坂本龍馬とは?幕末の革命家が描いた新しい日本の姿を徹底解説

坂本龍馬(さかもと りょうま)は、江戸時代末期(幕末)を生きた土佐藩出身の志士であり、日本の近代化を方向づけた人物として広く知られています。
脱藩という重罪を犯してまで自らの志を追い求め、薩長同盟の実現や大政奉還の実現に深く関わりながら、33歳という若さで暗殺によって生涯を閉じました。
その劇的な生涯と、特定の藩や身分に縛られない自由な発想は、現代においても多くの人を惹きつけています。
この記事では、坂本龍馬の生い立ちから暗殺に至るまでの足跡を、一次史料・学術資料に基づいて丁寧に解説します。


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概要

坂本龍馬は天保6年(1836年)、土佐藩(現在の高知県)の郷士の家に生まれました。
幕末の激動の時代に、薩摩藩と長州藩という対立する二大雄藩を仲介して薩長同盟を成立させ、徳川幕府による政権の返上(大政奉還)を実現へと導いた重要人物です。
また、日本初の会社組織の一形態とされる亀山社中・海援隊を組織するなど、先進的な商業・海軍活動にも従事しました。
新しい国家のあり方を示した「船中八策」は、後の明治政府の施政方針に大きな影響を与えたと評価されています。
慶応3年(1867年)、大政奉還からわずか約1か月後に京都で暗殺され、明治維新を見ることなく生涯を閉じました。


基本プロフィール

項目内容
本名(諱)坂本直柔(さかもと なおなり)※当初は直陰(なおかげ)、後に改名
通称龍馬(りょうま)
生年月日天保6年11月15日(1836年1月3日)
没年月日慶応3年11月15日(1867年12月10日)
享年33歳(数え年)
出身地土佐国土佐郡上街(現・高知県高知市)
身分土佐藩郷士(ごうし)
主な師千葉定吉(剣術)、勝海舟(海軍・政治)
組織亀山社中(1865年)→ 海援隊(1867年)
主な業績薩長同盟の仲介、大政奉還の推進、船中八策の起草
暗殺場所京都・河原町の近江屋

生い立ちと幼少期

坂本龍馬は天保6年(1836年)、土佐藩の郷士(地方の下級武士)の家に生まれました。
父・坂本八平直足(なおたり)は酒造業と質屋を兼業する豪農出身の郷士で、家は比較的裕福でした。
龍馬は兄・権平(ごんぺい)、千鶴・栄・乙女の三人の姉という兄姉の末子として育ちます。

幼少期の龍馬については、後世に多くの逸話が伝わっています。
ただし、それらの多くは明治以降に書かれた回顧録や伝記に基づくものであり、一次史料での裏付けが困難な記述も含まれます。
確かなこととして、龍馬は姉・乙女から剣術の手解きを受け、武道に親しんで育ったとされています。


江戸への剣術修行

嘉永6年(1853年)、17歳になった龍馬は剣術修行のために江戸へ上ります。
師事したのは、北辰一刀流(ほくしんいっとうりゅう)の道場を構える千葉定吉(ちば さだきち)でした。
龍馬は千葉道場で剣術修行に励みます。
この第一次江戸遊学は1年余りで終わりますが、この間に黒船来航(嘉永6年・1853年)という歴史的事件を目撃し、外国の強大な軍事力を肌で感じました。

安政3年(1856年)、龍馬は再び江戸に上り、千葉道場に戻って修行を続けます。
この第二次遊学中の安政5年(1858年)1月、師・千葉定吉から「北辰一刀流長刀兵法目録」を授けられました。
なお、この目録の「長刀」は薙刀(なぎなた)を指しており、薙刀の技術を認定する証書です。
剣術の免許についても史料に言及があるとされますが、現存が確認されている目録は薙刀のものです。
この時期の龍馬は、剣術家としてだけでなく、時代の動向に強い関心を持つ若い志士へと成長しつつありました。


武市半平太との出会いと土佐勤王党

帰国後の龍馬は、土佐の志士・武市半平太(たけち はんぺいた)が組織した土佐勤王党に加わります。
武市半平太(号は瑞山)は、過激な攘夷(外国人排斥)運動を推進する人物でした。
当初の龍馬も攘夷論に共鳴していましたが、その思想は後に大きく変化していきます。

文久2年(1862年)3月、龍馬は土佐藩を無断で離れる「脱藩」を決行します。
脱藩は藩法によって重罪とされており、家族にも累が及ぶ行為でした。
それでも龍馬が脱藩を選んだのは、藩という枠組みを超えた日本全体の変革が必要だという確信からでした。


勝海舟との出会いと転換点

脱藩後の龍馬にとって最大の転換点となったのが、幕府の海軍官僚・勝海舟(かつ かいしゅう)との出会いです。
文久2年(1862年)末から文久3年(1863年)にかけて、龍馬は勝海舟に面会しました。
当初は暗殺目的で訪ねたとも伝わっていますが、この記述は後世の伝記によるものであり、一次史料での確認は困難です。

確実なこととして、龍馬はこの出会い以降、勝海舟の弟子として海軍・航海術・開国論を学びます。
勝のもとで龍馬は国際情勢の現実を深く理解し、攘夷論から開国・貿易立国論へと思想を大きく転換させました。
勝は自著『氷川清話』の中でも龍馬について肯定的な記述を残しており、二人の師弟関係は史料によって裏付けられています。


亀山社中と海援隊の創設

慶応元年(1865年)、龍馬は長崎の亀山(現・長崎市亀山町)に亀山社中(かめやましゃちゅう)を結成します。
薩摩藩の援助を受けて設立されたこの組織は、藩という枠を超えた脱藩浪士たちで構成されており、貿易・航海・武器調達を行いました。
その性格から、日本における会社組織の先駆的な形態の一つとして評価されています。

亀山社中は薩摩藩と長州藩の間の物資・武器の流通において重要な役割を果たしました。
当時、長州藩は禁門の変(元治元年・1864年)によって幕府と対立し、武器・物資の調達に苦しんでいました。
龍馬は亀山社中を通じて薩摩藩名義での武器調達を仲介し、これが後の薩長同盟への伏線となります。

慶応3年(1867年)4月、亀山社中は「海援隊」(かいえんたい)として再編されました。
海援隊は「海の援助をおこなう組織」を意味する名称で、龍馬が陸援隊(中岡慎太郎が率いる)と並んで構成した活動体でした。


薩長同盟の実現

幕末の政局において、薩摩藩と長州藩は互いに激しく対立する関係にありました。
薩摩藩は幕府側として禁門の変で長州藩と戦い、長州藩は幕府から「朝敵」の汚名を着せられていたのです。
この対立する両藩を和解させ、倒幕に向けて連携させることが、龍馬の最大の政治的仕事でした。

慶応2年(1866年)1月(旧暦)、まず京都二本松の薩摩藩邸で初期の会談が行われました。
その後、同月(旧暦1月21日)に小松帯刀邸(近衛家別邸御花畑屋敷、京都市上京区)において、桂小五郎(長州)と西郷隆盛・小松帯刀ら(薩摩)が会見し、6か条の盟約が正式に締結されて薩長同盟が成立します。
龍馬と中岡慎太郎が両藩の間を仲介した事実は、龍馬が同盟成立直後に姉・乙女宛に送った手紙(坂本龍馬書簡集)に記されており、一次史料によって確認できます。
この手紙の中で龍馬は「薩長の和解を成し遂げた」という趣旨の記述を残しています。

薩長同盟の成立は、倒幕勢力の形成において決定的な意味を持ちました。
二大雄藩の連携なしには、明治維新はその形で実現しなかったとも評価されています。


船中八策と大政奉還

慶応3年(1867年)、龍馬は長崎から京都へ向かう船中で、新しい国家のあり方を示す構想をまとめました。
これが「船中八策」(せんちゅうはっさく)と呼ばれる8か条の政策提言です。

船中八策の内容は、後藤象二郎(土佐藩参政)に提案され、土佐藩による「大政奉還建白書」のもとになったとされています。
その主要な提言は以下のようなものでした。

  1. 天皇への政権返上(大政奉還)
  2. 上下議政局(二院制議会)の設置
  3. 有能な人材の身分によらない登用
  4. 外国との対等な条約の締結
  5. 律令(法律)の整備
  6. 海軍力の拡充
  7. 天皇を守る親兵の設置
  8. 日本と外国の金銀比価の是正

この構想の核心は、徳川家を存続させながら政権を朝廷に返上し、議会制に基づく新政府を樹立するという、武力衝突を避けた穏健な変革路線でした。

慶応3年(1867年)10月14日(旧暦)、15代将軍・徳川慶喜は大政奉還を決断し、政権を朝廷に返上します。
大政奉還の実現については、龍馬の働きかけのほか、土佐藩参政・後藤象二郎の役割も大きかったとされており、複数の関係者が協力した結果でした。


近江屋事件 — 龍馬の最期

慶応3年(1867年)11月15日(旧暦)、坂本龍馬は京都・河原町の醤油商・近江屋(おうみや)の2階で、刺客に襲われ命を落とします。
同席していた中岡慎太郎(なかおか しんたろう)も深手を負い、2日後に死亡しました。

龍馬の没日は旧暦で11月15日であり、奇しくも誕生日(11月15日)と同じ日でした。
これはよく知られた歴史的な事実ですが、あくまで旧暦上の一致であり、グレゴリオ暦に換算すれば誕生日(1836年1月3日)と没日(1867年12月10日)は異なる日になります。

犯人については長年にわたって議論が続いてきました。
幕府の警察組織である見廻組(みまわりぐみ)の佐々木只三郎(ささき たださぶろう)が主犯とする説が有力視されており、幕末維新の研究者の間でも広く支持されています。
一方で新選組(しんせんぐみ)犯人説も長らく唱えられてきましたが、現在の学術的見解では見廻組説が優勢です。
ただし、確定的な一次史料が存在するわけではなく、研究者の間でも完全な決着はついていません。

龍馬は大政奉還のわずか約1か月後という、まさに新しい時代が始まろうとする瞬間に命を落としました。
明治維新の達成を目前にした死は、多くの人々に惜しまれ、伝説的な存在へと昇華する一因ともなりました。


坂本龍馬の人物像と思想

坂本龍馬の思想的特徴の一つは、藩・身分・イデオロギーへの固執を超えた、実務的・現実的な発想にあります。
攘夷論者として活動した一方で、勝海舟との出会いをきっかけに海軍・貿易の重要性を学び、開国論へと転換しました。
この柔軟な思想転換は、当時の志士たちの中でも際立つものでした。

龍馬が残した多数の手紙(坂本龍馬書簡集として後に編纂)は、彼の人柄や思想を直接知ることができる一次資料として重要です。
これらの書簡には、家族への温かい言葉、政局への鋭い観察、新しい日本への強い希望が綴られており、後世の研究者に広く参照されています。

また、龍馬は武士身分にありながら商業・貿易を積極的に活動の柱に据えた点でも特異な存在でした。
亀山社中・海援隊の活動は、武力によらない経済的手段で国家を変革しようとする姿勢の表れでもあります。


後世への影響と現代での評価

坂本龍馬は明治維新後、長らく一般的な知名度はそれほど高くありませんでした。
その名が広く知れ渡るようになったのは、明治以降に書かれた伝記や、昭和以降の小説・ドラマの影響によるところが大きいとされています。
特に司馬遼太郎の小説『竜馬がゆく』(1962年〜1966年)は、現代における龍馬像の形成に決定的な影響を与えました。

ただし、小説や大衆文化の中で描かれる龍馬像は創作的要素を多く含んでおり、史実上の龍馬と同一視することには注意が必要です。
研究者の間では「司馬龍馬」と呼ばれる大衆的イメージと、史料に基づく歴史的人物としての龍馬を区別する議論が行われています。

現代においても龍馬は日本で最も人気のある歴史的人物の一人であり、NHK大河ドラマの主人公となるなど、その影響力は色褪せていません。
高知県では「龍馬まつり」が開催され、高知龍馬空港(高知空港の愛称)にもその名が冠されるなど、郷土を代表する人物として敬慕されています。


年表

年(西暦)出来事
1836年(天保6年)土佐藩に誕生
1853年(嘉永6年)江戸・千葉道場に入門。黒船来航を目撃
1856年(安政3年)再度江戸へ上り、千葉道場で修行
1861年(文久元年)武市半平太の土佐勤王党に加入
1862年(文久2年)土佐藩を脱藩。勝海舟に師事
1865年(慶応元年)長崎に亀山社中を設立
1866年(慶応2年)薩長同盟の成立を仲介
1867年4月(慶応3年)亀山社中を海援隊として再編
1867年11月9日(大政奉還は旧暦10月14日)大政奉還の実現に関与
1867年12月10日(慶応3年11月15日)京都・近江屋にて暗殺される

参考情報

この記事で参照した情報源

一次資料

  • 坂本龍馬書簡集(龍馬自筆の手紙。国立国会図書館デジタルコレクション等で一部参照可能)
    — 薩長同盟仲介に関する記述などを含む
  • 勝海舟『氷川清話』(明治23年・1890年)
    — 龍馬との師弟関係についての記述を含む
  • 『維新土佐勤王史』(田中光顕、1912年)
    — 土佐勤王党および龍馬に関する回顧録的一次資料

学術資料・研究書

参考になる外部サイト

注記

  • 幕末の出来事の日付は旧暦(天保暦・天保・嘉永・文久・慶応)表記と、グレゴリオ暦(西暦)表記の両方が存在します。この記事では旧暦と西暦換算を併記しています。
  • 近江屋事件の犯人については、見廻組説・新選組説など諸説あり、確定的な史料は存在していません。記事内では現在の学術的見解において有力とされる見廻組説を中心に解説しました。
  • 「船中八策」の正式な名称・内容については史料によって異なる記述もあり、研究者の間で議論が続いています。

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