シャルル・ペローとは?童話の父と呼ばれる理由をわかりやすく解説

神話・歴史・文化

「シンデレラ」「赤ずきん」「眠れる森の美女」——。
これらの物語を知らない人はいないでしょう。

でも、「誰が書いたの?」と聞かれると、意外と答えられない人が多いのではないでしょうか。

実はこれらの名作童話を世に送り出したのは、17世紀フランスの詩人シャルル・ペローです。
彼がいなければ、今日私たちが知っている童話の形は存在しなかったかもしれません。

この記事では、「童話の父」とも呼ばれるシャルル・ペローの生涯と功績をわかりやすく紹介します。


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シャルル・ペローの概要

シャルル・ペロー(Charles Perrault)は、1628年1月12日にパリで生まれたフランスの詩人・作家です。

弁護士の資格を持ちながら、太陽王ルイ14世に仕える宮廷官僚として活躍しました。
その一方で文学活動にも力を入れ、フランスを代表する学術機関「アカデミー・フランセーズ」の会員にも選ばれています。

しかし、ペローの名を不朽のものにしたのは官僚としての業績ではありません。
69歳のときに出版した『ペロー童話集』——これが彼の最大の遺産となりました。

グリム童話が登場する約100年も前に、民間伝承を文学として記録したペロー。
彼こそが「文学的な童話」というジャンルの礎を築いた人物なのです。


官僚から童話作家へ——ペローの生涯

裕福な家庭に生まれて

ペローはパリのブルジョワ(中流市民)階級の家庭に、7人兄弟の末っ子として生まれました。
父ピエールは法律家で、兄のクロードは後に医師・建築家として名を成すなど、教養ある一家でした。

1651年、オルレアン大学で法学の学位を取得して弁護士となります。
ところが、弁護士として法廷に立ったのはたったの2回だけ。
どうやら法廷での仕事は性に合わなかったようです。

ルイ14世に仕える

転機は、財務大臣ジャン=バティスト・コルベールに認められたことでした。

ペローは宮廷官僚としてルイ14世に仕え、文化芸術行政に携わるようになります。
1663年には「碑文芸術アカデミー」の書記長に就任し、公共建築の監督も担当しました。

彼が関わった仕事のひとつに、あの有名なヴェルサイユ宮殿の庭園設計があります。
1669年、ペローはルイ14世に「庭園の迷路にイソップ寓話をモチーフにした39の噴水を設置する」というアイデアを提案。
この計画は1672年から1677年にかけて実現されました。

また、1667年には「チュイルリー庭園を一般市民に開放すべきだ」と主張し、これも実現しています。
一部の貴族が独占していた王室庭園を、誰もが散歩できる場所に変えたのです。

44歳で結婚、そして妻との死別

1671年、43歳でアカデミー・フランセーズの会員に選出されたペローは、翌1672年、44歳で19歳のマリー・ギションと結婚します。
二人の間には息子が生まれましたが、幸せな結婚生活は長くは続きませんでした。

1678年、マリーはわずか6年で他界。
ペローは50歳で最愛の妻を失いました。

69歳、童話作家として開花

1695年、67歳(一説には62歳)で書記官の職を失ったペローは、残りの人生を子どもたちの教育に捧げることを決意します。

そして1697年、69歳のときに『教訓を伴う昔話、またはコント集〜がちょうおばさんの話』を出版。
これが世に言う『ペロー童話集』です。

人生の晩年に書いた作品が、後世300年以上にわたって読み継がれることになるとは——。
本人も想像していなかったかもしれません。

1703年5月16日、シャルル・ペローは生まれ故郷のパリで75年の生涯を閉じました。


新旧論争——ペローのもうひとつの顔

ペローは童話作家として有名ですが、実は当時のフランス文壇では「論争の火付け役」として知られていました。

古代vs近代、どちらが優れている?

1687年、ペローはアカデミー・フランセーズの席上で『ルイ大王の世紀』という詩を朗読します。

その内容は衝撃的でした。
「ホメロスやウェルギリウスといった古代の作家よりも、現代の作家のほうが優れている」と主張したのです。

当時のヨーロッパでは、古代ギリシャ・ローマの文学こそが最高であり、模範とすべきだという考えが主流でした。
ペローはこの「常識」に真っ向から挑んだわけです。

文壇を二分する大論争に

この発言に激しく反発したのが、古典主義を代表する詩人ニコラ・ボアローでした。

ペロー率いる「近代派」と、ボアローを中心とする「古代派」は激しく対立。
ラ・フォンテーヌやラ・ブリュイエールなど、当時の有名作家たちを巻き込んだ大論争に発展しました。

この「新旧論争」(または「古代人近代人論争」)は7年間続き、1694年にアルノーの仲介でようやく和解。
ペローはこの間、『古代人近代人比較論』全4巻(1688〜1697年)を著し、自説を展開しています。

童話と論争の意外なつながり

面白いことに、ペロー童話集の出版時期は新旧論争と重なっています。

「近代のほうが優れている」と主張していたペローが、なぜ「昔話」を題材にしたのか?
研究者の間では「古い物語を現代的に洗練させることで、近代派の主張を実践で示そうとした」という説もあります。

古いものを否定するのではなく、より良い形に進化させる——。
これがペローの考える「近代の優位性」だったのかもしれません。


ペロー童話集の中身

息子の名前で出版した理由

『ペロー童話集』は、実はペロー本人の名前では出版されていません。
初版には末息子ピエール・ダルマンクールの名前が記されていました。

なぜ自分の名前を隠したのでしょうか?

有力な説は「古代派からの批判を恐れたから」というものです。
アカデミー・フランセーズの会員であり、新旧論争の中心人物だったペローが、「子ども向けの昔話」を発表するのは恥ずかしいことだと考えたのかもしれません。

あるいは、息子の文学的なデビューを後押しする「親心」だったという説もあります。

収録作品

ペロー童話集には、大きく分けて2つのグループがあります。

散文童話集(1697年)の8編

  • 眠れる森の美女(La Belle au bois dormant)
  • 赤ずきん(Le Petit Chaperon rouge)
  • 青ひげ(La Barbe bleue)
  • 長靴をはいた猫(Le Maître chat ou le Chat botté)
  • 妖精たち(Les Fées)
  • シンデレラ(Cendrillon ou la petite pantoufle de verre)
  • まき毛のリケ(Riquet à la houppe)
  • 親指小僧(Le Petit Poucet)

韻文童話集(1694年)の3編

  • グリゼリディス(Griselidis)
  • 愚かな願い事(Les Souhaits ridicules)
  • ロバの皮(Peau d’Âne)

合計11編が「ペロー童話」として知られています。

ペロー童話の特徴

ペローは民間伝承をそのまま書き写したわけではありません。
いくつかの工夫を加えています。

教訓を添えた
各物語の最後に韻文で「教訓」が書かれています。
たとえば『赤ずきん』では「優しく声をかけてくる者ほど危険だ」という警告が添えられています。

宮廷風に洗練させた
当時のサロン文化に合わせて、上品で洗練された表現に仕上げています。
子どもだけでなく、大人の読者も楽しめる作品になっています。

残酷な描写を控えめに
民間伝承にあった過激な描写は、一部が削除されたり変更されたりしています。
ただし、『赤ずきん』ではおばあさんも赤ずきんも狼に食べられて終わるなど、救いのない結末も残されています。


グリム童話との関係

「シンデレラや赤ずきんはグリム童話じゃないの?」と思った人もいるかもしれません。

実は、グリム兄弟が『子どもと家庭のための童話集』を出版したのは1812年。
ペロー童話集から115年も後のことです。

グリム兄弟もペローを参考にした

グリム兄弟は、ペローの先駆的な仕事を高く評価していました。
彼らの童話集には、ペロー童話と同じ物語がいくつか収録されています。

  • 赤ずきん
  • 眠れる森の美女
  • シンデレラ

ではなぜ同じ話が両方に入っているのでしょうか?

グリム兄弟に昔話を語ってくれた人々の中に、フランスから移住してきたユグノー(プロテスタント)の子孫がいました。
彼女たちはペローの童話を聞いて育っており、それを「ドイツの民話」としてグリム兄弟に伝えてしまったのです。

結末の違いに注目

同じ物語でも、ペロー版とグリム版では結末が異なることがあります。

たとえば『赤ずきん』。
ペロー版では、赤ずきんは狼に食べられて終わりです。救いはありません。
一方、グリム版では猟師が狼のお腹を切り開いて、おばあさんと赤ずきんを助け出します。

ペローは「教訓」を重視し、グリムは「希望のある結末」を重視した——。
この違いには、それぞれの時代や読者層の違いが反映されているのかもしれません。


現代への影響——ディズニーからバレエまで

ペローの童話は、300年以上経った今も世界中で愛されています。

ディズニー映画

ウォルト・ディズニーは、ペロー版を原作としていくつかの名作を生み出しました。

  • シンデレラ(1950年)
    ガラスの靴、カボチャの馬車、魔法使いのおばあさん——これらはすべてペロー版の要素です。
  • 眠れる森の美女(1959年)
    映画の美しい映像と音楽は、多くの人の心に残っています。

ディズニーがペロー版を選んだ理由のひとつは、グリム版より残酷な描写が少なかったからだと言われています。
ファミリー向け映画を作るには、ペローのほうが相性が良かったのでしょう。

バレエ音楽

ロシアの作曲家チャイコフスキーは、1890年にバレエ『眠れる森の美女』を発表しました。
この作品はペロー版を原作としており、今でも世界中で上演されています。

ディズニー映画『眠れる森の美女』の音楽には、チャイコフスキーのメロディーが使われています。
ペロー→チャイコフスキー→ディズニーという流れで、物語が受け継がれてきたわけです。

日本での影響

日本でも、東映動画(現・東映アニメーション)が『長靴をはいた猫』(1969年)をアニメ映画化しました。
この作品から「長靴猫シリーズ」が生まれ、日本の子どもたちにもペローの物語が親しまれるようになりました。


シャルル・ペロー作品一覧

作品名原題発表年形式備考
グリゼリディスGriselidis1691年韻文忍耐強い妻の物語
愚かな願い事Les Souhaits ridicules1693年韻文3つの願いを無駄にする話
ロバの皮Peau d’Âne1694年韻文父の求婚から逃げる王女の話
眠れる森の美女La Belle au bois dormant1697年散文糸車の呪いで眠る姫
赤ずきんLe Petit Chaperon rouge1697年散文狼に騙される少女の話
青ひげLa Barbe bleue1697年散文禁じられた部屋を開ける妻
長靴をはいた猫Le Maître chat ou le Chat botté1697年散文知恵者の猫が主人を出世させる
妖精たちLes Fées1697年散文親切な娘と意地悪な娘の対比
シンデレラCendrillon1697年散文ガラスの靴の物語
まき毛のリケRiquet à la houppe1697年散文醜い王子と美しい姫の恋
親指小僧Le Petit Poucet1697年散文人食い鬼から逃げる末っ子

まとめ

シャルル・ペローについて、重要なポイントを振り返りましょう。

  • 1628年パリ生まれ、1703年没(75歳)
  • 弁護士の資格を持ちながら宮廷官僚として活躍
  • 1671年、アカデミー・フランセーズ会員に選出
  • 1687年、「新旧論争」の火付け役となる
  • 1697年、69歳で『ペロー童話集』を出版
  • グリム童話より約100年早く、民間伝承を文学として記録
  • ディズニー映画やチャイコフスキーのバレエなど、現代文化に多大な影響を与えた

官僚として成功し、文壇で論争を巻き起こし、晩年に童話作家として名を残す——。
シャルル・ペローの人生は、まさに波乱万丈でした。

彼がいなければ、私たちが今日知っている「シンデレラ」や「眠れる森の美女」は存在しなかったかもしれません。
次にこれらの物語に触れるとき、17世紀フランスのこの詩人のことを少し思い出してみてください。

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