近づく者の命を奪う恐ろしい石がある——そんな話を聞いたら、あなたはどう思うでしょうか?
栃木県那須町には、「殺生石(せっしょうせき)」と呼ばれる不思議な石が今も存在しています。この石には、平安時代から語り継がれてきた九尾の狐の伝説が深く関わっているんです。
なぜこの石は「殺生石」と呼ばれるようになったのか。そして、その正体とされる九尾の狐とは何者なのか。
この記事では、日本を代表する妖狐伝説「殺生石」について、その神秘的な由来と伝承を分かりやすくご紹介します。
概要

殺生石は、栃木県那須郡那須町の那須湯本温泉付近にある溶岩です。
この一帯では火山性ガス(硫化水素や亜硫酸ガスなど)が絶えず噴き出しており、近づいた鳥や動物が命を落とすことから「殺生(いきものの命を奪う)の石」という名前がつきました。
しかし、この石が有名になったのは科学的な理由だけではありません。平安時代に絶世の美女・玉藻前(たまものまえ)に化けた九尾の狐が、討伐された後にこの石になったという壮大な伝説があるからなんです。
俳人・松尾芭蕉も『おくのほそ道』でこの地を訪れ、「石の香や 夏草赤く 露暑し」と詠んでいます。2014年には国指定の名勝にもなりました。
九尾の狐と玉藻前の物語
殺生石の伝説を語るには、まず九尾の狐(きゅうびのきつね)について知る必要があります。
九尾の狐とは?
九尾の狐とは、9本の尾を持つ伝説上の狐のことです。中国の古い書物『山海経(せんがいきょう)』にも登場し、千年以上生きた狐は強大な妖力を持ち、尾が9本に分かれるといわれています。
この九尾の狐は、美しい女性に化けて権力者をたぶらかし、国を滅ぼす存在として恐れられてきました。
三国を渡り歩いた妖狐
江戸時代の読本『絵本三国妖婦伝』によれば、九尾の狐は3つの国で暗躍したとされています。
九尾の狐の足跡
- 古代中国・殷(いん)王朝:妲己(だっき)という美女に化け、紂王(ちゅうおう)を惑わせた。酒池肉林にふけり、残虐な刑罰を楽しむなど暴政を敷いた末、周の武王に討たれる
- 古代インド・天竺:華陽夫人に化けて斑足太子(はんぞくたいし)をそそのかし、千人の首をはねさせるなど暴虐を尽くした
- 古代中国・周王朝:褒姒(ほうじ)に化けて幽王を惑わせ、国を傾けた
そして最後にこの妖狐がたどり着いたのが、日本だったのです。
玉藻前の正体が暴かれるまで
宮中に現れた絶世の美女
平安時代末期、鳥羽上皇(とばじょうこう)の宮廷に、玉藻前と呼ばれる美しい女官がいました。
彼女はもともと「藻女(みくずめ)」という名前で、子に恵まれない夫婦のもとで大切に育てられたそうです。18歳で宮中に仕えるようになり、その類まれな美貌と博識から、やがて鳥羽上皇の寵愛を一身に受けるようになりました。
上皇を蝕む謎の病
ところが、玉藻前が寵愛を受けるようになってから、鳥羽上皇は次第に原因不明の病に苦しむようになります。
朝廷の医師たちにもその原因がまったく分かりませんでした。そこで、陰陽師(おんみょうじ)の安倍泰成(あべのやすなり)が呼ばれることになったのです。
陰陽師による正体の発覚
安倍泰成は術を用いて調べた結果、上皇の病の原因が玉藻前にあることを見抜きます。
泰成が真言(まじない)を唱えると、玉藻前は変身を解かれ、金色の毛並みと9本の尾を持つ狐の姿を現しました。
正体を暴かれた九尾の狐は、宮中を脱走して行方をくらませてしまいます。
那須野での討伐と殺生石の誕生
討伐軍の編成
九尾の狐は那須野(現在の栃木県那須郡周辺)に逃れ、そこで婦女子をさらうなどの悪事を働くようになりました。
この報告を受けた鳥羽上皇は、討伐軍を編成して派遣することを決めます。
討伐軍の主な将軍
- 三浦介義明(みうらのすけよしあき)
- 千葉介常胤(ちばのすけつねたね)
- 上総介広常(かずさのすけひろつね)
- 軍師:陰陽師・安倍泰成
激闘と九尾の狐の最期
討伐軍は那須野で九尾の狐を発見し、すぐさま攻撃を仕掛けました。しかし、狐の妖術によって多くの兵士が倒れ、最初の戦いは失敗に終わります。
将兵たちは犬追物(いぬおうもの)で騎射を訓練し直し、作戦を練り直して再び攻撃を開始しました。
追いつめられた九尾の狐は、領主の夢に美しい娘の姿で現れて許しを請います。しかし領主はこれを「狐が弱っている証拠」と読み、最後の攻勢に出ました。
そして——三浦介が放った矢が脇腹と首筋を貫き、上総介の長刀が斬りつけたことで、九尾の狐はついに息絶えたのです。
毒石と化した狐
討伐された九尾の狐は、巨大な毒石へと姿を変えました。
この石は近づく人間や動物の命を奪い続けたため、村人たちは恐れおののき、「殺生石」と名付けたのです。
鳥羽上皇が亡くなった後も、殺生石は毒気を発し続け、周囲の村人たちを恐怖に陥れ続けました。
玄翁和尚による鎮魂
殺生石を鎮めようと、多くの高僧がこの地を訪れました。しかし、石の毒気によって次々と命を落としてしまいます。
殺生石を砕いた僧
そんな中、南北朝時代に現れたのが玄翁和尚(げんのうおしょう)でした。
玄翁和尚は会津の元現寺を開いた高僧で、殺生石の前で供養の法を行い、ついにこの石を打ち砕くことに成功したと伝えられています。
砕かれた殺生石の破片は各地へ飛散したとされ、その行き先については複数の伝承が残っています。
殺生石の破片が飛んだとされる場所
- 美作国高田(現・岡山県真庭市勝山)
- 越後国高田(現・新潟県上越市)
- 安芸国高田(現・広島県安芸高田市)
- 豊後国高田(現・大分県豊後高田市)
- 会津高田(現・福島県会津美里町)
ちなみに、玄翁和尚が石を砕いた道具は金槌ではありませんでしたが、この伝説から金槌のことを「玄翁(げんのう)」と呼ぶようになったという説もあります。
現在の殺生石
観光名所として
現在、殺生石一帯は「殺生石園地」として整備され、多くの観光客が訪れる名所になっています。
ただし、火山ガスの噴出量が多いときには立ち入りが規制されることもあるので注意が必要です。実際に2022年12月には、殺生石の近くでイノシシ8頭の死骸が見つかっており、ガスの危険性は今も変わっていません。
2022年に割れた殺生石
2022年3月5日、殺生石が二つに割れていることが確認されました。
数年前からひびが入っていたことから、那須町は「自然に割れた可能性が高い」との見解を示しています。「九尾の狐が復活した」などとSNSで話題になりましたが、自然現象によるものと考えられています。
御神火祭
毎年5月には、活火山である茶臼岳(那須岳)を鎮めるための「御神火祭(ごじんかさい)」が行われます。
白装束に狐面やフェイスペイントを施した約100名の松明行列が那須温泉神社から殺生石へ下り、神事の後に大松明に点火する幻想的なお祭りです。
まとめ
殺生石は、九尾の狐の伝説と火山活動が結びついた、日本を代表する神秘的なスポットです。
重要なポイント
- 栃木県那須町にある溶岩で、火山性ガスが噴出している
- 九尾の狐(玉藻前)が討伐された後に変化した石という伝説がある
- 九尾の狐は中国の妲己、インドの華陽夫人、周の褒姒と同一視される
- 平安時代に鳥羽上皇を病に苦しめ、陰陽師・安倍泰成に正体を暴かれた
- 那須野で討伐され、毒石となった
- 南北朝時代に玄翁和尚によって砕かれたと伝えられる
- 2022年に自然の力で二つに割れた
- 現在は観光名所として整備されている
千年の時を超えて語り継がれる九尾の狐の物語。那須を訪れる機会があれば、ぜひ殺生石を訪れてみてはいかがでしょうか。ただし、くれぐれもガスには気をつけて。


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