古代エジプトの歴史の中で、誰よりも長く王座に君臨し、誰よりも多くの記念碑を残したファラオがいます。
その名はラムセス2世。
66年という驚異的な在位期間、数え切れないほどの妻と子供たち、そして自らの名を後世に刻み込もうとした強烈な自己アピール──彼は古代エジプト史上最も壮大で、最も人間臭いファラオだったのかもしれません。
この記事では、「偉大なるラムセス」と呼ばれたファラオの生涯と、その驚くべき功績についてご紹介します。
概要

ラムセス2世は、古代エジプト新王国時代・第19王朝の第3代ファラオです。
紀元前1279年頃から紀元前1213年頃まで、約66年間という古代エジプト史上最長クラスの治世を誇りました。即位したのは22歳の時で、88歳から92歳まで生きたとされています。
古代エジプトの平均寿命が35~40歳だった時代に、これは驚異的な長寿なんですね。
ラムセス2世は「ラメセス2世」「ラメス2世」とも表記され、ギリシャ語では「オジマンディアス」として知られています。この名前は、彼の即位名「ウセルマアトラー・セテプエンラー」(ラーの正義は力強い。彼はラーに選ばれし者)をギリシャ語化したものなんです。
後世のファラオたちからは「偉大なる祖先」と呼ばれ、彼の治世は古代エジプトの黄金期の一つとされています。
偉業・功績
ラムセス2世の功績は、大きく分けて軍事面と建築面の2つがあります。
軍事的功績
カデシュの戦い
ラムセス2世の治世第5年(紀元前1274年頃)、彼は当時の大国ヒッタイト帝国と「カデシュの戦い」で激突しました。
この戦いで、ラムセス2世は約2万の軍を率いてシリアのカデシュに進軍します。しかし、ヒッタイト軍の計略にはまり、エジプト軍は部隊を分断されて窮地に立たされてしまうんです。
壁画によると、ラムセス2世は敵陣に果敢に突入して敵を撃退したとされています。ルクソール神殿の壁画には、彼の勇敢な戦いぶりが次のように描かれているんですね。
「陛下はモント神のごとく憤怒し、独り立ちになり、ヒッタイト軍の真っ只中に攻め入る。陛下は偉大なる力で彼らを打ち殺す……」
ただし、歴史的に見ると、この戦いは引き分けか、実質的にはヒッタイト側の勝利だったとも言われています。エジプト側の損害の方が多く、領土も取り戻せなかったからです。
平和条約の締結
カデシュの戦いから17年後の治世第21年(紀元前1259年頃)、ラムセス2世はヒッタイト王ハットゥシリ3世と平和条約を結びました。
これは世界史上初の平和条約として知られています。
条約の内容は:
- 戦争状態の終結
- 政治亡命者の引き渡し
- 相互軍事援助
- 国境の現状維持
さらに、ラムセス2世はヒッタイト王女マートネフェルラーを王妃として迎え、両国の友好関係を深めたんです。
建築事業
好戦的な姿勢を改めたラムセス2世は、後半生を建築事業に捧げました。
主な建造物
アブ・シンベル神殿
ヌビア地域に建てられた巨大神殿で、正面には高さ約20メートルのラムセス2世の巨像が4体並んでいます。現在は世界遺産に登録されているんですね。
ラムセウム
テーベ西岸に建てられた葬祭殿で、ファラオの葬祭殿としては最大級の規模を誇ります。
カルナック神殿
既存の神殿を拡張し、大列柱室と外壁を増築しました。
ペル・ラムセス
ナイルデルタ地域に建てた新首都で、「ラムセスの都市」という意味です。人口30万人以上の大都市だったとされています。
興味深いのは、ラムセス2世が他のファラオの建造物にも自分の名前を刻んだことなんです。これは、自分の名を後世に残したいという強い欲求の表れだったんでしょう。
系譜
ラムセス2世の家系を見ていきましょう。
父母
- 父:セティ1世(第19王朝第2代ファラオ)
- 母:トゥヤ(王太后として大きな権力を持った)
ラムセス2世は王子として生まれ、約14歳で摂政に任命されました。父セティ1世の死後、22歳で即位したんです。
妻たち
ラムセス2世は生涯に8人の正妃と多数の側室を娶りました。
主な正妃
- ネフェルタリ:最初の正妃で最も有名。アブ・シンベル小神殿は彼女のために建てられました
- イシスネフェルト1世:治世30年頃に死去し、死後に正妃の称号を得た
- ビントアナト:ラムセス2世自身の娘で、後に正妃となった
- メリトアメン:ネフェルタリの娘で、母の死後に正妃となった
- マートネフェルラー:ヒッタイト王女で、平和条約の一環として嫁いだ
子供たち
ラムセス2世は約100人の子供をもうけたとされています。
主な息子
- アメンヘルケブシェフ:第一王子で最初の王太子
- ラムセス:第二王子で二代目王太子
- カエムワセト:第四王子。メンフィスのプタハ神大司祭として活躍し、「世界最古のエジプト考古学者」と呼ばれる
- メルエンプタハ:第十三王子。最終的に後継者となり、第19王朝第4代ファラオとなった
ラムセス2世の長い治世は、後継者問題を引き起こしました。3人の王太子が父より先に亡くなり、最終的に王位を継いだメルエンプタハは40代で王太子に指名され、60歳を超えてから即位したんです。
姿・見た目
ラムセス2世のミイラが現存しているため、彼の実際の姿がかなり分かっているんです。
身体的特徴
- 身長:約173cm(古代エジプト人の平均身長160~165cmより高い)
- 体格:大柄で、伝承通りの立派な体格だった
- 髪の色:赤色(ミイラの毛根分析により判明)
- 顔立ち:鷲鼻と強い顎が特徴的
ミイラを調査したフランスの学者ガストン・マスペロは、次のように記述しています。
「頭髪はかなり濃く、滑らかでまっすぐな約5センチの房を形成している。死の時点では白かったが、生前はおそらく赤褐色だった。ミイラ化の過程で使用された香料(ヘンナ)によって薄い赤に染まっている……」
興味深いのは、古代エジプトでは赤毛の人々がセト神(オシリスの殺害者)と結びつけられていたことです。ラムセス2世の父セティ1世の名前も「セトの信奉者」を意味するんですね。
晩年の姿
ラムセス2世は晩年、関節炎を患い、背中を丸めて歩いていたとされています。また、重度の歯の問題や動脈硬化、心臓病にも悩まされていました。
特徴
ラムセス2世の性格と統治スタイルには、いくつかの際立った特徴があります。
自己アピールの強さ
ラムセス2世は、自分の名を後世に残すことに並々ならぬ情熱を注ぎました。
具体的な行動
- 自分の建造物だけでなく、他のファラオの建造物にも自分の名前を刻む
- カデシュの戦いを「大勝利」として全国に宣伝(実際は引き分けか敗北)
- ヒッタイト王女を「貢物」として描く(実際は対等な婚姻)
これらは現代から見ると虚栄的に見えますが、古代エジプトの神聖王権を考えると、自らを至高無敵の神聖王として演出することは、統治に大きな利益をもたらす必要な行為だったんです。
セド祭の記録
ラムセス2世は、前例のない13回または14回の「セド祭」(王位更新祭)を行いました。
セド祭は通常、治世30年目に初めて行われ、その後3年ごとに開催される祭りです。しかし、ラムセス2世は時に2年ごとに開催し、これまでのどのファラオよりも多く祭りを挙げたんですね。
多産と長寿
- 子供の数:約100人(ただし、養子も含まれる可能性あり)
- 在位期間:66年(古代エジプト史上最長クラス)
- 寿命:88~92歳(平均寿命35~40歳の時代に)
ヒッタイト王ハットゥシリ3世は、ある時点でラムセス2世に「もはや息子をもうけることができない」という手紙を送っており、晩年は生殖能力が衰えていた可能性が指摘されています。
伝承
ラムセス2世にまつわる伝承はいくつかありますが、最も有名なのは「出エジプト記のファラオ」説でしょう。
出エジプト記との関連
一部のキリスト教の歴史家は、ラムセス2世を旧約聖書『出エジプト記』に登場する、モーセと対峙したファラオと同一視しています。
関連する記述
- 『出エジプト記』1章11節に「ピトムとラムセス」という街の名前が登場
- これらの街はイスラエルの民が建設させられた場所とされる
- 映画『十戒』(1956年)などでラムセス2世がこの役で描かれている
ただし、現代の学者の多くは、出エジプト記を実際の歴史的出来事とは認めていません。また、次代のファラオ・メルエンプタハがその候補とされる可能性の方が高いとも言われています。
詩「オジマンディアス」
19世紀のイギリスの詩人パーシー・ビッシュ・シェリーは、ラムセス2世をモチーフに「オジマンディアス」という有名な詩を書きました。
この詩は、かつて栄華を誇った王の像が砂漠で朽ち果てている様子を描き、権力の儚さを表現しています。
ミイラの「パスポート」伝説
1970年代、ラムセス2世のミイラにカビが発生したため、フランスで処置を受けることになりました。
このとき、「ミイラにパスポートが発行され、職業欄に『ファラオ(国王)』と記入された」という話が広まっています。また、パリのシャルル・ド・ゴール空港では、儀仗兵が捧げ銃を行う国王への礼で迎えられたという記録があるんです。
ただし、一般に流布されている「ファラオのパスポート」の画像は、後に再現されたもので実物ではないことが分かっています。
出典・起源
ラムセス2世に関する情報は、主に以下の資料から得られています。
古代の記録
碑文と壁画
- カルナック神殿:カデシュの戦いを描いた壁画
- ルクソール神殿:戦闘シーンと彼の功績
- アブ・シンベル神殿:様々な軍事遠征の記録
- ラムセウム:彼の治世の出来事を記録
条約文書
- エジプト・ヒッタイト平和条約:エジプト語版とヒッタイト語版の両方が現存
古典文献
ギリシャ・ローマ時代の記録
- ディオドロス・シチリアのエジプト史:ラムセス2世を「オジマンディアス」として記述
- ヨセフスの著作:マネトの記録を引用し、66年2ヶ月の治世を記録
現代の発見
考古学的発見
- 1881年:王家の谷でミイラ発見
- 1904年:ネフェルタリの墓発見
- 1995年:KV5(王子たちの合葬墓)の再発見
科学的調査
- 1975年:フランスでミイラの詳細調査
- 1976年:毛髪分析により赤毛であったことが判明
- 2004年以降:関節炎などの病気の研究
まとめ
ラムセス2世は、古代エジプト史上最も長く君臨し、最も多くの記念碑を残したファラオです。
重要なポイント
- 第19王朝の第3代ファラオで、約66年間統治(紀元前1279~1213年頃)
- カデシュの戦いで有名だが、最終的にヒッタイトと世界初の平和条約を締結
- アブ・シンベル神殿をはじめ、エジプト各地に巨大建造物を建設
- 8人の正妃と約100人の子供をもうけた
- 自己アピールが強く、自分の名を後世に残すことに情熱を注いだ
- 88~92歳まで生き、古代エジプトでは驚異的な長寿だった
- ミイラが現存し、赤毛で大柄な体格だったことが判明している
ラムセス2世の治世は、古代エジプトの黄金期の一つとされています。彼の残した建造物の多くは今も残り、その壮大さで私たちを魅了し続けているんですね。人間臭い欠点も持ちながら、偉大な功績を残した「偉大なるラムセス」──それが、このファラオの真の姿なのかもしれません。


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