三国志・蜀の武将一覧|五虎大将軍から軍師まで主要人物を徹底解説

神話・歴史・伝承

映画やゲーム、漫画で「関羽」「諸葛亮」という名前を聞いたことはありませんか?

これらはすべて、三国志に登場する蜀(しょく)の武将たちの名前です。

三国時代(220年〜280年)は、中国史上最も人気のある時代の一つ。
特に蜀は、劉備(りゅうび)を中心とした義に厚い武将たちが集まった国として、今でも多くのファンに愛されています。

でも、「名前は知っているけど、どんな人物なの?」「誰が強くて、誰が賢いの?」と思う方も多いのではないでしょうか。

この記事では、蜀に仕えた主要な武将たちを、五虎大将軍・軍師・後期の名将などカテゴリー別に詳しくご紹介します。


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蜀とはどんな国?

三国の一つとして

三国時代、中国は魏(ぎ)・呉(ご)・蜀(しょく)の三つの国に分かれていました。

蜀は現在の四川省を中心とした地域を支配し、蜀漢(しょくかん) とも呼ばれます。
首都は成都(せいと)に置かれていました。

蜀の特徴

蜀には、他の二国と比べて独特の特徴がありました。

義を重んじる精神

劉備は「桃園の誓い」で関羽・張飛と義兄弟の契りを結び、その絆を生涯貫きました。
蜀全体に「義」を重視する風潮があったのです。

漢王朝の復興を掲げた正統性

劉備は漢王朝の血筋を引く皇族の末裔。
「漢を復興する」という大義名分のもとに人材が集まりました。

個性豊かな武将と軍師

武勇に優れた五虎大将軍、知略に長けた諸葛亮など、才能あふれる人材が揃っていたのが蜀の強みでした。


五虎大将軍(ごこだいしょうぐん)

三国志演義で劉備軍の5人の猛将に与えられた称号が「五虎大将軍」です。

正史(歴史書)には登場しない称号ですが、正史『三国志』の蜀書第六巻では、この5人が「関張馬黄趙伝」として一つの巻にまとめられています。
これが五虎大将軍の由来だと言われているんです。

では、5人の将軍を一人ずつ見ていきましょう。


関羽(かんう)── 五虎大将軍筆頭

項目内容
字(あざな)雲長(うんちょう)
出身地河東郡解県(現在の山西省運城市)
得物青龍偃月刀(せいりゅうえんげつとう)
官職前将軍

どんな武将?

五虎大将軍の筆頭であり、劉備軍随一の勇将です。
劉備・張飛と「桃園の誓い」を結び、義兄弟となりました。

美しい長い髭が特徴で、「美髯公(びぜんこう)」と呼ばれることもあります。

有名なエピソード

関羽には数々の伝説的なエピソードがあります。

劉備が曹操に敗れた際、劉備の妻を守るために一時的に曹操に降伏しました。
しかし義理を果たすと、五つの関所を破り、六人の将を斬って千里の道を踏破し、劉備のもとへ帰還したのです。
これが有名な「千里行」のエピソード。

また、魏の猛将・顔良と文醜を一騎打ちで討ち取った武勇も語り継がれています。

最期

荊州統治を任されていた関羽でしたが、呉の呂蒙の計略により孤立。
219年、麦城で息子の関平とともに捕らえられ、処刑されました。

関羽の死は蜀にとって大きな痛手となり、劉備の呉への復讐戦(夷陵の戦い)につながっていきます。

現代への影響

関羽は死後、神として崇められるようになりました。
現在では「関帝」として商売繁盛の神様とされ、中華街などに関帝廟が建てられています。


張飛(ちょうひ)── 万夫不当の猛将

項目内容
字(あざな)益徳(えきとく)※演義では翼徳
出身地幽州涿郡(現在の河北省涿州市)
得物蛇矛(じゃぼう)
官職右将軍

どんな武将?

関羽と並ぶ劉備軍の双璧であり、万人を相手にできる武勇の持ち主です。
もともとは豚肉屋と酒屋を営んでいたという伝承があります。

有名なエピソード

長坂の戦いで、曹操軍百万の大軍を前に橋の上で単騎で立ちふさがり、大喝一声で敵軍を震え上がらせたエピソードは特に有名です。

また、入蜀戦では厳顔を計略で生け捕りにするなど、知略も発揮しました。
馬超との一騎打ちでは一昼夜戦っても決着がつかなかったと言われています。

性格と最期

豪快な性格の一方で、短気で部下に厳しすぎる面がありました。
劉備からは「おまえは部下を殴りすぎる。いつか災いを招くぞ」と警告されていたほどです。

221年、呉への出征直前、部下の范彊と張達に暗殺されてしまいました。
劉備の警告が現実となってしまったのです。


趙雲(ちょううん)── 一騎当千の白馬将軍

項目内容
字(あざな)子龍(しりゅう)
出身地冀州常山郡真定県(現在の河北省石家荘市)
得物槍、青釭剣(せいこうけん)
官職翊軍将軍

どんな武将?

五虎大将軍の中で最も長寿で、劉備から劉禅の時代まで活躍した古参の武将です。
白馬に乗った姿が印象的で、知勇兼備の名将として知られています。

有名なエピソード

長坂の戦いでは、曹操軍百万の中を単騎で駆け抜け、劉備の子・阿斗(後の劉禅)を救い出しました。
このとき、敵将五十人余りを討ち取ったとも言われています。

諸葛亮からも厚い信頼を寄せられ、近衛軍の指揮を任されていました。

特徴

他の四将と比べると官職は低めでしたが、それは趙雲の役割が「皇帝の身辺警護」という極めて重要な任務だったからです。
劉備・劉禅の安全を守ることこそが、趙雲に課せられた使命だったのです。

五虎大将軍の中で最も長生きし、70歳以上まで生きたと言われています。


馬超(ばちょう)── 西涼の錦馬超

項目内容
字(あざな)孟起(もうき)
出身地扶風郡茂陵県(現在の陝西省興平市)
得物
官職左将軍

どんな武将?

西涼(現在の甘粛省あたり)の名門・馬騰の長男で、「錦馬超」の異名を持つ若き猛将でした。
容姿端麗で、華麗な装備を身につけていたことからこの呼び名がつきました。

有名なエピソード

父・馬騰や弟たちが曹操に殺されると、復讐のため挙兵。
潼関の戦いでは曹操を追い詰め、曹操に「馬超がいなければ、私はここまで苦労しなかった」と言わしめるほどでした。

曹操の参謀・賈詡の離間の計により敗北しますが、その武名は天下に轟いていました。
劉備軍に帰順すると、成都の太守・劉璋は馬超の名を聞いただけで降伏したと言われています。

劉備軍での活躍

漢中争奪戦で活躍し、五虎大将軍の一人に任じられました。
しかし、これからという時に病に倒れ、47歳で亡くなってしまいます。

悲運の生涯

馬超は父・弟・妻子を曹操に殺され、波乱に満ちた人生を送りました。
蜀では名声こそあれ、実際の活躍の場は限られていたようです。


黄忠(こうちゅう)── 老いてますます盛ん

項目内容
字(あざな)漢升(かんしょう)
出身地荊州南陽郡
得物弓、大刀
官職後将軍

どんな武将?

「老将」として有名な黄忠は、60歳を過ぎてから劉備軍で大活躍した遅咲きの名将です。
百発百中の弓の名手として知られています。

有名なエピソード

長沙の戦いで関羽と一騎打ちを繰り広げ、互角に渡り合いました。
その際、関羽の男気に感じ入り、わざと弓を外して勝負を引き分けにしたという逸話があります。

定軍山の戦いでは、魏の名将・夏侯淵を討ち取るという大金星を挙げました。
この功績で五虎大将軍に選ばれますが、関羽は「老兵と同格とは納得いかん」と不満を漏らしたそうです。

教訓

黄忠は「老いてますます盛ん」という言葉の象徴的存在。
年齢を理由に引退するのではなく、最後まで全力で戦い抜いた姿勢が、現代でも多くの人の心を打ちます。


蜀の軍師・文官たち

武勇だけでは天下は取れません。
蜀には知略に優れた軍師・文官たちがいました。


諸葛亮(しょかつりょう)── 千年に一人の天才軍師

項目内容
字(あざな)孔明(こうめい)
出身地徐州琅邪郡陽都県
通称臥龍(がりょう)、伏龍
官職丞相(じょうしょう)

どんな人物?

蜀の丞相であり、中国史上最も有名な軍師の一人です。
「臥龍」と称され、隠遁生活を送っていましたが、劉備の「三顧の礼」に感激して仕官しました。

天下三分の計

諸葛亮が提唱した戦略が「天下三分の計」です。
曹操の魏、孫権の呉と天下を三分し、力を蓄えてから天下統一を目指すという壮大な構想でした。

北伐

劉備の死後、劉禅を支えながら漢王朝復興を目指して五度の北伐を敢行しました。
しかし志半ばで、五丈原の陣中で病に倒れ、54歳で没しました。

「出師の表」

北伐に先立って劉禅に上奏した「出師の表」は、忠義の心が込められた名文として今も読み継がれています。


龐統(ほうとう)── 鳳雛と呼ばれた参謀

項目内容
字(あざな)士元(しげん)
出身地荊州襄陽郡
通称鳳雛(ほうすう)

どんな人物?

諸葛亮の「臥龍」に対して「鳳雛」と称された天才軍師です。
「臥龍・鳳雛のどちらかを得れば天下を取れる」と言われていました。

活躍と最期

劉備の益州攻略を進言し、実際に軍師として従軍しました。
しかし落鳳坡の戦いで流れ矢に当たり、36歳の若さで戦死してしまいます。

龐統が生きていれば、蜀の歴史は変わっていたかもしれません。


法正(ほうせい)── 劉備の懐刀

項目内容
字(あざな)孝直(こうちょく)
出身地扶風郡郿県
官職尚書令、護軍将軍

どんな人物?

劉備の腹心として信頼された策士です。
益州攻略や漢中争奪戦で大きな功績を挙げました。

諸葛亮との関係

諸葛亮は法正を高く評価しており、その死を大いに惜しみました。
夷陵の戦いでの敗北後、諸葛亮は「法正が生きていれば、主君(劉備)を止められただろう」と嘆いたと言われています。


蜀漢四英(しょくかんしえい)

諸葛亮の死後、蜀を支えた四人の名臣が「蜀漢四英」または「四相」と呼ばれています。

人物字(あざな)役割
諸葛亮孔明丞相として蜀の基盤を築いた
蔣琬公琰諸葛亮の後継者として政権を安定させた
費禕文偉内政を重視し国力を保った
董允休昭劉禅の側近として宦官の専横を抑えた

この四人が国政を担っていた時代、蜀は安定していました。
しかし費禕が暗殺され、董允が亡くなると、宦官・黄皓が台頭し、蜀は衰退の一途をたどることになります。


後期の名将たち

魏延(ぎえん)── 五虎将に次ぐ猛将

項目内容
字(あざな)文長(ぶんちょう)
出身地荊州義陽郡
官職前軍師、征西大将軍、漢中太守

どんな武将?

劉備に抜擢され、重要拠点・漢中の太守を任された猛将です。
五虎大将軍に次ぐ実力者として、北伐では先鋒を務めました。

「子午谷の奇策」

魏延は北伐において、自ら別働隊を率いて長安を奇襲する「子午谷の奇策」を諸葛亮に何度も進言しました。
しかし諸葛亮は危険すぎるとして採用しませんでした。

悲劇の最期

諸葛亮の死後、楊儀と対立して反乱を起こしたとされ、馬岱に討たれました。
「俺を斬れる者がいるか!」と叫んだところを斬られたという逸話が残っています。


姜維(きょうい)── 諸葛亮の後継者

項目内容
字(あざな)伯約(はくやく)
出身地天水郡冀県
官職大将軍
生没年202年〜264年

どんな武将?

もともとは魏の武将でしたが、諸葛亮の第一次北伐の際に蜀に降りました。
諸葛亮から「麒麟児」と評され、後継者として期待された人物です。

北伐の継続

諸葛亮の遺志を継ぎ、何度も北伐を敢行しました。
しかし国力の差は大きく、成功には至りませんでした。

最期

蜀滅亡後、魏の将軍・鍾会を唆して反乱を起こさせ、蜀復興を図りましたが失敗。
鍾会とともに殺害されました。

蜀への忠義を最後まで貫いた武将として、今も評価されています。


王平(おうへい)── 堅実な守りの名将

項目内容
字(あざな)子均(しきん)
官職鎮北大将軍、漢中太守

どんな武将?

街亭の戦いで馬謖の暴走を諫め、敗北の中でも秩序ある撤退を指揮した堅実な将軍です。
読み書きができなかったと言われていますが、戦略眼は確かでした。

興勢の役

244年、魏の曹爽が大軍で攻めてきた際、わずかな兵力で漢中を守り抜きました。
この功績により、漢中太守として蜀の北方を守る重責を担いました。


蜀の主要武将 一覧表

五虎大将軍

武将名得物官職特徴
関羽雲長青龍偃月刀前将軍五虎将筆頭、義の象徴
張飛益徳蛇矛右将軍万夫不当の猛将
趙雲子龍翊軍将軍知勇兼備、最長寿
馬超孟起左将軍西涼の錦馬超
黄忠漢升弓、大刀後将軍老将、弓の名手

軍師・文官

人物名通称・役割特徴
諸葛亮孔明臥龍、丞相天下三分の計、北伐
龐統士元鳳雛益州攻略の立役者
法正孝直護軍将軍劉備の懐刀
徐庶元直軍師諸葛亮を推挙

蜀漢四英

人物名時代功績
諸葛亮孔明初期蜀の建国と基盤づくり
蔣琬公琰中期諸葛亮死後の政権安定
費禕文偉中後期内政重視、国力保持
董允休昭中期劉禅の補佐、宦官抑制

後期の名将

武将名官職特徴
魏延文長征西大将軍北伐の先鋒、悲劇の最期
姜維伯約大将軍諸葛亮の後継者
王平子均漢中太守堅実な守備の名将
廖化元倹右車騎将軍蜀最後の武将
張嶷伯岐蕩寇将軍南方平定の功労者

まとめ

蜀の武将たちは、単なる歴史上の人物ではありません。

義を重んじた関羽豪快な張飛知勇兼備の趙雲天才軍師の諸葛亮
彼らの生き様は、1800年以上経った今でも、私たちに多くのことを教えてくれます。

蜀は最終的に263年に滅亡しましたが、劉備たちが目指した「義」の精神は、今も三国志ファンの心に生き続けています。

興味を持った武将がいたら、ぜひその人物が活躍した場面を三国志演義で読んでみてください。
きっと、新たな発見があるはずです。

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