古代エジプトの神々の中で、最も複雑で謎めいた存在を知っていますか?
昼は英雄として太陽神ラーを守り、夜は兄を殺した悪神として恐れられる。
そんな相反する二つの顔を持つ神がいました。その名はセト(Set)。
彼はエジプトを守護する軍神でありながら、同時に災いをもたらす暴風の化身でもありました。まるで北欧神話のロキのようなトリックスター的存在ですが、その行動原理はもっと人間臭く、欲深く、そして時には間抜けなんです。
この記事では、古代エジプト神話における最も不可解な神「セト」の姿や特徴、そして彼を取り巻く神話と信仰の変遷について、分かりやすく解説していきます。
概要

セトは、古代エジプト神話に登場する砂漠・暴風・戦争を司る神です。
ヘリオポリス九柱神(エジプト神話における主要な9柱の神々)の一柱に数えられ、非常に高貴な血統を持っています。創造神アトゥームを先祖に持ち、大地の神ゲブと天空の女神ヌトの息子として生まれました。
セトの特徴は、その極端な二面性にあります。
セトの二つの顔
英雄としての顔
- 太陽神ラーの航海を守る守護者
- 邪悪な大蛇アポピスを倒せる唯一の神
- エジプト軍隊の守護者「王の武器の主人」
- 上エジプトの王者
- 外国の主として異民族を従える存在
悪神としての顔
- 兄オシリスを殺害した「兄殺し」
- 嵐を呼び起こし船乗りを苦しめる
- 混乱と暴力をもたらす破壊神
- 不吉な閏日第2日の守護神
この矛盾した性質こそが、セトという神の本質なんです。平和な時代には邪悪な存在として忌み嫌われ、戦争や外敵の脅威がある時代には英雄として崇められる。そんな時代の波に翻弄され続けた神でした。
系譜
セトの家族関係は、エジプト神話の中心的な物語と深く結びついています。
両親と兄弟姉妹
父: ゲブ(大地の神)
母: ヌト(天空の女神)
兄弟姉妹(4柱)
- 兄: オシリス(冥界の神・エジプトの王)
- 姉: イシス(魔術と豊穣の女神・オシリスの妻)
- 妹: ネフティス(葬祭と死者の守護女神・セトの妻)
配偶者と子供
妻: ネフティス(実の妹)
子供については文献によって記述が異なります。一般的には、ネフティスとの間に正式な子供はいないとされていますが、一部の伝承では次のような子がいるとも言われています。
- アヌビス(死者を導く神・ただしオシリスの子という説が有力)
- セベク(ワニの神・女神ネイトとの子という説もあり)
敵対関係
- 甥: ホルス(オシリスとイシスの息子・セトの最大の敵)
興味深いのは、セトとホルスの関係です。神話によっては「兄弟」として描かれることもあれば、「叔父と甥」として描かれることもあります。この矛盾は、異なる時代や地域の伝承が混ざり合った結果だと考えられています。
関連する神々
セトは役割に応じて、さまざまな神々と関係を持ちました。
- ラー、アモン、プタハ(大神たち・戦争において肩を並べる)
- アナト、アスタルテ、ネイト(配偶神として)
- トト(儀式において代理を務めることも)
- バアル、レシェフ(西アジアの神々と同一視された)
姿・見た目
セトの姿は、エジプト神話の神々の中でも特に奇妙で不可解なんです。
セト・アニマル(謎の生物)
壁画や彫刻に描かれるセトの頭部は、セト・アニマルと呼ばれる正体不明の動物の姿をしています。
セト・アニマルの特徴
- 長い長方形の耳(四角くて大きい)
- 長く伸びた鼻面(曲がって大きく突き出している)
- ぴんと立てられた尾(先が二股に分かれている)
- 細身の犬のような体
この動物は、現存するどの動物とも一致しません。学者たちは、ロバ、ツチブタ、ジャッカル、野生の犬、羚羊(カモシカ)、さらにはキリンなど、さまざまな動物との関連を提唱してきました。
しかし、エジプト人はキリンとセト・アニマルを明確に区別して描いていたため、実在の動物ではなく、複数の動物を合成した想像上の生物をわざわざ作ってセトに充てたという説が有力です。
人間の姿
セトは人間の姿で描かれることもあります。
人間型セトの特徴
- セト・アニマルの頭を持つ人間の体
- エジプトの神々と同じ衣装
- 時には完全な人間の姿(バアル神の外観を借りた場合)
- 角のついたティアラ冠(バアルと同一視された時)
- 弓と矢で武装(戦争の神として)
持ち物
- アンク(生命を意味する十字架)
- ウアス杖(権力と支配を意味する杖・先端が二股)
- 白冠または二重王冠(王権の象徴)
色と関連動物
セトの色: 赤(砂漠の色であり、古代エジプトでは不吉な色とされた)
- 髪の色: 赤
- 瞳の色: 赤
セト系の動物(ティフォニアン)
特定の神聖動物は定められていませんでしたが、後の時代に「災いをもたらす」とされた動物がセトに結び付けられました。
- ロバ
- 雄のカバ
- 羚羊(カモシカ)
- 赤犬
- ワニ
- 豚(イノシシ)
- 蛇
- 野生の雄牛
- 砂漠に住むすべての動物
これらの動物は、古代エジプト人にとって有害または不吉な存在とみなされていました。
特徴

セトの性格と能力は、まさに「制御不能なエネルギー」そのものです。
性格
基本的な性質
- 頭が良く、手先が器用
- 権力欲が強い
- 姑息で間が抜けている
- 自分に忠実で欲深い
- 気まぐれでいたずら好き
セトの性格で特に興味深いのは、その人間臭さなんです。北欧神話のロキのような純粋な混沌の化身ではなく、私利私欲に駆られ、時には失敗して周囲の失笑を買う。そんな親しみやすさがあります。
神格と役割
セトは時代や状況によって、さまざまな役割を担いました。
軍神としてのセト
- 「王の武器の主人」の称号を持つ
- ファラオに武術を教える存在
- エジプト軍隊の守護者
- ラー、アモン、プタハと肩を並べる大神
暴風神としてのセト
- 砂嵐を引き起こす力を持つ
- 破壊的なエネルギーの化身
- 船乗りを苦しめる嵐の主
外国の主としてのセト
- ヌビアやシリアの異民族を従える
- 砂漠を渡る隊商の守護者
- エジプト在住のアジア人たちに信仰された
太陽神の守護者としてのセト
- ラーの航海船の舳先に立つ
- 邪悪な大蛇アポピスを倒せる唯一の神
- 「ラーを救うもの」という称号
上エジプトの王者
- 兄オシリスと共にエジプトを統治
- ホルスと共に「二つの土地(上下エジプト)の結合」の儀式を執り行う
- ファラオの戴冠式で重要な役割を果たす
特別な能力
魔法の力
- 「魔法の偉大なるもの」と呼ばれる
- 害を与える能力が高い
- 人々は呪術にセトの力を利用した
性的な力
- 性欲を象徴する神
- 強力で抑制のきかない性的エネルギー
- 両性具有的な側面も持つ(ホルスの精液を食べて妊娠したという神話から)
好物: レタス(古代エジプトでは精液の象徴とされ、精力増強剤と考えられていた)
神話・伝承

セトにまつわる神話は、古代エジプト神話の中でも最も重要で複雑なものです。
異常な誕生
セトの誕生は、その後の迷走する生涯の幕開けを示すように異常で残酷なものでした。
閏日第2日に生まれたセトは、母親ヌトの子宮を自ら引き裂き、その脇腹を食い破って誕生したというのです。
この血生臭い誕生から、セトの誕生日である閏日第2日は、古代エジプトの人々にとって忌むべき不吉な日とされました。セトはこの物騒な日の守護神となりました。
オシリス殺害事件
セト神話の中核をなすのが、兄オシリスの殺害です。
殺害の動機
- 妻ネフティスとオシリスの不貞関係への嫉妬
- オシリスの平和的な統治により自分の武力がないがしろにされた不満
- 皆から愛されるオシリスへの嫉妬
- 肥大化した権力欲
セトは綿密な計画でオシリスを罠にはめ、殺害しました。さらに、その遺体を切り刻んで各地に散らばせ、復活できないようにしたのです。
しかし、イシスが魔術の力でオシリスの遺体を集めて一時的に蘇らせ、後継者ホルスを身籠もったことで、セトの計画は破綻し始めます。
ホルスとの王位争奪戦
オシリスとイシスの息子ホルスが成長すると、王位をめぐってセトとの80年に及ぶ争いが始まりました。
神々の法廷での争い
この争いは、エジプトの神々の集まり(エンネアド)の前で法廷闘争の形を取りました。裁判官は創造神ラーやアトゥーム、あるいはゲブが務めました。
セトの失敗の数々
セトは策略家のはずでしたが、ホルスとの争いでは次々と失態を演じます。
- 自己不利な証言: イシスの謀略により、自分自身が不利となる証言を行って周囲の失笑を買った
- 不潔な行為の暴露: ホルスを愛人にしようとして、その行為の不潔さをなじられた
- 石の船勝負: 起死回生を狙って「石の船を水に浮かせる勝負」という訳の分からない提案をし、溺れそうになった
性的な攻撃と逆襲
重要なエピソードの一つが、セトによるホルスへの性的攻撃です。
セトはホルスと性的関係を持とうとしました。これは単なる侮辱だけでなく、古代エジプトでは精液が毒のような危険な物質と考えられていたため、ホルスを弱らせる意図もありました。
しかし、ホルスはセトの精液を手で受け止め、それを捨てました。そして母イシスの助けを借りて、セトの好物であるレタスにホルスの精液をかけて、セトに食べさせたのです。
結果、セトはホルスの精液を体内に取り込んで「妊娠」してしまい、その額から金色の円盤が現れました。知恵の神トトがこの円盤を取って自分の頭に載せたという話もあります。
身体の損傷
争いの中で、両者は互いに傷つけ合いました。
- ホルス: セトの睾丸を傷つけるか奪った(男性性と力の喪失を象徴)
- セト: ホルスの片目、または両目を傷つけるか奪った(月の満ち欠けを象徴)
ホルスの目は「ホルスの目」として、エジプト神話で非常に重要なシンボルとなります。失われた目は、イシス、トト、ハトホルなどの神々によって癒されたり取り戻されたりしました。
争いの結末
最終的に、ホルスが勝利し、エジプトの正当な王となりました。しかし、太陽神ラーの取り計らいで、セトにも一定の地位が与えられました。セトはラーの航海船で、邪悪な大蛇アポピスと戦う役割を担うことになったのです。
ラーの守護者としてのセト
悪神として敗北したセトですが、英雄的な役割も果たしています。
太陽神ラーが毎日地下世界を航海する際、邪悪な混沌の蛇アポピスが船を襲います。このアポピスを倒せる神は、セトだけだったのです。
セトは船の舳先に立ち、槍でアポピスを突き刺して退治しました。この役割のおかげで、セトは「ラーを救うもの」という称号を得て、完全な悪神として滅ぼされることを免れました。
『二人兄弟の神話』でのセト
興味深いことに、セトは叙事詩『二人兄弟の神話』では主人公として活躍しています。
この物語では、セトはバタという名前で、アヌビスの兄弟とされています。自分を裏切ってファラオのもとに走った妻に復讐を果たし、最終的にはエジプトの王となるという、英雄的な結末を迎えるのです。
出典・起源
セトの起源は非常に古く、その信仰の歴史は複雑な変遷をたどりました。
起源と初期の信仰
発祥の地: 上エジプトのコム・オンボ(古代名オンボス)
セト信仰は、ナカダⅠ期(紀元前4000–3500年頃)にこの地方の中心都市だったコム・オンボで始まったと考えられています。
この時期、セトは邪悪な面の片鱗も見られない守護神として崇拝されていました。つまり、最初から悪神だったわけではないんです。
悪神への転落
その後、ホルス信仰が台頭し始めると、セトはその神話に組み込まれ、徐々に悪役の立場を背負わされていきました。
これは宗教史でよく見られるパターンです。新しい宗教が支配した土地の神を、悪魔や悪神として貶めることで、自分たちの正統性を主張するのです。
歴史的解釈
一部の学者は、ホルスとセトの神話が実際の歴史的事件を反映しているのではないかと考えています。
仮説:
- セトを信仰する上エジプトの民が、エジプトに流入してきた侵入者の王(オシリスの原型)を殺害した
- 復讐に燃える侵入者たちは下エジプトまで逃れ、ホルスの名のもとに支配し、力を蓄えた
- その後、上エジプトへ攻め込んで復讐を果たした
この説が正しければ、神話は上下エジプトの統一にまつわる権力闘争を象徴していることになります。
信仰の中心地
悪神となった後も、セトは主要な神の一柱として信仰され続けました。
主な信仰地
- 上エジプト第11ノモス: ヒュプセリス(標章にセト系動物が描かれる)
- 上エジプト第19ノモス: オクシリンコス(セトの生誕地と主張)
- ファイユーム入口近く: スウ(セトの生誕地と主張)
- ハルガとダフラのオアシス: セトの神託が求められた
- デルタ地方: 下エジプト第19ノモス
オクシリンコスとスウは、どちらも自分たちの町こそがセトの生まれ故郷だと主張して競っていたそうです。
ヒクソスとセトの復権
中王国時代後期(紀元前1800–1650年頃)、エジプトに侵攻してきた異民族ヒクソスの王たちは、自分たちの主神を探していました。
彼らは、自分たちの神ステク(バアルに近い神)に最も似ていると考えたセトを選び、主神として大いに崇拝しました。ヒクソスのアポピス王は、セトだけを崇拝したと記録されています。
このことにより、セト信仰は一時期、ホルス信仰を追いやるほど勢力を盛り返しました。
しかし、これが仇となります。ヒクソスが放逐されると、セトは「外国人の神」「侵略者の神」として、さらに嫌われるようになってしまったのです。
新王国時代の復権
第19王朝(紀元前1292–1189年頃)になると、セトは再び宗教的復権を果たしました。
ラムセス家の信仰
ラムセス家はデルタ東部のタニス出身で、セト信仰と強い結びつきがありました。
- セティ1世(紀元前1294–1279年): 名前が「セトのもの」を意味する
- セトナクト(第20王朝の創始者): 名前が「セトによって勝利する」を意味する
- ラムセス2世: セトから弓の使い方を教わるレリーフを残した
ラムセス2世は、「400年記念碑」を建て、タニスでセトが400年間支配していたことを祝いました。これは、セトがラムセス家の祖先神であることを示しています。
外国の神々との同一視
新王国時代、デルタ地方でセトは外国の神々と結び付けられました。
- ヒッタイトの神テシュブ(嵐の神)
- カナンの神バアル(「セト=バアル」として崇拝された)
- シリアの神々: アナト、アスタルテなど
悪魔化の完成
第三中間期および後期(紀元前1069–332年)、エジプトが外国勢力に征服されると、セトの悪魔化が決定的になりました。
ローマ支配時代(紀元前30–紀元後395年): セトは、ゼウスと戦った怪物テュフォンと同一視されました。
キリスト教時代: グノーシス派の一派「セツ派」は、聖書のセツ(アダムとエヴァの第3子)とセトを同一視しました。
プトレマイオス朝時代(紀元前332–32年)まで、セトは悪神として恐れられ続けましたが、辺境の地(ハルガ、ダフラ、デイル・エル・ハガル、ムト、ケリスなど)では、依然として「オアシスの主」「町の主」として崇拝されていました。
セト信仰の終焉
エジプトがギリシャ化・ローマ化・キリスト教化される中で、セト信仰は徐々に消えていきましたが、その神話は後世に大きな影響を与えました。
悪の化身としてのイメージは、後のユダヤ教・キリスト教における悪魔(サタン)の概念形成にも影響を与えたとされています。
まとめ
セトは、古代エジプト神話において最も複雑で矛盾に満ちた神です。
重要なポイント
- ヘリオポリス九柱神の一柱で、創造神アトゥームの子孫
- 砂漠・暴風・戦争を司る神格を持つ
- 謎の生物「セト・アニマル」の頭を持つ独特の姿
- 兄オシリスを殺害した「兄殺し」の悪神
- 太陽神ラーを守る英雄としての一面も持つ
- 時代によって英雄と悪神の間を揺れ動いた
- 上エジプトのコム・オンボが起源
- ヒクソスやラムセス家に崇拝されて復権した
- 最終的には悪魔テュフォンと同一視された
セトの物語は、古代エジプトの政治的・宗教的な変遷を映し出す鏡のようなものです。平和な時代には邪悪な存在として忌避され、戦争や混乱の時代には強力な守護者として崇められる。その姿は、まさに人間社会が持つ矛盾そのものといえるでしょう。
現代でも、善と悪は絶対的なものではなく、時代や立場によって変わるものだということを、セトは教えてくれているのかもしれませんね。


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