斎藤道三とは?「美濃のマムシ」と呼ばれた下剋上の代名詞をわかりやすく解説

神話・歴史・文化

油売りの商人から戦国大名へ——。
こんなとんでもない出世劇を聞いたことはありませんか?

戦国時代、美濃国(現在の岐阜県南部)を丸ごと乗っ取った男がいます。
その名は斎藤道三(さいとうどうさん)

主君を追放し、恩人を殺し、ついには一国の主にまで成り上がった人物です。
しかも最近の研究では、この「国盗り」は道三ひとりの仕業ではなく、父と子の二代がかりだったという説が有力になっています。

この記事では、戦国時代きっての野心家・斎藤道三の生涯を、最新の研究成果も交えながらわかりやすく紹介します。


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斎藤道三の基本情報

斎藤道三は、戦国時代に美濃国を支配した戦国大名です。
本名は斎藤利政(さいとうとしまさ)で、「道三」は晩年に出家してからの法名にあたります。

生年には明応3年(1494年)説と永正元年(1504年)説があり、はっきりしていません。
没年は弘治2年(1556年)4月20日で、息子の斎藤義龍との戦い(長良川の戦い)で討ち死にしました。

織田信長に娘の帰蝶(濃姫)を嫁がせた人物としても知られており、信長の義父にあたります。

項目内容
名前斎藤道三(斎藤利政)
生年明応3年(1494年)頃(諸説あり)
没年弘治2年(1556年)4月20日
出生地山城国乙訓郡西岡(現・京都府)とされる
居城稲葉山城(現・岐阜城)
家紋二頭波(道三が自ら考案したとされる)
主な子女斎藤義龍(嫡男)、帰蝶(濃姫)、斎藤利治ほか
菩提寺常在寺(岐阜市)

謎に包まれた前半生——「国盗り」は親子二代だった?

斎藤道三といえば、「僧侶→油売り→武士→戦国大名」という驚きの転身を遂げた人物として有名ですよね。

ところが近年、この劇的な前半生のストーリーに大きな修正が入りました。
1973年に刊行された『岐阜県史 史料編』に収録された古文書「六角承禎条書」の発見がきっかけです。

「六角承禎条書」が明かした真実

この文書は永禄3年(1560年)、近江(滋賀県)の大名・六角義賢(承禎)が、息子と斎藤義龍の娘との縁談を阻止するために家臣に宛てたものです。
その中に、斎藤家の来歴がこう記されていました。

  • 義龍の祖父(新左衛門尉)は、京都の僧侶だった
  • 新左衛門尉が美濃に来て、土岐家に仕え、長井姓を名乗るまで出世した
  • 義龍の(道三)の代になると、惣領を討ち殺して斎藤姓を名乗った

つまり、従来「道三ひとり」で成し遂げたとされていた国盗りは、父・長井新左衛門尉と道三の親子二代にわたる出世劇だったというわけです。
この「親子二代説」は現在の学界ではほぼ定着した見解となっています。

父・長井新左衛門尉の歩み

では、道三の父はどんな人物だったのでしょうか。

もとは京都の妙覚寺で僧侶をしていた人物で、還俗(出家をやめること)したのち油商人となりました。
その後、美濃に渡り、守護代・斎藤氏の家老である長井長弘に仕えて武士に転身。
武功を重ねて信頼を得て、ついには「長井新左衛門尉」の名を名乗るまで出世しました。

つまり、「僧侶→油商人→武士」というドラマチックな転身は、道三本人ではなく父の物語だった可能性が高いのです。

油売りの逸話は父のもの?

有名な「漏斗を使わず、一文銭の穴に油を通してみせる」というパフォーマンスの逸話も、親子二代説に基づけば父の話ということになります。
この芸で評判を呼び、商売を大成功させたと伝えられていますが、それを道三本人の体験として語っていた江戸時代の史書が、父と子の話を混同していたと考えられています。


道三の「国盗り」——美濃を手中に収めるまで

父が亡くなったのは天文2年(1533年)頃とみられています。
道三はその地盤を引き継ぎ、長井新九郎規秀(ながいしんくろうのりひで)として活動を始めました。

上司を倒し、主君を追い出す

道三は父から引き継いだ長井家中での実権を武器に、次々と権力を拡大していきます。

まず、天文2年(1533年)頃に長井氏の惣領・長井藤左衛門尉景弘を倒しました。
さらに天文7年(1538年)に守護代・斎藤利良が病死すると、その名跡を継いで「斎藤」の名を名乗るようになります。

そして天文10年(1541年)頃から、それまで仕えていた主君・土岐頼芸の一族を次々と排除。
最終的に天文11年(1542年)には頼芸本人を尾張に追放し、名実ともに美濃の国主となりました。

織田信秀との攻防

ところが、追い出された頼芸は黙っていません。
隣国・尾張の織田信秀(信長の父)や越前の朝倉氏に助けを求め、反撃を試みました。

天文13年(1544年)の加納口の戦いでは、朝倉宗滴・織田信秀の連合軍が美濃に侵攻。
しかし道三は劣勢ながらも見事にこれを撃退し、敵に大打撃を与えています。

その後、天文17年(1548年)に織田信秀と和睦。
同盟の証として、娘の帰蝶(濃姫)を信秀の嫡男・織田信長に嫁がせたのです。

この政略結婚が、のちの歴史を大きく動かすことになります。


信長との運命の出会い——聖徳寺の会見

帰蝶を信長に嫁がせたものの、当時の信長は「尾張の大うつけ(大バカ者)」と噂されていました。
道三は自分の目で確かめようと、天文22年(1553年)頃、美濃と尾張の国境にある聖徳寺(正徳寺)での会見を申し入れます。

道三を驚かせた信長の”演出力”

この会見の様子は『信長公記』に詳しく記されています。

道三は先に寺に到着し、町外れの民家に潜んで信長の行列を盗み見ていました。
すると、やって来た信長の姿はまさに噂通りのうつけぶり。
茶筅髷(ちゃせんまげ)に普段着のような格好で、腰にはひょうたんをぶら下げています。

ところが、信長が引き連れていた軍勢を見て道三は驚きます。
槍500本に弓・鉄砲500挺
しかも槍の長さが美濃勢よりもはるかに長かったのです。

さらに驚くべきことが起きました。
寺に到着した信長は、屏風の陰でサッと正装に着替えて道三の前に現れたのです。
さっきまでの「うつけ」はどこへやら、堂々たる武将の姿がそこにありました。

「わが息子どもは、あのうつけの門前に馬を繋ぐだろう」

会見後、家臣の猪子兵介が「やはり信長殿はたわけでございましたな」と言うと、道三はこう返したと伝わっています。

「無念だ。わが息子どもは、あのたわけの門前に馬を繋ぐ(家来になる)ことになるだろう」

つまり、「信長はただ者ではない。いずれ自分の子どもたちは信長にひれ伏すことになる」と見抜いたわけです。
それ以降、道三の前で信長を馬鹿にする者はいなくなったといいます。

この逸話がどこまで事実かは議論がありますが、道三が信長の才能を高く評価していたことは間違いなさそうです。


息子との決裂——長良川の戦い

道三の晩年は、皮肉にも自分の息子との争いで幕を閉じます。

親子対立の背景

天文23年(1554年)、道三は嫡男の斎藤義龍(よしたつ)に家督を譲って隠居しました。
しかし、道三は義龍を「耄者(おいぼれ)」と見下し、次男の孫四郎や三男の喜平次を溺愛していたのです。

特に三男の喜平次には名門「一色氏」の姓を名乗らせるなど、明らかに義龍よりも優遇していました。
このままでは自分が廃嫡されると危機感を抱いた義龍は、弘治元年(1555年)に弟たちを殺害し、ついに父に対して挙兵します。

なお、義龍の母・深芳野はもともと主君・土岐頼芸の側室で、道三に下げ渡された女性でした。
そのため「義龍の実父は頼芸ではないか」という噂もあったとされますが、近世の創作の可能性が指摘されています。

圧倒的な兵力差

弘治2年(1556年)4月20日、両軍は長良川で激突しました。

兵力差は歴然でした。

勢力兵力
斎藤義龍軍約17,500
斎藤道三軍約2,700

美濃の国衆の大半が義龍側についたのです。
主君を追い出して成り上がった道三に対する不信感は根深く、旧土岐家の家臣たちは道三ではなく義龍を支持しました。

道三、討ち死に

戦いは道三の奮闘もむなしく、圧倒的な兵力差の前に決着がつきました。
道三は長井忠左衛門に組みつかれたところを小牧源太に首を取られて戦死。

娘婿の織田信長も援軍を送りましたが、間に合いませんでした。
道三は戦死する直前、信長に対して「美濃一国を譲る」という遺言状を送ったとされています(ただし偽文書の可能性も指摘されています)。

この遺言は、のちに信長が美濃を攻略する際の大義名分になったとも言われています。


道三のもうひとつの顔——先進的な領国経営

「下剋上の梟雄」というイメージが強い道三ですが、領国経営においては先進的な施策も行っていました。

楽市楽座の先駆者

道三は稲葉山城の城下町を整備するにあたり、楽市楽座を実施したとされています。
これは市場の既得権益を排除し、誰でも自由に商売ができるようにする制度です。

楽市楽座といえば織田信長が有名ですが、実は道三の方が先に始めていたという説があるんですね。
油商人としての経験が、こうした商業政策に活かされたのかもしれません。

稲葉山城の改築

天文8年(1539年)には居城・稲葉山城の大改築を行っています。
城下町を堀と土塁で囲む「惣構え」を整備し、商人や職人が安心して暮らせる環境を作りました。

この稲葉山城は、のちに信長が美濃を平定した際に「岐阜城」と改名されることになります。


「美濃のマムシ」——実は近代の創作だった?

斎藤道三といえば「美濃のマムシ」という異名がセットで語られますよね。
マムシは毒蛇であり、親の腹を食い破って生まれてくるという俗信から、不義・裏切りの象徴とされていました。

ところが意外なことに、この異名は戦国時代にはなかったようなのです。

研究によると、道三を「マムシ」と呼んだ最初の例は、昭和27年(1952年)に坂口安吾が発表した小説『信長』だとされています。
それ以前の小説や文献には、道三をマムシと呼んだ記録は確認されていません。

その後、司馬遼太郎の『国盗り物語』などを通じて広く定着し、今では道三の代名詞のようになっています。
大河ドラマなどで当時の登場人物が道三を「マムシ」と呼ぶシーンがありますが、あれは歴史的には正確ではないということですね。


道三の死後——斎藤家のその後

道三の死後、美濃を支配した義龍は内政に力を注ぎ、室町幕府13代将軍・足利義輝から一色氏の姓を許されるなど、着実に地盤を固めました。

しかし義龍は永禄4年(1561年)にわずか35歳で急死。
跡を継いだ孫の斎藤龍興はまだ14歳と若く、家臣団をまとめきれませんでした。

そして永禄10年(1567年)、織田信長が稲葉山城を攻略。
道三が築き上げた斎藤家は、わずか三代で滅亡することになります。

かつて道三が「わが息子はあのうつけの門前に馬を繋ぐ」と予言した通りの結末でした。


斎藤道三の年表

出来事
1494年頃誕生(諸説あり。1504年説も有力)
1533年頃父・長井新左衛門尉の死去により家督を継ぐ
1534年頃長井氏の惣領・長井景弘を倒す
1538年守護代・斎藤利良の病死後、斎藤姓を名乗る
1539年稲葉山城を大改築
1542年主君・土岐頼芸を追放し、美濃国主となる
1544年加納口の戦いで織田信秀・朝倉宗滴の連合軍を撃退
1548年織田信秀と和睦。娘・帰蝶を織田信長に嫁がせる
1553年頃聖徳寺で織田信長と会見
1554年家督を嫡男・斎藤義龍に譲り隠居。出家して「道三」と号する
1555年義龍が弟の孫四郎・喜平次を殺害。親子対立が決定的に
1556年長良川の戦いで義龍に敗れ、討ち死に


まとめ

斎藤道三の生涯をまとめると、以下のようになります。

  • 「僧侶→油商人→武士→戦国大名」という驚きの転身は、実は父と子の二代にわたる出世劇だった
  • 道三は父の築いた地盤を引き継ぎ、主君・土岐頼芸を追放して美濃国主にのし上がった
  • 娘・帰蝶を織田信長に嫁がせ、聖徳寺の会見で信長の才覚を見抜いた
  • 楽市楽座や城下町整備など、先進的な領国経営も行っていた
  • 息子・義龍との対立の末、長良川の戦いで討ち死にした
  • 「美濃のマムシ」の異名は実は戦後の小説が由来で、当時の呼び名ではなかった

下剋上の代名詞として語り継がれる道三ですが、近年の研究で見えてきた姿は「謀略一辺倒の悪党」とは少し違います。
戦上手であり、商人としての知恵を政治に活かし、信長の将来を見抜く眼力も持っていた。
ただ、あまりにも多くの敵を作りすぎたことが最期の敗因だったのかもしれません。

歴史の解釈は時代とともに変わっていくもの。
「美濃のマムシ」のイメージも、今後さらに塗り替えられていくかもしれませんね。

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