夜空を見上げたとき、満天の星々が誰かの体を飾っているように感じたことはありませんか?
古代エジプトの人々は、夜空そのものが巨大な女神の体だと信じていました。その名はヌト。彼女は毎日太陽を飲み込み、朝になると再び生み出すという、壮大な役割を担っていたんです。
この記事では、古代エジプトで最も重要な神々の一柱である天空の女神「ヌト」について、その神秘的な姿や家族関係、興味深い神話をやさしく解説します。
概要

ヌトは、古代エジプト神話における天空を司る女神です。
エジプトの主要な創世神話の中心地であるヘリオポリスで崇拝された九柱神(エンネアド)の一柱として知られています。九柱神というのは、創世に関わった9柱の重要な神々のグループのことなんですね。
ヌトの最も重要な役割は、天体の動きを支配することでした。太陽神ラーは毎日夕方に彼女の口から飲み込まれ、夜の間に彼女の体内を旅して、朝になると再び生まれ出てくるとされていました。同じように、夜空の星々も彼女の子供たちで、毎朝彼女に飲み込まれ、夜になると再び輝くと信じられていたんです。
また、彼女は葬祭の女神としても重要な存在でした。死者を優しく抱擁し、天上の世界へと導く母なる女神として、古代エジプト人の死生観の中心にいました。
系譜
ヌトの家族関係は、エジプト神話の中でも特に重要な位置を占めています。
ヌトの親
- 父親:シュウ(大気・空気の神)
- 母親:テフヌト(湿気・水分の神)
シュウとテフヌトは、最初の神アトゥム(太陽神ラーと同一視される)によって生み出された神々です。つまり、ヌトの祖父はアトゥム、もしくはラーということになりますね。
ヌトの夫と子供たち
ヌトの夫は、彼女の実の弟でもあるゲブ(大地の神)です。古代エジプトでは神々の兄弟婚は珍しいことではありませんでした。
二人の間には、エジプト神話で最も有名な神々が生まれています。
ヌトとゲブの子供たち
- オシリス:冥界の支配者、死と再生の神
- イシス:魔術と知恵の女神、オシリスの妻
- セト:混沌と嵐の神、砂漠の支配者
- ネフティス:死者を守護する葬祭の女神
- ホルス(兄):一部の伝承では五番目の子供として記録される
この5柱の神々は、エジプト神話の中心的な物語を形作る重要な存在なんです。
姿・見た目
ヌトの描かれ方は、とても特徴的で印象的なんです。
最も有名な図像
ヌトの姿で最もよく知られているのは、弓なりに体を反らせて、地上を覆いかぶさる女性の姿です。
典型的な描写の特徴
- 指先と足先だけで大地に触れている
- 全身が弓のように反り返っている
- 体は天空そのものを表現している
- 体には無数の星々が散りばめられている
- 下には夫のゲブ(大地)が横たわっている
- 二人の間には父のシュウ(大気)が立ち、ヌトを支えている
この構図は、エジプト神話を少しでも知っている人なら必ず目にする、象徴的な図像なんですね。
その他の姿
ヌトは他にもいくつかの姿で表現されました。
- 牝牛の姿:巨大な体で天空を形作る牛として
- シカモア(いちじく)の木:樹木の女神としての側面
- 水瓶を頭に乗せた女性:名前のヒエログリフ(古代文字)にちなんだ姿
- 星で覆われた裸体の女性:棺の内側によく描かれた
特に棺の内側に描かれるヌトは、死者を優しく包み込むイメージで表現されていました。有名なツタンカーメン王の棺にも、ヌトへの祈りの言葉が刻まれているんです。
特徴
ヌトには、天空の女神ならではの特別な役割と能力があります。
太陽を生み出す母
ヌトの最も重要な役割は、毎日太陽を再生させることでした。
太陽の一日の旅
- 夕方、太陽神ラーがヌトの口から飲み込まれる
- 夜の間、ラーはヌトの体内を旅する
- 朝、ヌトの体から再び生まれ出る
このサイクルから、ヌトは「太陽の母」という称号を持っていました。面白いことに、彼女は太陽神の孫でありながら、同時に太陽神を生み出す母でもあったんですね。
星々の母
太陽と同じように、夜空の星々もヌトの子供たちだとされていました。
毎朝星々を飲み込み、夜になると再び生み出すという役割を担っていたんです。エジプト人にとって天の川は、ヌトの体そのものに見えたかもしれませんね。
死者の守護者
ヌトは葬祭の女神としても非常に重要でした。
死者はヌトに次のように祈ったとされています。
「おお、私の母ヌトよ、私の上に身を横たえてください。私があなたの中にある不滅の星々の間に置かれ、私が死なないように」
葬祭における役割
- 死者の体を抱擁する
- 天上の世界へ導く
- 食べ物と飲み物で死者を元気づける
- あらゆる悪から守護する
彼女の体が大地の上に覆いかぶさっているイメージから、棺桶の蓋と同一視されました。だから、棺の内側にヌトの姿が描かれることが多かったんですね。
天と地を分ける境界
ヌトは、秩序ある世界と混沌の力を分ける境界でもありました。
彼女の体が天空を形作ることで、世界を混沌から守っていたと考えられていたんです。
神話・伝承
ヌトにまつわる神話は、愛と嫉妬、そして機転に満ちたドラマチックな物語です。
天と地の分離
最も有名な神話は、ヌトとゲブが引き離された物語です。
物語のあらすじ
ヌトとゲブは深く愛し合い、常に抱き合っていました。二人はあまりにも密着していたため、その間には何も存在することができなかったんです。
これを見た父シュウは、二人を無理やり引き離しました。シュウが二人の間に立ち、ヌトを天高く持ち上げたことで、天と地の間に空間が生まれたのです。
こうして、私たちが知る世界の構造が完成しました。
呪われた妊娠
ヌトとゲブが引き離されたとき、ヌトはすでに妊娠していました。しかし、ここで大きな問題が起きます。
祖父のアトゥム(またはラー)が激怒し、ヌトに恐ろしい呪いをかけたんです。
呪いの内容
「1年360日のどの日にも、子供を産むことはできない」
この呪いによって、ヌトは子供を産むことができなくなってしまいました。お腹の中に子供がいるのに、産めないという残酷な状況だったんですね。
トトの知恵
困り果てたヌトを救ったのが、知恵の神トトでした。
トトは賢い策を考え出します。彼は月の女神と賭けをして、月の光の70分の1を勝ち取りました。この光を使って、トトは5日間の閏日を作り出したんです。
当時のエジプトの暦は360日でした。トトが作った5日間は「年に含まれない日」だったので、アトゥムの呪いは効果を持ちませんでした。
5日間の出産
- 1日目:オシリスが生まれた
- 2日目:ホルス(兄)が生まれた
- 3日目:セトが生まれた(この日は不吉な日とされた)
- 4日目:イシスが生まれた
- 5日目:ネフティスが生まれた
こうして、ヌトは5柱の神々を無事に出産することができました。この5日間は「エパゴメナル(閏日)」と呼ばれ、神々の誕生日として特別な日になったんです。
父親の謎
興味深いことに、プルタルコスという古代ギリシャの作家によると、5人の子供たちの父親は全員同じではなかったそうです。
- オシリスとホルス:太陽神(ヘリオス)の子
- イシス:知恵の神(ヘルメス/トト)の子
- セトとネフティス:土星神(サトゥルヌス)の子
ただし、これはギリシャ的な解釈が加わった話で、古代エジプトの原典にはほとんど記録されていません。
出典・起源
ヌトの信仰は、古代エジプト史の中でも非常に古い時期から存在していました。
ヘリオポリス創世神話
ヌトはヘリオポリス(現在のカイロ近郊)で発展した創世神話の中心的存在です。
ヘリオポリスは下エジプト第13ノモス(州)の州都で、太陽神崇拝の中心地でした。ここで語られた九柱神の神話は、エジプト全土に広まり、最も影響力のある創世神話となったんですね。
古代からの信仰
ヌトへの信仰がいつ始まったのか、正確な年代は分かっていません。しかし、ピラミッド・テキスト(紀元前2400年頃)という最古の宗教文書にすでに登場していることから、少なくとも4000年以上前から崇拝されていたことは確実です。
重要な文献での記述
- ピラミッド・テキスト:最古の宗教文書。ヌトが王の体を抱擁する描写がある
- 棺桶テキスト:中王国時代の葬祭文書
- 死者の書:新王国時代以降の葬祭マニュアル
- ヌトの書:天文学的な知識を含む専門文書
信仰の特徴
興味深いことに、ヌトは神話や葬祭において極めて重要な役割を担っていたにもかかわらず、彼女専用の神殿や大規模な祭礼は記録されていません。
これは、ヌトが抽象的な概念(天空そのもの)と強く結びついていたためかもしれません。
ただし、以下のような形で広く崇拝されていました。
信仰の形態
- 葬祭における祈りと儀式
- 他の女神(ハトホルなど)との習合
- 棺や墓の装飾として
- 天文学的な観測と結びついた信仰
樹木の女神としての側面
初期の段階では、ヌトは樹木の女神として見なされていた時期もありました。特にシカモア(エジプトいちじく)の木と関連付けられ、死者に生気を取り戻させる役割も担っていたとされています。
まとめ
ヌトは、古代エジプト人の世界観を象徴する壮大な女神です。
重要なポイント
- ヘリオポリス九柱神の一柱として天空を司る
- 大気の神シュウと湿気の女神テフヌトの娘
- 大地の神ゲブの妻で、オシリス、イシス、セト、ネフティス、ホルスの母
- 弓なりに反った姿で地上を覆う独特な図像で知られる
- 毎日太陽を飲み込み、朝に生み出す「太陽の母」
- 星々も彼女の子供たちで、毎日同じサイクルを繰り返す
- 死者を優しく抱擁する葬祭の女神
- 祖父の呪いを知恵の神トトの機転で乗り越えた
- 4000年以上前から信仰され続けた古代の女神
夜空を見上げるとき、古代エジプト人は巨大な女神ヌトの体を見ていました。星々は彼女の体を飾る宝石で、天の川は彼女の骨格だったのかもしれません。
科学的には天空は物質ではありませんが、それを女神という形で表現し、太陽の日々の循環を「死と再生」の物語として語ったエジプト人の想像力は、今でも私たちを魅了し続けています。
参考文献
- ヘリオポリス九柱神に関する古代エジプト神話
- ピラミッド・テキスト(古王国時代の宗教文書)
- プルタルコス『イシスとオシリスについて』
- 古代エジプトの天文学文書「ヌトの書」
- エジプト神話における葬祭伝統と信仰


コメント