「平民が皇帝になるなんて、ありえない」
古代中国では、そんな常識がありました。
ところが、その常識を打ち破った男がいます。
劉邦です。
農家の息子として生まれ、下級役人を経て、ついには中国史上最も長く続いた王朝・漢を建国した人物。
しかも、彼自身は武勇に優れていたわけでも、天才軍師だったわけでもありません。
では、なぜ劉邦は天下を取れたのでしょうか?
この記事では、農民出身の男が400年続く大帝国の初代皇帝となるまでの波乱万丈の人生を、わかりやすく解説します。
劉邦とは?

劉邦は、紀元前256年または紀元前247年に生まれ、紀元前195年に亡くなった前漢の初代皇帝です。
廟号は高祖、字は季といいます。
中国史上、平民出身で皇帝となったのは劉邦と明の太祖・朱元璋のわずか二人だけ。
それほど稀有な存在なのです。
農民の息子として生まれた劉邦は、秦の圧政に対する反乱軍の一人として挙兵。
項羽という強力なライバルとの激しい戦いに勝利し、紀元前202年に漢王朝を建国しました。
彼の統治は秦の失敗から多くを学び、税を軽減し、厳罰主義を改め、人々に安らぎをもたらしました。
漢王朝はその後400年以上続き、中国史上最も長い王朝の一つとなります。
今でも中国人の大多数は「漢民族」と呼ばれ、漢字の「漢」もこの王朝に由来しています。
劉邦は、中国文化そのものの基礎を築いた人物なのです。
劉邦の出自と青年時代
農民の家に生まれた「ダメ息子」
劉邦は江蘇省沛県の豊邑という場所で、農民の家に生まれました。
父は劉太公、母は劉媼と呼ばれていますが、正式な名前すら記録されていない庶民です。
伝説によると、劉邦の母が沢のそばでうたた寝をしていたとき、夢の中で神に出会い、父がその上に竜が乗っている姿を見たといいます。
その後、劉邦が生まれたとされています。
もちろん、これは劉邦が皇帝になった後に作られた「神話」でしょう。
でも、こうした伝説が必要だったということは、劉邦の出自が本当に平凡だったことの証拠でもあります。
若い頃の劉邦は、はっきり言ってダメ息子でした。
農作業は嫌い、勉強も嫌い、遊び歩いてばかり。
父親からは「お前の兄は立派に働いているのに、お前は何もしない」と叱られる始末。
近所からも「あいつは何の志もない役立たず」と思われていました。
小役人時代
農業に見切りをつけた劉邦は、秦王朝の下級役人「亭長」になります。
宿駅の管理や囚人の護送が主な仕事でした。
この時期、劉邦には二つの特徴がありました。
一つは、人を惹きつける魅力です。
粗野で無学でしたが、度量が広く、義理人情に厚い性格が人気を呼びました。
もう一つは、大きな野心でした。
ある日、始皇帝の行列を目にした劉邦は、こう呟いたといいます。
「男と生まれたからには、ああなりたいものだ」
平民が皇帝を目指すなど、普通ならとんでもない発言です。
でも、劉邦は本気でした。
運命を変えた「囚人解放」
紀元前209年、劉邦の人生を変える事件が起きます。
囚人を護送する任務についていた劉邦ですが、途中で多くの囚人が逃げ出してしまいました。
秦の法律では、これは死刑に値する罪です。
劉邦は考えました。
「このまま行っても自分が処刑される。だったら…」
彼は残りの囚人を全員解放し、自らも逃亡者となって山に隠れました。
解放された囚人の一部は劉邦についていくことを選び、これが劉邦の最初の「軍隊」になります。
ちょうどそのタイミングで、陳勝・呉広の乱が勃発。
全国で秦への反乱が起こり始めたのです。
反秦軍のリーダーへ
沛公として挙兵
紀元前209年9月、劉邦は故郷の沛県で挙兵しました。
地元の有力者たちに推されて「沛公」を名乗り、約3000人の兵を率いることになります。
この時、劉邦のもとに集まったのが、後の漢王朝を支える重臣たちでした。
蕭何は内政の天才。兵糧の補給や人材管理を完璧にこなしました。
曹参は優秀な軍人。数々の戦いで活躍します。
張良は天才軍師。劉邦に数々の策略を授けました。
劉邦自身は軍事の天才ではありませんでした。
でも、こうした有能な人材を見抜き、その才能を最大限に引き出す能力は抜群だったのです。
項羽との出会い
反秦軍のもう一人のスター、それが項羽です。
項羽は秦に滅ぼされた楚の名門出身。
圧倒的な武勇を誇り、戦場では無敵と恐れられていました。
劉邦と項羽は当初、同盟関係にありました。
二人とも楚の懐王のもとで秦を倒すために戦っていたのです。
懐王は「最初に関中(秦の首都がある地域)に入った者を関中王にする」と約束しました。
この約束が、後の劉邦と項羽の決定的な対立を生むことになります。
咸陽入城と「法三章」
項羽を出し抜いて咸陽へ
紀元前207年、劉邦は項羽より先に秦の首都・咸陽に到達しました。
項羽は強大な秦の主力軍と激戦を繰り広げていました。
その間に、劉邦は南回りのルートから咸陽へと進軍したのです。
秦の最後の王・子嬰は抵抗せず、劉邦に降伏しました。
ここで劉邦は賢明な判断を下します。
咸陽の財宝を見て目を奪われかけた劉邦でしたが、軍師の張良が諫めました。
「忠言は耳に逆らえども行いに利あり、良薬は口に苦けれど病に利あり」
劉邦はこれを聞き入れ、宮殿には一切手をつけませんでした。
そして民衆に対して、たった三つの法律だけを告げます。
法三章です。
- 人を殺した者は死刑
- 人を傷つけた者は処罰
- 盗みをした者は処罰
秦の厳しすぎる法律に苦しんでいた人々は、これを大歓迎しました。
劉邦の人気は一気に高まります。
鴻門の会——項羽の怒り
一方、遅れて到着した項羽は激怒しました。
「約束を破って先に咸陽に入るとは!しかも関中王の座を狙っているのか!」
項羽の軍は40万、劉邦の軍は10万。
このまま戦えば、劉邦に勝ち目はありません。
劉邦は項羽の陣営を訪れ、酒宴を開いて謝罪することにしました。
これが有名な鴻門の会です。
宴の最中、項羽の軍師・范増は「この機に劉邦を殺すべきだ」と主張しました。
項羽の部下・項荘が剣舞を披露するふりをして劉邦に近づきます。
しかし、劉邦の部下・樊噲が体を張って守り、張良の機転もあって劉邦は命からがら逃げ出すことに成功しました。
劉邦は生き延びましたが、この事件で項羽との関係は決裂します。
「左遷」される劉邦
項羽は秦を滅ぼした後、自ら「西楚の覇王」を名乗りました。
そして、諸将に領地を分配します。
劉邦には、約束の関中ではなく、辺境の地・漢中が与えられました。
巴蜀と漢中——今の四川省と陝西省南部の山間部です。
これは明らかな冷遇でした。
関中の豊かな土地は、元秦の将軍たちに分け与えられたのです。
劉邦は不満でしたが、軍師の蕭何が諫めました。
「今、項羽と戦えば100戦100敗です。
漢中で力を蓄え、賢人を招き、国力を増やしましょう。
そうすれば天下を取ることもできます」
劉邦はこれを受け入れ、漢中へと向かいます。
この時、項羽が「劉邦を左に遷す」と言ったことから、「左遷」という言葉が生まれたという説があります。
韓信との出会い
漢中で、劉邦は運命の人物と出会います。
韓信です。
韓信は元々項羽の軍にいましたが、冷遇されて劉邦軍に逃げてきました。
最初は目立たない存在でしたが、蕭何がその才能を見抜きます。
「韓信は国士無双の人材です!」
蕭何の推薦で、劉邦は韓信を大将軍に抜擢しました。
劉邦は自分で「私は兵を率いるのは下手だが、将を率いるのは得意だ」と語っています。
まさに、その通りの采配でした。
楚漢戦争——項羽との最終決戦
反撃開始
紀元前206年、劉邦は項羽に対して反旗を翻しました。
名目は「項羽が楚の義帝を殺害した」というものです。
大義名分を得た劉邦は、各地の諸侯を味方につけていきます。
項羽は軍事の天才でした。
劉邦は何度も項羽に敗れ、危機的状況に陥ります。
有名な「彭城の戦い」では、劉邦率いる56万の大軍が、項羽の3万の精鋭にあっさりと敗北。
劉邦は命からがら逃げ出しました。
背水の陣
しかし、韓信の活躍で戦況は変わっていきます。
韓信が趙と戦った時、自軍3万に対して敵は20万。
圧倒的不利な状況でした。
韓信は「背水の陣」という戦術を使います。
川を背にして陣を敷き、退路を断ったのです。
兵士たちは「退けない、戦うしかない」と決死の覚悟で戦い、見事に勝利しました。
四面楚歌
戦いは膠着状態に陥りましたが、張良と陳平が「項羽も疲弊している」と見抜きます。
劉邦は項羽を完全に包囲する作戦に出ました。
紀元前202年、垓下の戦い。
項羽の軍は10万、劉邦の連合軍は30万。
完全に包囲された項羽の陣営に、ある夜、不気味な歌声が響きます。
「楚の歌」です。
劉邦の兵士たちが、項羽の故郷・楚の歌を歌い始めたのです。
これは「楚の人々も劉邦に味方している」という心理戦でした。
項羽は絶望しました。
「漢軍は楚を完全に支配したのか…」
これが有名な「四面楚歌」の語源です。
項羽はわずか800騎で包囲網を突破しようとしましたが、最後には烏江のほとりで自ら命を絶ちました。
漢王朝の建国
皇帝即位
紀元前202年2月、劉邦は皇帝に即位しました。
漢王朝の始まりです。
都は最初、洛陽に置かれましたが、すぐに長安(現在の西安)に移されました。
長安は防衛に優れ、食糧供給も安定していたからです。
劉邦は妻の呂雉を皇后とし、息子の劉盈を皇太子としました。
郡国制——秦の失敗に学ぶ
劉邦は秦の失敗から多くを学びました。
秦は中央集権を急ぎすぎて、地方の反発を招きました。
そこで劉邦は郡国制を採用します。
都の周辺は直轄地として郡県制で統治し、遠方の地域には諸侯を置いて統治を任せる。
中央集権と封建制のハイブリッドです。
また、重税と厳罰主義で人々を苦しめた秦とは逆に、劉邦は税を軽減し、法律を簡素化しました。
田畑の税は15分の1に引き下げられ、奴隷として売られた人々も解放されました。
人々は戦乱から解放され、ようやく平和な生活を取り戻したのです。
功臣の粛清
しかし、劉邦には冷酷な一面もありました。
天下統一後、劉邦は異姓の諸侯王(劉氏以外の王)を次々と粛清していきます。
韓信、彭越、英布といった功臣たちが、謀反の疑いで殺されました。
唯一生き残ったのは、長沙王の呉芮だけです。
劉邦の方針は明確でした。
「諸侯王は劉氏一族に限る」
こうして劉邦は、後世の皇帝たちが安定して統治できる基盤を作ったのです。
劉邦の特徴と人物像
粗野だが魅力的
劉邦は決して洗練された人物ではありませんでした。
史書には「劉邦は傲慢で人を侮辱し、諸侯や臣下を奴隷のように罵った」と記されています。
上下の礼節もなく、儒学者の帽子に小便をかけたというエピソードまであります。
でも、そんな粗野さこそが劉邦の魅力でもありました。
農民出身の庶民派として、人々に親しまれたのです。
人材登用の天才
劉邦自身、自分の勝因をこう分析しています。
「韓信、蕭何、張良——この三人はいずれも人傑だ。
私はこの三人をうまく使うことができた。
だから天下を取れたのだ」
劉邦の最大の才能は、人を見抜き、適材適所に配置する能力でした。
蕭何には内政を任せ、張良には戦略を任せ、韓信には軍事を任せる。
それぞれの才能を最大限に引き出したのです。
柔軟な政治家
劉邦は当初、儒学を軽蔑していました。
「俺は馬上で天下を取った。馬上で統治すればいい」
しかし、陸賈という儒学者がこう諫めます。
「馬上で天下を取っても、馬上で統治することはできません。
古典や歴史を学び、礼儀と制度を整えなければ、始皇帝の二の舞になります」
劉邦はこれを聞き入れ、儒学を尊重する政策に転換しました。
叔孫通という儒学者は、劉邦のために漢王朝の礼儀作法を整備しました。
それまで酒宴で騒いでいた大臣たちも、厳かな儀式のもとで整然と振る舞うようになります。
劉邦はこれを見て、こう言いました。
「俺は今日初めて、皇帝の尊さがわかったぞ」
劉邦の晩年と死
匈奴との戦い
晩年、劉邦は北方の遊牧民族・匈奴と戦います。
紀元前200年、劉邦は自ら大軍を率いて匈奴を討伐に向かいました。
しかし、平城で匈奴の冒頓単于に包囲され、7日間にわたって孤立してしまいます。
劉邦はようやく脱出しましたが、匈奴の強さを思い知らされました。
以後、漢は匈奴に対して和親政策をとります。
漢の皇女を匈奴の単于に嫁がせ、贈り物を送って平和を維持する政策です。
これは屈辱的でしたが、国力を回復するための現実的な選択でした。
愛妾・戚夫人と呂后の確執
劉邦の晩年、宮廷では深刻な対立が起きていました。
劉邦は美しい愛妾・戚夫人を寵愛し、彼女の息子・如意を皇太子にしようと考えました。
これは、正妻の呂后と皇太子・劉盈にとって許せない裏切りでした。
張良ら重臣たちの反対で、劉邦の計画は実現しませんでした。
しかし、この確執は劉邦の死後、悲劇を生むことになります。
最後の戦いと死
紀元前196年、強力な諸侯王・英布が反乱を起こしました。
劉邦は自ら出陣しましたが、戦場で流れ矢に当たって重傷を負います。
戦いには勝利しましたが、劉邦の体は衰弱していきました。
皇后の呂雉が名医を呼びましたが、劉邦は治療を拒否します。
「私が天下を取れたのは天の意志だ。
私の命もまた、天が決めること。
医者に何ができるというのか」
紀元前195年6月1日、劉邦は長楽宮で崩御しました。
享年62歳(または53歳)。
息子の劉盈が即位し、恵帝となります。
呂后の復讐
劉邦の死後、呂后の恐ろしい復讐が始まりました。
呂后は愛妾の戚夫人を残酷に殺害します。
手足を切り落とし、目を潰し、耳を聞こえなくして便所に放り込み、「人豚」と呼ばせたのです。
さらに、戚夫人の息子・如意も毒殺しました。
優しい性格の恵帝はこれにショックを受け、政治から手を引いて享楽にふけるようになり、わずか7年で若死にしてしまいます。
呂后は実権を握り、呂氏一族を重用しました。
しかし、呂后の死後、功臣の周勃や陳平が呂氏を一掃し、劉氏の支配が復活します。
まとめ
劉邦は、中国史上最も成功した「庶民出身の皇帝」でした。
彼の成功の秘訣は:
- 人材を見抜く目:蕭何、張良、韓信といった有能な部下を適材適所に配置
- 柔軟性:秦の失敗に学び、現実的な政策を採用
- 大胆さと慎重さ:時には項羽に頭を下げ、時には決断して戦った
- 庶民的な魅力:農民出身という出自を隠さず、親しみやすさで人心を掴んだ
劉邦が築いた漢王朝は400年以上続き、中国文化の基盤となりました。
農民の息子が皇帝になる——。
その不可能を可能にした劉邦の物語は、今でも多くの人に勇気を与えています。
「生まれは関係ない。大切なのは、いかに生きるかだ」
劉邦の人生は、まさにそれを証明しているのです。


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