陣」のような采配が「瓶割柴田」の由来です。

主要な戦いでの活躍

柴田勝家は織田家の主要な戦いに参戦しています。

1571年、比叡山焼き討ちに参加。
同年の長島一向一揆との戦いでは重傷を負いました。

1573年には越前攻めと小谷城攻めに従軍。
浅井家滅亡に大きく貢献しています。

1575年、長篠の戦いでは豊臣秀吉と共に左翼を守りました。

1577年、上杉謙信との手取川の戦いでは敗北。
これは柴田勝家にとって数少ない大敗でした。

越前49万石の大名へ

1575年、柴田勝家は越前国の支配を任されます。
この頃、織田家筆頭家老の地位に就きました。

北ノ庄城の築城

柴田勝家は越前北ノ庄(現在の福井県福井市)に壮大な城を築きます。
一乗谷にいた商人や職人を集め、城下町の整備に力を注ぎました。

足羽川には九十九橋を架け、道路も整備。
経済振興にも積極的に取り組んだのです。

刀狩りと検地

興味深いことに、柴田勝家は豊臣秀吉より早く刀狩りを実施しています(1577年)。
一揆を起こした農民から刀を没収し、それを溶かして橋の鎖にしたという逸話も。

ただしこの話は『明智軍記』の創作とされています。
実際には秀吉の刀狩りとは目的が違ったようですね。

検地も実施し、「北庄法度」という法令を発布するなど、統治者としても優れた能力を発揮しました。

信長の死と運命の分岐点

1582年6月2日、本能寺の変が起こります。

このとき柴田勝家は上杉氏と戦っている最中でした。
信長の死を知ったのは4日後の夜。
すぐに軍を引き上げますが、明智光秀討伐には間に合いませんでした。

先を越したのは羽柴秀吉です。
秀吉は「中国大返し」で驚異的な速さで戻り、山崎の戦いで光秀を討ちました。

これが両者の運命を分ける出来事になります。

清須会議での対立

6月27日、清須城で織田家の後継者を決める会議が開かれました。

柴田勝家は信長の三男・織田信孝を推薦。
一方、秀吉は信長の孫・三法師(当時3歳)を擁立しました。

結果は秀吉の勝利。
明智光秀を討った功績が大きく影響したのです。

領地の配分でも、秀吉は河内・丹波・山城を得て大幅に増領。
対する柴田勝家は北近江3郡と長浜城を新たに得ただけでした。

織田家筆頭家老だった勝家の立場は逆転してしまったのです。

お市の方との結婚

清須会議後、柴田勝家は信長の妹・お市の方と結婚します(1582年8月20日)。
勝家は60歳前後、お市の方は36歳でした。

この結婚、実は秀吉が仲介したという説があります。
清須会議での不満を抑えるため、秀吉が織田家との結びつきを強化させたというのです。

お市の方は以前、浅井長政の妻でしたが、夫の死後は信長の保護下にありました。
三人の娘(茶々・初・江)も一緒に越前に移り住みます。

結婚期間はわずか8ヶ月。
しかし二人の仲は悪くなかったとされています。

賤ヶ岳の戦いと最期

清須会議の後、秀吉と勝家の対立は深まる一方でした。

1582年12月、秀吉は勝家の養子・柴田勝豊が守る長浜城を攻略。
さらに岐阜城の織田信孝も降伏させます。

越前の勝家は雪に阻まれて動けません。
秀吉はこのタイミングを見計らっていたのです。

運命の戦い

1583年3月、雪が解けると柴田勝家は約3万の軍勢で出陣。
対する秀吉軍は約5万でした。

賤ヶ岳周辺で両軍は対峙します。

4月16日、一度降伏した織田信孝が美濃で挙兵。
秀吉は兵の半数を率いて大垣城へ向かいました。

これをチャンスと見た柴田方の佐久間盛政が攻撃を開始。
中川清秀を討ち取り、大岩山砦を陥落させます。

しかし、ここで運命が変わりました。

大垣にいた秀吉は戦況を聞くと即座に軍を返します。
大垣から木之本まで約52kmの距離を、なんと5時間で移動したのです。

これが「美濃大返し」と呼ばれる驚異的な行軍でした。

前田利家の撤退

4月21日早朝、秀吉軍は佐久間盛政を急襲。
このとき、柴田方の前田利家が突如戦線を離脱しました。

利家は勝家を父のように慕い、秀吉とも親しい友人。
両者の間で苦悩した末の決断でした。

利家の撤退で柴田軍の陣形が崩れ、士気が一気に下がります。
勝家は敗走し、越前の北ノ庄城へ退却しました。

撤退中、勝家は利家の府中城に立ち寄ります。
しかし利家の裏切りを責めることなく、これまでの労をねぎらったといいます。

北ノ庄城での最期

秀吉軍は北ノ庄城を包囲。
わずか3日で城は陥落します。

柴田勝家はお市の方と三人の娘に城から逃げるよう伝えました。
娘たちは逃れましたが、お市の方は夫と共に死ぬことを選びます。

1583年4月24日、城に火を放った後、二人は自害しました。
享年は勝家が62歳前後、お市の方は37歳とされています。

辞世の句:
「夏の夜の 夢路はかなき あとの名を 雲井にあげよ 山ほととぎす」

儚い夢のような人生だったが、名を後世に残してくれという意味です。

お市の方も辞世の句を残しています:
「さらぬだに うちぬるほども 夏の夜の 夢路をさそふ ほととぎすかな」

夫婦で同じ「夏の夜」と「ほととぎす」を詠んだんですね。

柴田勝家の人物像

武骨で温情深い性格

柴田勝家は武骨な性格として知られています。
戦場では鬼のように恐ろしいが、私生活では温情深い人物だったようです。

信長への忠義

一度は裏切りながらも、許された後は生涯信長に忠誠を尽くしました。
自身の戦功について語った逸話が残っています。

「今、上方で明智光秀や菅屋九右衛門などが出世していると聞くが、自分は信長に仕えて戦功24度に及ぶ。誰が出世しようと心配ない」

自信と誇りを持っていたことがわかりますね。

お市の方への想い

高齢になるまで正室を持たなかった柴田勝家。
実は若い頃からお市の方に想いを寄せていたという説もあります。

信長の妹という「雲の上の存在」への恋心。
お市が浅井長政に嫁いだとき、勝家はすでに50歳を超えていました。

60歳を過ぎての結婚は、勝家にとって長年の想いが叶った瞬間だったのかもしれません。
わずか8ヶ月の結婚生活でしたが、二人は最期まで共にいました。

現代への影響

ゲームや映画での登場

柴田勝家は現代でも様々な作品に登場します。

ゲーム

  • 信長の野望シリーズ(1986年〜)
  • 戦国無双シリーズ(2006年〜)
  • 戦国BASARAシリーズ(2014年〜)

大河ドラマ

  • 『秀吉』(1996年・演:中尾彬)
  • 『利家とまつ』(2002年・演:松平健)
  • 『豊臣兄弟!』(2026年・演:山口馬木也)

福井市の礎を築いた人物

現在の福井市は、柴田勝家が築いた基礎の上に成り立っています。
北ノ庄城址には柴田神社があり、勝家とお市の方を祀っています。

宣教師ルイス・フロイスは勝家を「日本で最も勇猛果敢な武将」と評価しました。
武人としても統治者としても優れた人物だったのです。

まとめ

柴田勝家の人生をまとめます。

  • 織田信長の筆頭家老として活躍した猛将
  • 「鬼柴田」「かかれ柴田」「瓶割柴田」の異名を持つ
  • 越前49万石を治め、優れた政治手腕を発揮
  • 本能寺の変後、羽柴秀吉と対立
  • 賤ヶ岳の戦いに敗れ、お市の方と共に自害(1583年)

一度は信長を裏切りながらも、その後は生涯忠義を貫いた武将。
勇猛果敢な戦いぶりと、越前での優れた統治で知られています。

信長の死後、運命は秀吉に味方しませんでした。
しかし最期まで武士としての誇りを失わず、壮絶な死を遂げたのです。

戦国時代を駆け抜けた「鬼柴田」柴田勝家。
その生涯は、忠義と武勇の象徴として今も語り継がれています。

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