織田信長の家来・家臣一覧|天下統一を支えた武将たちを徹底紹介

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「戦国時代で最も有名な武将は?」と聞かれたら、多くの人が織田信長の名前を挙げるのではないでしょうか。

でも実は、信長がこれほどまでに天下統一に近づけたのは、彼を支えた優秀な家臣たちがいたからなんです。
柴田勝家、羽柴秀吉、明智光秀……。
名前を聞いたことがある人も多いですよね。

この記事では、織田信長に仕えた家臣たちを一覧で紹介します。
「織田四天王」と呼ばれた重臣から、小姓として側に仕えた若者まで、天下人を支えた武将たちの姿を見ていきましょう。


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織田家臣団とは?信長が作り上げた最強軍団

織田信長の家臣団には、ある特徴がありました。
それは「能力主義」です。

当時の武家社会では、家柄や血筋が重視されていました。
しかし信長は違いました。
出自が不明でも、農民出身でも、能力さえあれば抜擢したのです。

羽柴秀吉がその代表例ですね。
農民の出身とされる秀吉は、信長のもとで頭角を現し、ついには天下人にまで上り詰めました。

一方で、信長は成果を出せない者には容赦しませんでした。
長年仕えた重臣・佐久間信盛さえも、「功績がない」という理由で追放しています。

こうした厳しさと公平さが、当時最強と言われた「織田軍団」を生み出したのです。


織田四天王|信長を支えた四人の重臣

「織田四天王」とは、信長の天下統一事業を支えた重臣たちのことです。

ただし、誰を四天王とするかは諸説あります。
江戸時代の随筆『翁草』には、こんな童歌が記されています。

「木綿藤吉、米五郎左、かかれ柴田に、のき佐久間」

「藤吉」は木下藤吉郎(羽柴秀吉)、「五郎左」は丹羽長秀、「柴田」は柴田勝家、「佐久間」は佐久間信盛のことです。

一方、本能寺の変(1582年)直前の方面軍体制を見ると、柴田勝家・明智光秀・羽柴秀吉・滝川一益の四名が方面軍の司令官を務めていました。
こちらを「織田四天王」とする説も有力です。

どちらが正しいというわけではなく、時期によって信長を支えた重臣の顔ぶれが変わっていったということですね。


方面軍司令官|各地で戦った指揮官たち

信長は天下統一を目指す中で、「方面軍」という組織を作りました。
これは各地域の敵に対応するため、有力な家臣に軍団を任せる仕組みです。

信長自身が全国の戦場に出向くことは不可能ですからね。
信頼できる武将に軍を預け、独自の判断で戦わせたのです。

北陸方面軍|柴田勝家

項目内容
司令官柴田勝家(しばた かついえ)
生没年1522年頃〜1583年
主な与力前田利家、佐々成政、佐久間盛政、不破光治
担当地域越前・加賀・能登・越中
主な敵一向一揆、上杉氏

「鬼柴田」「かかれ柴田」の異名を持つ猛将です。
突撃命令を意味する「掛かれ!」の号令と共に敵陣へ突っ込む姿から、そう呼ばれました。

実は若い頃、信長の弟・信行を当主にしようと反乱を起こしています。
敗れて許された後は、信長に忠誠を尽くしました。

本能寺の変の後、羽柴秀吉と対立。
1583年の賤ヶ岳の戦いで敗れ、妻のお市の方と共に自害しました。

中国方面軍|羽柴秀吉

項目内容
司令官羽柴秀吉(はしば ひでよし)
生没年1537年〜1598年
主な与力蜂須賀正勝、黒田孝高、宮部継潤
担当地域播磨・但馬・因幡・備前・備中
主な敵毛利氏

後に天下人となる豊臣秀吉です。
農民出身とされ、「木綿藤吉」(絹のような派手さはないが使い勝手が良い)と評されました。

本能寺の変の知らせを受けると、「中国大返し」と呼ばれる驚異的なスピードで京都に引き返し、明智光秀を討ちました。
この功績により、織田家臣団の中で最も大きな発言力を持つようになったのです。

畿内方面軍|明智光秀

項目内容
司令官明智光秀(あけち みつひで)
生没年1528年頃〜1582年
主な与力細川藤孝、筒井順慶、中川清秀、高山重友
担当地域丹波・丹後・近江坂本
役割畿内統治、遊撃軍

本能寺の変を起こした人物として知られますね。
しかし、それまでは信長から絶大な信頼を受けていた重臣でした。

畿内方面軍は当面の敵がいなかったため、各方面軍への援軍として駆けつける「遊撃軍」の役割も担っていました。
これは、光秀の能力を信長が高く評価していた証拠です。

本能寺の変後、山崎の戦いで羽柴秀吉に敗れ、落ち武者狩りに遭い命を落としました。

関東方面軍|滝川一益

項目内容
司令官滝川一益(たきがわ かずます)
生没年1525年〜1586年
担当地域上野・信濃(佐久・小県)
主な敵北条氏、旧武田領の国衆

「進むも滝川、退くも滝川」と評された武将です。
先陣を切って突撃する武勇と、殿軍(しんがり)として味方を守る冷静さを兼ね備えていました。

鉄砲の名手としても知られ、調略や外交にも長けた万能型の武将でした。

1582年の甲州征伐で武田氏を滅ぼした功績により、関東の統治を任されます。
しかし本能寺の変が起こると、北条氏に攻められて関東から撤退することになりました。

四国方面軍|丹羽長秀・織田信孝

項目内容
総大将織田信孝(信長の三男)
実質司令官丹羽長秀(にわ ながひで)
丹羽長秀生没年1535年〜1585年
主な敵長宗我部氏

四国方面軍は本能寺の変の直前に編成されましたが、出陣前に変が起こったため、実際の戦闘は行われませんでした。

丹羽長秀は「米五郎左」と呼ばれた人物です。
主食の米のように「なくてはならない存在」という意味ですね。

軍事だけでなく行政能力にも優れ、安土城の築城では普請総奉行を務めました。
「羽柴」という秀吉の姓は、「丹羽」と「柴田」から一字ずつ取ったとされています。


主要家臣一覧|織田家を支えた武将たち

方面軍司令官以外にも、織田家には多くの優秀な家臣がいました。
ここでは、特に重要な役割を果たした武将たちを紹介します。

譜代・宿老衆

名前読み方生没年役職・特徴
林秀貞はやし ひでさだ?〜1580年追放筆頭家老。信長の教育係を務めた
佐久間信盛さくま のぶもり1528年頃〜1582年家老。「退き佐久間」と呼ばれた殿軍の名手
池田恒興いけだ つねおき1536年〜1584年信長の乳兄弟。清洲会議に出席した四宿老の一人
森可成もり よしなり1523年〜1570年「攻めの三左」と呼ばれた猛将。宇佐山城の戦いで討死

方面軍与力・有力家臣

名前読み方生没年所属・特徴
前田利家まえだ としいえ1539年〜1599年北陸方面軍。「槍の又左」。後に加賀百万石の祖
佐々成政さっさ なりまさ1536年〜1588年北陸方面軍。越中を領有
河尻秀隆かわじり ひでたか1527年〜1582年信忠の補佐役。甲斐を領有するも本能寺の変後に殺害
蜂屋頼隆はちや よりたか?〜1589年遊撃軍として活躍。丹羽長秀と共に四国方面軍に参加

小姓・近習衆

名前読み方生没年特徴
森蘭丸もり らんまる1565年〜1582年信長の側近。本能寺の変で討死
堀秀政ほり ひでまさ1553年〜1590年「名人久太郎」と称された万能型の武将
蒲生氏郷がもう うじさと1556年〜1595年文武両道の名将。後に会津若松城主
長谷川秀一はせがわ ひでかず?〜1594年信長の側近として仕えた

行政官僚

名前読み方生没年役職・特徴
村井貞勝むらい さだかつ?〜1582年京都所司代。朝廷との交渉を担当。本能寺の変で討死
島田秀満しまだ ひでみつ?〜?奉行衆。行政・外交を担当
松井友閑まつい ゆうかん?〜1587年以降奉行衆。茶人としても知られる。堺代官
武井夕庵たけい せきあん?〜1582年以降信長の右筆(秘書)。外交文書を担当

水軍衆

名前読み方生没年特徴
九鬼嘉隆くき よしたか1542年〜1600年志摩の海賊大名。鉄甲船を建造

外様・降将|途中から織田家に従った大名たち

信長の勢力拡大に伴い、途中から家臣となった大名もいました。
これらの武将は「外様」と呼ばれ、譜代家臣とは区別されていました。

名前読み方旧主・出身備考
荒木村重あらき むらしげ摂津の国人1578年に謀反を起こし敗北
松永久秀まつなが ひさひで三好氏家臣二度謀反を起こし、信貴山城で爆死
細川藤孝ほそかわ ふじたか足利将軍家臣明智光秀の与力。本能寺の変後は秀吉に従う
筒井順慶つつい じゅんけい大和の国人明智光秀の与力。本能寺の変で態度を決めかねた

荒木村重と松永久秀はいずれも信長に重用されましたが、最終的に謀反を起こしています。
「外様は冷遇されていた」という見方もありますが、譜代を重視した結果、不満を持つ外様が出てきたとも考えられますね。


一門衆|織田家の血縁者たち

信長の血縁者も、重要な役割を担っていました。

名前読み方続柄特徴
織田信忠おだ のぶただ長男信長から家督を譲られた後継者。本能寺の変で二条城にて自害
織田信雄おだ のぶかつ次男伊勢の北畠家を継ぐ。伊賀攻めで大敗
織田信孝おだ のぶたか三男四国方面軍総大将。賤ヶ岳の戦い後に自害
織田信広おだ のぶひろ庶兄信長の異母兄。長島一向一揆攻めで討死
織田長益おだ ながます有楽斎の名で知られる茶人。本能寺から脱出

特に織田信忠は、信長から早い段階で家督を譲られ、甲州征伐では総大将として武田氏を滅ぼしています。
本能寺の変で信長と共に亡くなったことで、織田家の後継問題が複雑化しました。


清洲会議の四宿老|信長死後に権力を握った重臣たち

1582年6月、本能寺の変で信長が亡くなると、織田家の後継者を決める会議が開かれました。
これが有名な「清洲会議」です。

参加したのは以下の四名でした。

名前推した後継者その後の動向
柴田勝家織田信孝(三男)秀吉と対立し、賤ヶ岳の戦いで敗死
羽柴秀吉三法師(信忠の子)後継者争いに勝利し、天下人へ
丹羽長秀三法師秀吉を支持
池田恒興三法師秀吉を支持。小牧・長久手の戦いで討死

結果的に秀吉の推す三法師(後の織田秀信)が後継者となりました。
しかしこれは名目上のことで、実権を握ったのは秀吉でした。

滝川一益は神流川の戦いで北条氏に敗れ、清洲会議に間に合わなかったため参加できませんでした。
これが、後の滝川一益の没落につながります。


まとめ

織田信長の家臣団について紹介しました。
ポイントをまとめると以下の通りです。

  • 能力主義の人事で、出自に関わらず優秀な人材を登用した
  • 方面軍制度を導入し、各地の戦いを有力家臣に任せた
  • 織田四天王は諸説あり、時期によって顔ぶれが変わった
  • 本能寺の変後の清洲会議で羽柴秀吉が実権を握った
  • 譜代を重視した結果、外様の荒木村重や松永久秀が謀反を起こした

信長の天下統一事業は、明智光秀の謀反によって道半ばで終わりました。
しかし、彼が育てた家臣たち——特に羽柴秀吉と、その後の徳川家康——によって、日本は統一されることになります。

信長の「人を見る目」と「能力を引き出す力」が、戦国時代の終わりを準備したと言えるでしょう。


参考情報

この記事の作成にあたり、以下の情報源を参照しました。

  • 谷口克広『織田信長家臣人名辞典 第2版』(吉川弘文館)
  • 建勲神社「織田信長公三十六功臣」
  • 『翁草』(江戸時代の随筆、織田四天王の童歌の出典)
  • Wikipedia「織田信長」「柴田勝家」「滝川一益」ほか各武将の項目
  • 戦国ヒストリー「織田信長の家臣団まとめ。組織図・変遷・各方面軍団の顔ぶれなど。」

さらに詳しく知りたい方へ:

  • 谷口克広『織田信長家臣人名辞典』では約1,458人の家臣を網羅
  • 建勲神社(京都市北区)では「三十六功臣」の詳細な解説を公開

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