サンフランシスコ講和条約(サンフランシスコこうわじょうやく)は、第二次世界大戦を正式に終結させた歴史的な条約です。
この条約の発効により、約7年間にわたる連合国の占領が終わり、日本は主権国家として国際社会に復帰しました。
しかし、ソ連や中国が参加しなかったことから「片面講和」とも呼ばれ、その後の国際関係に大きな影響を残すことになります。
本記事では、サンフランシスコ講和条約の背景から条約の内容、国内の論争、そして現代への影響まで、幅広く見ていくことにしましょう。
サンフランシスコ講和条約の基本情報
サンフランシスコ講和条約の正式名称は「日本国との平和条約(Treaty of Peace with Japan)」といいます。
1951年(昭和26年)9月8日、アメリカのサンフランシスコにあるウォー・メモリアル・オペラ・ハウス(War Memorial Opera House)で調印されました。
日本を含む49か国が署名し、翌年の1952年(昭和27年)4月28日に発効しています。
日本側の首席全権は吉田茂(よしだしげる)首相が務めました。
全権委員には池田勇人(いけだはやと)蔵相、苫米地義三(とまべちぎぞう)国民民主党最高委員長、星島二郎(ほしじまにろう)自由党常任総務、徳川宗敬(とくがわむねよし)参議院緑風会議員総会議長、一万田尚登(いちまだひさと)日銀総裁の5名が加わっています。
アメリカ側で条約交渉の中心を担ったのは、ジョン・フォスター・ダレス(John Foster Dulles)国務省顧問でした。
条約締結に至る歴史的背景
ポツダム宣言と占領の開始
1945年8月、日本はポツダム宣言(Potsdam Declaration)を受諾して降伏しました。
ポツダム宣言にはカイロ宣言(Cairo Declaration)とともに、講和の予備的な内容が盛り込まれています。
宣言は、占領の目的が達成され日本に民主的・平和的な政府が成立すれば、ただちに占領軍を撤収すると記していました。
しかし、実際には占領は約7年間という長期にわたることになります。
冷戦の激化と講和の遅延
終戦後、アメリカとソ連の対立が深まる冷戦が本格化しました。
講和準備の方式をめぐって米ソが対立し、アメリカ政府内でも、政治的理由から早期講和を唱える国務省と軍事的理由から占領継続を望む国防省が意見を異にしていました。
1949年にはソ連の核兵器保有が判明し、同年10月には中華人民共和国が成立するなど、国際情勢は急速に変化していきます。
こうした中で「全面講和」の実現はますます困難になり、外務省は次第に東側諸国を除外した「多数講和」を前提とする方式の検討に入りました。
朝鮮戦争と講和の加速
1950年6月に朝鮮戦争が勃発すると、状況は一変します。
アメリカは日本を出撃基地として利用するようになり、日本を西側陣営の一員として育成するために早期講和の方針を固めました。
同年4月、ダレスが国務省顧問に任命され、関係国との交渉にあたることになります。
11月にはアメリカが「対日講和七原則」を発表し、領域問題やアメリカによる安全保障方式、対日請求権の放棄などの骨子が示されました。
ダレスは1950年6月、1951年1月、同年4月、同年12月と複数回にわたって来日し、吉田首相との会談を重ねて条約の枠組みを固めていきます。
1951年6月にはアメリカとイギリスの草案をもとに合同草案が作成され、7月20日に各国への招聘状が発送されました。
国内の大論争──全面講和か単独講和か
サンフランシスコ講和条約の締結をめぐって、日本国内では激しい論争が繰り広げられました。
全面講和論
全面講和論は、ソ連や中華人民共和国を含むすべての交戦国と同時に講和を結ぶべきだとする立場です。
自由主義と共産主義の冷戦構造の中で中立の立場をとろうとするもので、革新勢力や日本社会党の左派を中心に支持されました。
東京大学総長の南原繁(なんばらしげる)は、全面講和の旗手として論壇で大きな存在感を示しています。
知識人グループ「平和問題談話会」も、全面講和と中立の立場を主張しました。
単独講和論(片面講和論)
単独講和論は、西側諸国との間でまず講和を結び、日本の独立を早期に回復すべきだとする立場です。
吉田茂内閣や保守勢力がこの立場を支持しました。
経済学者の小泉信三(こいずみしんぞう)は、現実的な判断として単独講和を支持した知識人の一人として知られています。
占領下の日本が独自の外交権を持てず、アメリカの対日政策と無関係に行動することが事実上不可能であったことを考えれば、全面講和の実現は極めて困難だったという見方もあります。
「曲学阿世の徒」事件
1950年5月3日、吉田首相は全面講和を主張する南原繁東京大学総長を「曲学阿世の徒(きょくがくあせいのと)」と批判しました。
学問を曲げて世間に迎合する者という意味のこの発言は、大きな議論を巻き起こしています。
世論と結末
世論調査では、単独講和支持者が全面講和支持者を大きく上回っていたとされます。
結局、吉田内閣はアメリカの方針に同調し、西側諸国を中心としたいわゆる片面講和として講和条約を成立させました。
サンフランシスコ講和会議の経過
会議の開催
1951年9月4日から8日にかけて、サンフランシスコ市中心部のウォー・メモリアル・オペラ・ハウスにおいて、全52か国の代表が参加して講和会議が開催されました。
ただし、この会議の実態は講和問題を話し合う会議ではなく、調印のための儀式に過ぎなかったとも指摘されています。
会議冒頭ではトルーマン(Harry S. Truman)大統領が演説を行い、「和解」とともにアメリカ国民はパール・ハーバーを記憶していると述べ、両国の友好には努力が必要であることを強調しました。
ソ連の反対と署名拒否
ソ連代表のグロムイコ(Andrei Gromyko)副外相は、中国(北京)代表の参加問題を取り上げました。
ポーランドとチェコスロバキアがこれに同調しましたが、議長を務めるアメリカのアチソン(Dean Acheson)国務長官は議題と関係がないとして却下しています。
グロムイコはさらに、満州・中国全土・台湾に北京政府の主権を認めること、樺太・千島に対するソ連の主権を認めること、小笠原・琉球は日本の主権が及ぶべき範囲であること、日本にはいかなる国の軍事基地も置かないことなどを提案しました。
これらの提案はいずれも受け入れられず、ソ連、ポーランド、チェコスロバキアの3か国は条約への署名を拒否しています。
条約の調印
9月8日、会議の結論としてサンフランシスコ平和条約に各国が署名しました。
署名を拒否した3か国を除く49か国が条約に署名しています。
条約に参加しなかった国々
サンフランシスコ講和条約には、主要な交戦国のいくつかが参加していません。
招聘されなかった国
中国については、中華民国(台湾)と中華人民共和国のどちらを正統な代表として招聘するかで米英の間で意見が対立しました。
アメリカは中華民国を、イギリスとソ連は中華人民共和国を承認していたため、トルーマン大統領は結局そのいずれも招聘しないという判断を下しています。
韓国(大韓民国)も、日本とイギリスの反対によって署名国としての参加が認められませんでした。
朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)との代表権の問題もあり、韓国はオブザーバー資格での参加も認められなかったと伝えられています。
イタリアも会議には招聘されていません。
参加を辞退した国
インドは、アメリカ主導型の講和はアジアの緊張を高めるとして会議への参加を拒否しました。
ビルマ(現ミャンマー)は、賠償問題への不満や講和後の外国軍隊駐兵を予見するような条約の規定に反対し、不参加を表明しています。
ユーゴスラビアも出席しませんでした。
署名後に批准しなかった国
インドネシアは条約に署名しましたが、批准は行っていません。
代わりに1958年1月、日本との間で個別の賠償協定および平和条約を締結しました。
フィリピンは1951年に署名しましたが、賠償協定が成立した1956年になってようやく批准しています。
条約の主な内容
戦争状態の終結と主権の回復
条約の発効により、日本と各連合国との間の戦争状態が終了しました。
連合国は、日本国およびその領水に対する日本国民の完全な主権を承認しています。
領土の放棄
日本は以下の地域に対するすべての権利、権原および請求権を放棄しました。
朝鮮(済州島、巨文島、鬱陵島を含む)の独立を承認し、朝鮮に対するすべての権利を放棄しています。
台湾および澎湖諸島に対するすべての権利を放棄しました。
千島列島ならびに1905年のポーツマス条約の結果として主権を獲得した樺太の一部(南樺太)およびこれに近接する諸島に対するすべての権利を放棄しています。
国際連盟の委任統治制度に関連するすべての権利を放棄し、太平洋諸島に信託統治制度を及ぼす国連安全保障理事会の行動を受諾しました。
南極地域に対するすべての請求権も放棄しています。
ただし、条約は日本が放棄した領土の最終的な帰属先を明示しておらず、これが後の領土問題の火種となりました。
アメリカの施政権
沖縄、奄美諸島、小笠原諸島については、アメリカ合衆国を唯一の施政権者とする信託統治制度のもとに置くことが規定されました。
奄美諸島は1953年に、小笠原諸島は1968年に、沖縄は1972年にそれぞれ日本へ返還されています。
賠償
日本の賠償義務が認められる一方で、完全な賠償のためには日本の資源が十分でないことも承認されました。
このため、賠償は生産賠償・役務賠償によるという原則が定められ、具体的な賠償額は個別交渉に委ねられています。
在連合国の日本国・国民の資産は賠償にあてるために処分することが認められました。
他方、日本は連合国とその国民に対する戦争から生じたすべての請求権を放棄しています。
安全保障
条約は、日本が個別的および集団的自衛権を有することを承認しました。
また、日本が集団安全保障条約に参加できることも認められています。
日米安全保障条約──同日に締結されたもう一つの条約
サンフランシスコ平和条約の調印に続き、同じ9月8日、日本とアメリカの代表はサンフランシスコ市内のプレシディオ(Presidio)にある下士官集会所に移動しました。
そこで「日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約(旧日米安保条約)」が調印されています。
日米安全保障条約には、首席全権代表の吉田茂が単独で署名しました。
吉田は随行した池田勇人蔵相に対して、「この条約はあまり評判がよくない。君の経歴に傷が付くといけないので、私だけが署名する」と述べ、署名の場に同席することさえ許さなかったと伝えられています。
この条約により、日本の独立回復後もアメリカ軍の日本駐留が継続されることになりました。
平和条約と安保条約を合わせた枠組みは「サンフランシスコ体制」と呼ばれ、戦後日本の国際的地位を基本的に規定することになります。
条約に参加しなかった国々との講和
サンフランシスコ平和条約に参加しなかった諸国との国交回復は、個別の条約や協定によって進められました。
中華民国(台湾)
1952年4月28日、サンフランシスコ平和条約の発効と同じ日に、日本と中華民国との間で日華平和条約(Treaty of Taipei)が締結されました。
この条約により、日本政府は中華民国を正統な政府と認定しています。
ただし、日華平和条約は日本が台湾の領土主権を中華民国に移転したとは明示しておらず、サンフランシスコ講和条約における日本の権利放棄を確認するにとどまりました。
インド
1952年6月、日本とインドの間で日印平和条約が締結されました。
インドのネルー(Jawaharlal Nehru)首相は、対等の精神に基づく平和と日本への過度な負担の回避を重視したとされています。
ビルマ(現ミャンマー)
1954年11月、日本ビルマ平和条約が締結されました。
中華人民共和国
中華人民共和国とは長く国交がない状態が続きましたが、1970年代に入り政府が方針を転換します。
1972年9月29日の日中共同声明により日中国交が正常化され、日華平和条約は破棄されました。
さらに1978年には日中平和友好条約が締結されています。
ソビエト連邦
1956年10月19日、日ソ共同宣言が出されて国交が回復しました。
ただし、正式な平和条約は締結されておらず、北方領土問題が未解決のまま残されています。
ソ連崩壊後のロシアとの間でも、平和条約は締結されていません。
大韓民国
1965年、日韓基本条約が締結され、日本と韓国の間に国交関係が樹立しました。
朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)
北朝鮮との間には国交関係が成立しておらず、法的にはこの部分では戦争が終わっていないとも解釈できます。
条約が残した課題と現代への影響
北方領土問題
サンフランシスコ講和条約で日本は千島列島と南樺太を放棄しましたが、日本政府は北方四島(択捉島、国後島、色丹島、歯舞群島)は千島列島に含まれないとの立場をとっています。
ソ連(現ロシア)がこれらの島々を実効支配しているため、日露間の最大の外交懸案として現在も解決に至っていません。
台湾の法的地位
条約は日本の台湾に対する権利放棄を定めたものの、帰属先については沈黙しました。
日本政府は台湾の帰属先を明示していないサンフランシスコ講和条約を重視し、「認定する立場にない」との政府見解を維持しています。
1972年の日中共同声明では、「台湾が中華人民共和国の領土の不可分の一部」と表明した中国の立場を「十分理解し、尊重する」としましたが、必ずしも認めたものではありません。
一部の台湾独立支持者は、サンフランシスコ平和条約が台湾の主権の最終的な帰属を明示していないことを根拠として、台湾が中国の一部ではないと主張しています。
尖閣諸島問題
条約における領土規定の曖昧さは、中国との間の尖閣諸島をめぐる問題にも影響を与えています。
憲法9条と集団的自衛権
条約は日本の個別的自衛権と集団的自衛権の保有を認めました。
しかし、日本国憲法第9条との関係から、政府は長年にわたり「日本は集団的自衛権を有しているが、憲法の制約があるので行使はできない」という解釈を公式見解としてきました。
2014年の閣議決定で限定的な集団的自衛権の行使が容認され、2015年の安全保障関連法の成立につながっています。
中国からの批判
2025年には、在日本中国大使館がサンフランシスコ講和条約を「不法かつ無効な文書」と主張する投稿をSNS上で行いました。
一部の西側諸国が「中ソなど第2次世界大戦の主要戦勝国」を排除して結んだ条約だとする批判です。
記念行事と歴史的評価
2001年(平成13年)9月8日(日本時間では9月9日)、講和会議の会場であったオペラハウスにて「サンフランシスコ平和条約署名50周年記念式典」が開かれました。
日本からは田中真紀子(たなかまきこ)外務大臣が、アメリカからはコリン・パウエル(Colin Powell)国務長官が出席し、日米の同盟関係のさらなる強化の必要性を確認し合っています。
2021年には署名70周年を迎えました。
サンフランシスコ講和条約は、戦後アジア太平洋の法と秩序を形成した原点として、現代においても重要な意義を持ち続けています。
まとめ
サンフランシスコ講和条約は、1951年9月8日に署名され、1952年4月28日に発効した、日本と連合国48か国の間の平和条約です。
この条約により約7年間の占領が終結し、日本は主権を回復して国際社会に復帰しました。
同日に締結された日米安全保障条約とともに「サンフランシスコ体制」を形成し、戦後日本の国際的な立場を規定する基盤となっています。
しかし、ソ連や中国が参加しない「片面講和」であったことから、北方領土問題や台湾の法的地位、北朝鮮との未解決の戦争状態など、多くの課題が残されました。
条約締結から70年以上が経過した現在も、サンフランシスコ講和条約は日本の外交・安全保障政策の原点として、その影響力を保ち続けています。

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