「あまりにも美しすぎて、戦場で仮面をかぶっていた武将がいた」
そんな話を聞いたら、あなたはどう思いますか?
中国の南北朝時代、実際にそう語り継がれた武将がいました。その名は高長恭(こう ちょうきょう)、別名「蘭陵王(らんりょうおう)」。
わずか500騎で10万の敵軍に突撃し、孤立した城を救い出した伝説の英雄です。しかし、その輝かしい武勲が災いし、33歳という若さで悲劇的な最期を遂げることになりました。
この記事では、美貌と武勇を兼ね備えた悲運の武将「蘭陵王」について、その伝説的な生涯と仮面にまつわる伝承を分かりやすくご紹介します。
概要

蘭陵王・高長恭は、6世紀の中国・北斉(ほくせい)という王朝に仕えた皇族であり武将です。
541年に生まれ、573年に亡くなるまで、数々の戦場で武功を挙げました。「長恭」は字(あざな:呼び名のようなもの)であり、本名は「粛(しゅく)」または「孝瓘(こうかん)」とも伝わっています。
北斉は、4つの南朝と5つの北朝が興亡を繰り返した「南北朝時代」に、高一族が興した国でした。高長恭はこの王朝の皇族として生まれ、若くして将軍として活躍するようになります。
特筆すべきは、彼が「音容兼美」と史書に記されていること。これは「声も容姿も美しい」という意味で、当時から類まれな美貌の持ち主として知られていたのです。
偉業・功績
高長恭の武将としての功績は、まさに目を見張るものがあります。
金墉城救出戦(564年)
高長恭の最も有名な戦いが、邙山(ぼうざん)の戦いです。
564年、敵国である北周が約10万もの大軍で洛陽近くの金墉城を包囲しました。城は完全に孤立し、絶体絶命の状況に陥ります。
このとき高長恭がとった行動は、常識では考えられないものでした。
高長恭の驚くべき作戦
- わずか500騎で10万の敵軍に突入
- 敵の包囲網を突破して金墉城に到達
- 兜を脱いで味方に自分だと示す
- 城兵と合流して敵を撃退
この勝利により、北周軍は30里(約15km)にわたって敗走。残した武器や物資は山川を埋め尽くしたと記録されています。
「蘭陵王入陣曲」の誕生
この壮絶な戦いぶりに感動した兵士たちは、高長恭を讃えて「蘭陵王入陣曲」という歌をつくりました。
この曲は後に唐の時代に日本へ伝わり、雅楽「蘭陵王」として現在も演奏されています。日本の伝統芸能として1000年以上受け継がれているのは、驚くべきことですね。
その他の戦功
高長恭の活躍は金墉城救出だけではありません。
- 突厥(とっけつ)撃退:北方の遊牧民族・突厥が晋陽に侵入した際、力戦してこれを撃退
- 定陽城攻略:巧みな伏兵戦術で敵城を陥落させる
- 各地での転戦:并州・青州・瀛州など各地の刺史(長官)を歴任し、武功を重ねる
こうした功績により、高長恭は太尉(軍事の最高責任者の一つ)や大司馬などの高い地位に就きました。
系譜
高長恭は北斉の皇族として、名門中の名門に生まれました。
家系図
高長恭の血筋
- 祖父:高歓(こうかん)— 北斉建国の礎を築いた人物
- 父:高澄(こうちょう)— 文襄帝と追尊される
- 母:不明(姓名が記録に残っていない)
- 叔父:高洋 — 北斉の初代皇帝・文宣帝
兄弟
- 兄:高孝瑜、高孝珩(広寧王)
- 弟:高孝琬、高延宗(安德王)、高紹信
- 姉妹:楽安長公主など
興味深いのは、母親の名前が歴史に残っていないことです。中国史では、母親の身分が低い場合に名前が記録されないことが多く、高長恭の母もそうした境遇だったと考えられています。
妻と子孫
高長恭の妻は鄭氏という女性でした。高長恭が毒を賜って死ぬ際、涙ながらに皇帝への申し開きを勧めたのも彼女です。
また、1996年に龍門石窟で発見された造像銘には、高長恭の孫である高元簡が681年に母・趙氏の供養のために仏像を納めたという記録が残されています。つまり、高長恭の血筋は少なくとも唐の時代まで続いていたのです。
姿・見た目
高長恭の容姿については、複数の史書が記録を残しています。
史書に記された美貌
『北斉書』には「音容兼美」と明記されており、これは「声も容姿も美しい」という意味です。
唐代の『教坊記』にはさらに詳しく、「貌若婦人」(容貌は婦人のようであった)と記されています。つまり、女性のように美しい顔立ちをしていたということですね。
仮面との関係
高長恭の美貌は、戦場での仮面伝説と深く結びついています。
当時の武将たちは、戦闘時に兜とともに鉄の仮面をつけて顔を守っていました。高長恭も例外ではありませんでしたが、彼の場合は別の理由も語られるようになります。
『教坊記』によれば、高長恭は「自身の婦人のような容貌が敵を威圧するのに足りないことを嫌い、木面をつけて戦陣に臨んだ」とされています。
つまり、美しすぎる顔では敵に舐められてしまうと考え、恐ろしい仮面をかぶっていたというわけです。
特徴

高長恭は武勇だけでなく、人格面でも優れた人物でした。
謙虚で思いやりのある性格
史書には、高長恭の人柄を示す数々のエピソードが残されています。
高長恭の人柄を示すエピソード
- 果物の分配:果物を贈られると、たとえわずかでも必ず部下たちと分け合った
- 美女の辞退:皇帝から20人の美女を下賜されたが、1人だけ選んで残りは辞退した
- 部下への配慮:過去に免官になった部下が怯えていると、小さな罰を与えて安心させた
- 債券の焼却:死の直前、他者への貸し付けの証文をすべて焼き払った
将軍という高い地位にありながら、細かな事務も自ら処理し、従者がいなくても一人で帰宅するなど、気取らない人物だったようです。
多彩な才能
高長恭は武芸だけでなく、工芸にも優れた才能を持っていました。
意外な一面
- 投壺(とうこ):矢を壺に投げ入れる遊びの道具を持っていた
- からくり人形の製作:自作の傀儡(からくり人形)は、高長恭の意志で杯を掲げて挨拶することができた
この傀儡の仕組みは、誰にもわからなかったと伝えられています。
教養ある人材の登用
北斉の多くの王族は、商人の子や遊び人を家臣に選ぶ傾向がありました。しかし高長恭は、兄の高孝珩とともに文芸に優れ見識のある人物を選んで登用し、当時から賞賛されていたそうです。
伝承
高長恭にまつわる最も有名な伝承は、「仮面の武将」としての逸話です。
金墉城での仮面伝説
564年の金墉城救出戦で、高長恭が城に到達したときのことです。
敵の包囲が厳しく、城の守備兵たちには駆けつけた部隊が味方かどうかわかりませんでした。というのも、高長恭は兜と仮面をつけていたからです。
守備兵たちが開門をためらっていると、高長恭は兜を脱いで素顔をさらしました。すると守備兵たちは味方だとわかり、城門を開いて弩(いしゆみ)で援護射撃を始めたのです。
伝説の変化
この史実が、時代を経るにつれて形を変えていきます。
伝説の発展過程
- 史実:戦闘時は兜と仮面をつけていた → 素顔を見せて味方と認識された
- 唐代の伝説:美貌が敵を威圧するのに足りないと考え、仮面をかぶった
- 後世の伝説:美貌に部下が見とれて士気が下がるため、常に仮面をかぶって戦った
こうして「美しすぎるから仮面をかぶった武将」という、ロマンあふれる伝説が生まれたのです。
雅楽「蘭陵王」への継承
高長恭の武勲を讃えて作られた「蘭陵王入陣曲」は、唐代に宮廷でも演じられるようになりました。
この曲は奈良時代頃に日本へ伝わり、雅楽「蘭陵王」(または「陵王」)として現在も演奏・舞踊されています。美声と美貌の武将が仮面をつけて戦う姿を再現した舞は、1000年以上の時を超えて受け継がれているのです。
出典・起源
高長恭に関する記録は、複数の歴史書に残されています。
主要な史料
一次史料
- 『北斉書』:唐代に編纂された北斉の正史。高長恭の列伝が収録されている
- 『北史』:唐代に編纂された北朝全体の通史
- 『資治通鑑』:宋代の司馬光が編纂した編年体の歴史書
補足史料
- 『教坊記』:唐代の宮廷音楽について記した書物。仮面伝説の詳細が記される
- 『蘭陵忠武王碑』:1894年に発掘された高長恭の墓碑。貴重な一次史料
墓碑の発見
1894年、現在の河北省邯鄲市磁県で高長恭の墓碑が発掘されました。
この碑には高長恭の生涯が刻まれているほか、裏面には弟の高延宗が兄を偲んで詠んだ五言詩が残されています。
「夜台(墓)は長く静まり、黄泉は再び明るくならず。ただ魚山の樹だけが、鬱々として西に傾く…」
兄を失った弟の悲しみが、1400年以上を経た今も伝わってくるようですね。
後世の創作作品
高長恭の物語は、多くの創作作品にも影響を与えています。
日本での作品
- 三島由紀夫『蘭陵王』:雅楽を題材にした小説
- 田中芳樹『蘭陵王』:高長恭本人を描いた歴史小説
- 宝塚歌劇団『蘭陵王-美しすぎる武将-』(2018年)
中国・台湾での作品
- テレビドラマ『蘭陵王』(2013年):ウィリアム・フォン主演
- テレビドラマ『蘭陵王妃』(2016年)
ゲーム作品
- 『Fate/Grand Order』:「蘭陵王」としてセイバークラスで登場
- 『王者栄耀』:中国の人気モバイルゲームに登場
まとめ
蘭陵王・高長恭は、美貌と武勇を兼ね備えながらも、悲劇的な最期を遂げた武将でした。
高長恭の最期
邙山の戦勝後、高長恭は皇帝の高緯(後主)から「敵陣深く入りすぎて、負けたらどうするつもりだったのか」と問われます。
高長恭は「家の一大事だったので恐れませんでした」と答えました。
この「家事」という言葉が問題でした。皇帝を差し置いて国家を「家のこと」と呼んだことで、高緯は自分の地位を脅かす存在だと疑うようになったのです。
高長恭はその後、わざと評判を落とそうとしたり、病気の治療を拒否したりして目立たないように努めました。しかし573年、ついに皇帝から毒薬を賜ります。
妻の鄭氏が「皇帝に申し開きを」と涙ながらに訴えると、高長恭は「今更、どんな訴えが聞き入れられよう」と答え、従容として死を受け入れたのでした。享年33歳。
北斉の滅亡
高長恭の死からわずか4年後の577年、北斉は北周に滅ぼされます。
『北斉書』は「たとえ斛律光が死んでも、蘭陵王に全権を与えていれば結果はわからなかった」と評しています。優れた武将を自ら殺してしまった北斉の悲劇を象徴する言葉ですね。
重要なポイント
- 北斉の皇族で、「音容兼美」と称された美貌の武将
- 500騎で10万の敵軍を突破し、金墉城を救出した英雄
- 勝利を讃えた「蘭陵王入陣曲」は、日本の雅楽として現在も継承
- 美貌ゆえに仮面をかぶって戦ったという伝説が生まれた
- 謙虚で思いやりのある人格者でもあった
- 皇帝に疑われ、33歳で毒を賜って死去
- その死後、北斉は急速に衰退し滅亡
美しさと強さを兼ね備えながらも、その才能ゆえに命を落とした蘭陵王。彼の物語は1400年以上の時を超え、雅楽や創作作品を通じて今も私たちの心に響き続けています。


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