深い海の底から、イルカが引く巨大な貝殻の馬車に乗った老人が現れたら、あなたはどう感じるでしょうか?
クトゥルフ神話の世界には、「大いなる深淵の主」と呼ばれる謎めいた存在がいます。それがノーデンスです。恐ろしい邪神たちが跋扈するクトゥルフ神話において、ノーデンスは珍しく人間に味方することもある「旧神」の一柱なんです。
この記事では、古代ローマ時代の癒しの神から、クトゥルフ神話の重要な神格へと変貌を遂げたノーデンスについて詳しくご紹介します。
概要

ノーデンスは、アメリカの怪奇小説家ハワード・フィリップス・ラヴクラフト(1890-1937年)の作品に登場する神格です。
クトゥルフ神話の用語で言うと「旧神(エルダー・ゴッド)」の一柱とされることが多いのですが、実はこの分類は後から付け足されたもの。ラヴクラフト自身は、ノーデンスを明確に旧神とは定義していませんでした。
初登場は1926年に執筆された『霧の高みの不思議な家』という作品で、その後『未知なるカダスを夢に求めて』にも重要な役割で登場します。
クトゥルフ神話には人類に敵対的な邪神ばかりが登場しますが、ノーデンスは比較的人間に友好的な存在として描かれているんですね。特に邪神ナイアーラトテップとはライバル関係にあり、人類を守る場面もあるという点が特徴的です。
系譜
ノーデンスのルーツは、実は古代にまで遡ります。
ローマ領イングランドの神ノドンス
ノーデンスのモデルとなったのは、ノドンス(Nodens/Nodons)という実在した神様です。
ノドンスは紀元後のローマ領イングランド(現在のイギリス)で信仰されていた癒しの神でした。イングランド西部のグロスターシャー州にあるリドニー・パークという場所に、ノドンスを祀る神殿の遺跡が実際に残っています。
発掘された奉納板には、犬の姿が刻まれていました。古代では犬は癒しの象徴とされていたので、ノドンスは治療の力を持つ神だったと考えられています。碑文では、戦いの神マルス(ただし戦士としてではなく癒し手として)や狩猟の神シルウァヌスと同一視されていました。
ケルト神話の神ヌアザとの関係
さらに興味深いのは、ケルト神話に登場する神ヌアザ(アイルランド)やヌッズ(ウェールズ)との繋がりです。
ヌアザは「銀の腕を持つヌアザ」(ヌアザ・アルゲトラーウ)という異名で知られる、アイルランド神話の重要な神様。戦いで腕を失った後、銀製の義手を与えられたことから、この名で呼ばれるようになりました。
言語学的には、ノドンス、ヌアザ、ヌッズはすべて同じ語源から派生した名前だと考えられています。つまり、もともとは同じ神様が、地域や時代によって違う名前で呼ばれていた可能性が高いんですね。
アーサー・マッケンからラヴクラフトへ
ラヴクラフトがノーデンスを創造するきっかけとなったのは、イギリスの作家アーサー・マッケンの小説『パンの大神』だと言われています。
マッケンはこの作品の中でケルト神話の神「ノーデンス」に言及していて、ラヴクラフトはそこから着想を得たと考えられているんです。
ただし、ラヴクラフト作品でのノーデンスの性質は、マッケンの描写とは大きく異なっています。ラヴクラフトは古代の実在した神の名前を借りて、全く新しいキャラクターを作り上げたわけですね。
興味深いことに、『指輪物語』の作者として有名なJ・R・R・トールキンも、リドニー・パークのラテン語碑文を調査するよう依頼されたことがあります。トールキンの作品に登場する「銀の手のケレブリンボール」は、ノーデンス(ヌアザ)の「銀の腕」という異名から影響を受けているとも指摘されています。
姿・見た目

ノーデンスの外見は、まるで海の神のような威厳ある姿で描かれています。
『霧の高みの不思議な家』での描写
ラヴクラフトの最初の作品では、ノーデンスはこのように描かれています。
ノーデンスの外見的特徴
- 顔つき:白髪と灰色の髭を持つ老人
- 乗り物:イルカに引かれる巨大な貝殻の戦車(チャリオット)
- 雰囲気:海の神のような荘厳さを持つ
貝殻の馬車に乗ってイルカに引かれる姿は、ギリシャ神話の海神ポセイドンやローマ神話のネプチューンを思わせます。実際、古代ローマでは水と癒しが密接に結びついていたので、ノーデンスが海の要素を持つのは自然な流れかもしれません。
『未知なるカダスを夢に求めて』での描写
もう一つの主要作品では、より抽象的な存在として描かれています。
この作品でノーデンスは「古きもの」(エルダー・ワン)と関係する存在とされ、ドリームランド(夢の世界)の地下に広がる暗黒世界「大いなる深淵」を治める支配者として登場します。
具体的な姿の描写は少ないですが、威厳と力を持つ神としての存在感が強調されています。
4. 特徴
ノーデンスには、他のクトゥルフ神話の神々とは一線を画す独特の特徴があります。
支配領域:大いなる深淵
ノーデンスの支配する領域は「大いなる深淵」(グレート・アビス)と呼ばれています。
『霧の高みの不思議な家』では、マサチューセッツ州の港町キングスポートにある館が、この異界「大いなる深淵」に繋がっているとされています。
『未知なるカダスを夢に求めて』では、ドリームランド(夢の国)の地下に広がる暗黒世界として描かれていて、ノーデンスはその世界の支配者なんです。
使役する存在:夜鬼(ナイトゴーント)
ノーデンスの特徴として重要なのが、夜鬼(ナイトゴーント)という漆黒の翼を持つ生物を使役していることです。
夜鬼の特徴
- 顔のない漆黒の体
- コウモリのような翼
- 音もなく飛行する
- ゴムのような肌の質感
夜鬼はドリームランドで「大地の神々」の秘密を守る役目を負っていて、聖地に近づく不埒な人間を発見すると、音もなく忍び寄って捕まえ、危険な場所へ連れ去ってしまいます。
興味深いのは、夜鬼は捕らえた人間を直接殺すことはせず、恐ろしいモンスターが住む場所に置き去りにするという点。ある意味、情け深いとも言えるかもしれません。
人間に対する態度
クトゥルフ神話の神々の多くは、人間に対して無関心か敵対的です。しかしノーデンスは違います。
比較的人間に友好的な存在として描かれていて、特に『未知なるカダスを夢に求めて』では「救世主」的な役割で登場します。
ただし、これには条件があります。ドリームランドでは「神族の秘密を探ること」がタブーとされていて、この禁忌を犯そうとする者には、ノーデンスは容赦なく夜鬼を差し向けて妨害するんです。
要するに、ルールを守る限りは友好的だけれど、一線を越えると厳しく対処するという、規律を重んじる性格なんですね。
ライバル:ナイアーラトテップ
ノーデンス最大の特徴と言えるのが、邪神ナイアーラトテップとの関係です。
『未知なるカダスを夢に求めて』において、ノーデンスとナイアーラトテップはライバル関係にあります。両者は異なる思惑を持ちながら、それぞれの方法で「神族」を保護しているんです。
ナイアーラトテップに仕えるシャンタク鳥や忌まわしき狩人といった生物たちは、ノーデンスの配下である夜鬼をひどく恐れています。
これは後に、旧神vs旧支配者(邪神)という構図として解釈されることになります。
伝承

ノーデンスの物語は、ラヴクラフトの作品を中心に展開されています。
『霧の高みの不思議な家』(1926年執筆)
ノーデンスの初登場作品です。
マサチューセッツ州の古い港町キングスポート。この町には、崖の上に建つ奇妙な家がありました。この家は「大いなる深淵」という異界に繋がっていて、時折ノーデンスが訪れるのです。
主人公のトーマス・オルニーがこの家に入ると、イルカに引かれた巨大な貝殻の戦車に乗った「太古の大帝ノーデンス」の姿を目撃します。
この作品でノーデンスは「エルダー・ワン」(古きもの)と関係がある存在とされていますが、この曖昧な用語が何を指すのかは明確にされていません。
『未知なるカダスを夢に求めて』(1926-1927年執筆)
こちらがノーデンスの最も重要な登場作品です。
物語の主人公ランドルフ・カーターは、夢に見た美しい都市を探し求める旅に出ます。その旅の途中、様々な冒険と危険に遭遇するのですが、そこでノーデンスが重要な役割を果たします。
物語でのノーデンスの役割
- ドリームランド地下の「大いなる深淵」の支配者
- 夜鬼を使役して神々の秘密を守護
- 邪神ナイアーラトテップと対立
- 最終的にはカーターの味方として機能
この作品はラヴクラフトが純粋に楽しみのために書いたとされ、他の作品とは異なり、希望のある展開が含まれています。ノーデンスは珍しく「救世主」的な立場で描かれているんです。
夜鬼がランドルフ・カーターを危険から救い出す場面では、ノーデンスの力が間接的に働いています。通常は侵入者を危険な場所へ連れ去る夜鬼が、カーターの友人である食屍鬼(グール)たちと協力するのは、ノーデンスの意思があったからこそと解釈できます。
後世の作品での展開
ラヴクラフトの死後、多くの作家がクトゥルフ神話を継承し、ノーデンスも様々な作品に登場しています。
オーガスト・ダーレスは自作『破風の窓』でノーデンスを明確に「旧神」として扱いました。またリン・カーターは設定資料『クトゥルフ神話の神々』や『カーター版ネクロノミコン』でノーデンスについて言及しています。
テーブルトークRPG『クトゥルフの呼び声』でも、ノーデンスは重要なキャラクターとして登場します。初期バージョンでは「外なる神」に分類されていましたが、後に「旧神」として扱われるようになりました。
出典
ノーデンスが登場する主な作品をご紹介します。
ラヴクラフト作品
- 『霧の高みの不思議な家』(The Strange High House in the Mist)- 執筆1926年、発表1931年
- 『未知なるカダスを夢に求めて』(The Dream-Quest of Unknown Kadath)- 執筆1926-1927年、没後発表1943年
影響を与えた作品
- アーサー・マッケン『パンの大神』(The Great God Pan)
後世の作品
- オーガスト・ダーレス『破風の窓』
- リン・カーター『クトゥルフ神話の神々』『カーター版ネクロノミコン』
- フランシス・レイニー『クトゥルフ神話小辞典』(1943年)
- テーブルトークRPG『クトゥルフの呼び声』
- 『ラヴクラフトの幻夢境』
- 『コールオブクトゥルフd20』
学術的資料
- J・R・R・トールキンによるリドニー・パーク遺跡のラテン語碑文調査
- リドニー・パーク神殿遺跡の考古学的発掘報告
まとめ
ノーデンスは、古代の実在した神から創作神話の重要キャラクターへと変貌を遂げた、稀有な存在です。
重要なポイント
- ローマ領イングランドの癒しの神ノドンスがモデル
- ケルト神話の「銀の腕」を持つヌアザと同じ語源
- ラヴクラフト作品で「大いなる深淵の主」として登場
- イルカが引く貝殻の戦車に乗る白髪の老人の姿
- 夜鬼(ナイトゴーント)を使役する
- 邪神ナイアーラトテップとライバル関係
- クトゥルフ神話では珍しく人間に比較的友好的
- 「旧神」のカテゴリは後から付けられた設定
クトゥルフ神話という恐怖の物語群の中で、ノーデンスは希望の光のような存在と言えるかもしれません。古代の癒しの神が、現代のホラー神話で救済者の役割を担うというのは、なんとも興味深い変遷ですね。


コメント