「海よ、退け!」——黄金の太刀を波間に投げ入れ、潮を引かせたという伝説をご存知でしょうか?
鎌倉幕府を滅亡に追い込んだ武将・新田義貞には、そんな劇的な逸話が残されています。
源氏の名門に生まれながら、長く不遇の時代を過ごした義貞。しかし、元弘3年(1333年)、わずか150騎で挙兵すると、瞬く間に数万の大軍を率いて鎌倉を陥落させました。
天皇への忠義を貫きながらも、ライバル・足利尊氏との争いに敗れ、最期は越前の地で散っていった悲運の英雄。
この記事では、鎌倉幕府を滅ぼした名将「新田義貞」について、その生涯と伝説を詳しくご紹介します。
概要
新田義貞(にった よしさだ)は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて活躍した武将です。
生没年は正安3年(1301年)頃から延元3年/暦応元年(1338年)。源氏の名門・新田氏の8代目当主として、鎌倉幕府打倒の立役者となりました。
基本情報
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 生年 | 正安3年(1301年)頃 |
| 没年 | 延元3年/暦応元年閏7月2日(1338年8月17日) |
| 通称 | 小太郎 |
| 官位 | 正四位下、左近衛中将 |
| 主君 | 後醍醐天皇 |
| 氏族 | 清和源氏義家流新田氏 |
新田義貞の名が歴史に刻まれたのは、元弘3年(1333年)5月のこと。後醍醐天皇の倒幕運動に呼応して挙兵し、わずか15日ほどで鎌倉を攻め落としました。
その後、建武の新政では後醍醐天皇に重用されますが、やがて足利尊氏との対立が深まります。南北朝の動乱の中、北陸で転戦を続けた末、越前国・藤島で戦死しました。
楠木正成と並ぶ「建武の忠臣」として知られ、後世には忠義の武将として称えられています。明治15年(1882年)には正一位が追贈され、「日本一の至誠の武将」とも評されるようになりました。
偉業・功績
新田義貞の功績といえば、やはり鎌倉幕府の滅亡が最大のものでしょう。
鎌倉幕府打倒──挙兵から勝利まで、わずか15日間
元弘3年(1333年)5月8日、上野国新田荘(現在の群馬県太田市)の生品神社で義貞は挙兵しました。最初の兵力はわずか150騎ほどだったと伝えられています。
しかし、幕府への不満を抱える武士たちが次々と合流。さらに、足利尊氏の嫡男・千寿王丸(後の足利義詮)が義貞軍に加わったことで、関東の武士たちが雪崩を打って参陣しました。鎌倉に向かう頃には数万の大軍に膨れ上がっていたのです。
進軍の経過
- 5月8日:生品神社で挙兵(約150騎)
- 5月11日:小手指原の戦い(埼玉県所沢市)で幕府軍を破る
- 5月12日:久米川の戦いで再び勝利
- 5月15〜16日:分倍河原の戦い(東京都府中市)で幕府軍を撃破
- 5月18日:鎌倉を包囲、三方から総攻撃を開始
- 5月21日:稲村ヶ崎を突破して鎌倉に突入
- 5月22日:北条高時ら幕府首脳が東勝寺で自害、鎌倉幕府滅亡
稲村ヶ崎の奇跡──龍神伝説
鎌倉は三方を山に囲まれ、南は海に面した天然の要塞です。義貞軍は極楽寺坂切通し、化粧坂切通し、巨福呂坂切通しの三方から攻撃を仕掛けましたが、幕府軍の堅い守りに苦戦を強いられました。
そこで義貞が選んだのが、稲村ヶ崎から海岸伝いに鎌倉へ侵入するルートでした。しかし、当時の稲村ヶ崎は断崖の下に狭い通路があるのみで、海には幕府の軍船が配置され、通行する軍勢を射抜けるようになっていました。
『太平記』によると、義貞は5月21日未明、稲村ヶ崎に立ち、黄金造りの太刀を海に投げ入れて龍神に祈願したといいます。すると、潮が大きく引き、岸壁沿いに鎌倉へ攻め入ることができたというのです。
この伝説は、明治から大正にかけて文部省が編纂した尋常小学唱歌「鎌倉」でも歌われています。
七里ヶ浜の磯づたい 稲村ヶ崎名将の 剣投ぜし古戦場
龍神伝説の真相
天文学者・小川清彦の検証によると、5月21日未明に稲村ヶ崎で干潮が生じたことは天文学的に証明されています。義貞自身が幕府御家人として鎌倉に度々在住しており、潮の干満について把握していた可能性も指摘されています。
一方、歴史学者の峰岸純夫は、『太平記』や『梅松論』の「不思議」「神仏の加護」という記述から、突発的な地殻変動や地震といった自然現象が起こり、想像を絶する大規模な干潟が出現したのではないかと推測しています。
いずれにせよ、稲村ヶ崎を突破した義貞の軍勢は由比ヶ浜における激戦を繰り広げ、鎌倉へ一気に乱入しました。幕府軍を前後から挟み撃ちにして徹底的に壊滅させ、北条高時以下は東勝寺で自害。源頼朝以来、約150年続いた鎌倉幕府はここに滅亡したのです。
建武の新政における役職
鎌倉幕府滅亡後、後醍醐天皇による建武の新政が始まると、義貞は以下の要職に任命されました。
- 武者所頭人:武士を統括する重要な役職
- 上野・越後・播磨の国司:三国の国司を兼任
- 従四位上に叙せられる
足利尊氏と並ぶ建武の元勲として、新政府を支える重要人物となったのです。
系譜・出生
新田義貞の血筋は、源氏の嫡流に連なる名門中の名門でした。
清和源氏の名門
新田氏は、「八幡太郎」として名高い源義家の曾孫・新田義重を祖とします。
義家の子である源義国には二人の息子がいました。長男・義重の系統が新田氏、次男・義康の系統が足利氏となります。つまり、新田義貞と足利尊氏は同じ祖先を持つ同族だったのです。
新田氏と足利氏の系譜
源義家
│
源義国
├─ 新田義重(長男)→ 新田氏
└─ 足利義康(次男)→ 足利氏
しかし、同じ源氏の名門でありながら、両家の運命は大きく分かれました。
足利氏は源頼朝の時代から北条氏と婚姻関係を結び、幕府内で重用されてきました。足利尊氏は15歳にして従五位下・治部大輔に任命されています。
一方、新田氏は源平合戦で頼朝に従わなかったため冷遇され続けました。義貞が家督を継いだ頃には、領地も少なく、義貞自身も無位無官という状態だったのです。
義貞の出生
義貞は新田氏宗家の7代当主・新田朝氏の嫡男として生まれました。
生年については判然としませんが、藤島で戦死した際に37〜40歳であったと伝えられることから、正安3年(1301年)前後と考えられています。
出生地の諸説
義貞の出生地については、以下の3つの説があります。
- 新田郡世良田村(太田市世良田)
- 新田郡生品村反町館(太田市新田地区)
- 碓氷郡里見郷(高崎市榛名地区)
また、『新田正伝記』『新田族譜』『里見系図』などの史料は、義貞が同族の里見氏からの養子であることを示唆しています。養子説は有力な見解とされていますが、確実な証拠は見つかっていません。
少年時代
義貞が育った上野国新田荘(現在の群馬県太田市周辺)は、夏は雷雨と集中豪雨がすさまじく、冬は強烈な空っ風が吹き荒れる厳しい風土でした。
新田一族が弓術などの武芸を鍛錬する練習場として「笠懸野」と呼ばれる広漠な荒地が広がっており、義貞はそこで武芸の研鑽を積み、利根川で水練に励みながら強靭に育っていったと考えられています。
この気象変化に富む新田荘での生活が、義貞の激しい気性と義理人情に厚い性格を形成したとも言われています。
姿・見た目
新田義貞の外見について、具体的に描写した史料はほとんど残っていません。しかし、いくつかの間接的な情報から、その姿を推測することができます。
武芸に秀でた体躯
義貞は幼少期から厳しい環境で武芸の鍛錬を積んできました。笠懸野での弓術、利根川での水練など、日々の訓練によって強靭な肉体を持っていたと考えられています。
『太平記』には、義貞が戦場で自ら先頭に立って敵陣に突撃する場面が何度も描かれており、武将としての勇猛さがうかがえます。
所持した名刀
義貞は、源氏伝来の名刀をいくつか所持していたことが知られています。
鬼切安綱(おにきりやすつな)
源氏の棟梁・源満仲が名工・安綱に打たせた1振で、源氏の宝刀とされました。渡辺綱が鬼の腕を落としたという伝説から「鬼切」の名で呼ばれるようになった刀です。義貞は越前へ下向する際、この刀を日吉山王社に奉納しています。
鬼丸国綱(おにまるくにつな)
鎌倉幕府滅亡後、義貞は北条家の重宝であったこの名刀を手に入れました。天下五剣の一つに数えられる名刀で、現在は皇室御物として宮内庁に収蔵されています。
義貞着用とされる兜
江戸時代の1656年(明暦2年)、越前国の農民が水田から古い兜を掘り出しました。福井藩の軍学者・井原番右衛門がこれを鑑定し、象嵌や「元応元年八月相模国」の銘文から新田義貞着用のものと判断しました。
この兜は現在、福井市の藤島神社に奉納されており、重要文化財に指定されています。ただし、甲冑研究の専門家からは、兜の形状が室町時代末期のものであり、義貞の時代とは合わないという指摘もあります。
特徴
新田義貞の性格や行動には、後世の評価を分ける特徴的な面がありました。
忠義の武将
義貞の最大の特徴は、後醍醐天皇への揺るぎない忠誠心です。
足利尊氏が天皇に背いた後も、義貞は一貫して南朝方に留まり続けました。湊川の戦いで敗れ、後醍醐天皇が密かに尊氏と和睦を結ぼうとした際も、義貞は天皇を見捨てることなく、皇子たちを奉じて北陸へ下向しました。
『太平記』には、義貞の家臣が「天皇に味方した新田氏を裏切って賊軍である足利氏のところに行くのなら、新田家の首を全て切ってからにせよ」と申し出たという記述があります。それほどまでに、義貞と家臣たちの忠誠心は固かったのです。
この忠義の姿勢から、義貞は「日本一の至誠の武将」と評されるようになりました。
激しい気性と義理人情
義貞は激しい気性の持ち主であったと伝えられています。
元弘3年(1333年)4月、幕府から重い税を課されていた義貞は、徴税にやってきた幕府の使者2人を切り殺すという事件を起こしました。貧しい生活の中で重税を課され続けることに我慢がならなかったのでしょう。この事件がきっかけで所領は没収され、義貞は挙兵を決意することになります。
一方で、義理人情に厚い面もありました。最期の戦いでも、味方が苦戦していることを知ると、わずか50騎で援軍に駆けつけています。部下の中野宗昌が退却を進言した際には、「部下を見殺しにして生き残るのは不本意である」と言って共に戦ったと伝えられています。
足利尊氏との対比
義貞と尊氏は、しばしば対照的な人物として描かれます。
| 新田義貞 | 足利尊氏 |
|---|---|
| 忠義一筋 | 柔軟な政治判断 |
| 激しい気性 | 器が大きい |
| 武将としての誇り | 現実的な戦略家 |
| 貧しい境遇 | 裕福な名門 |
尊氏が時に天皇と和睦し、時に敵対するという柔軟な姿勢を見せたのに対し、義貞は最後まで南朝への忠誠を貫きました。この「不器用なまでの誠実さ」が、義貞の悲劇を招いたとも言えるでしょう。
伝承
新田義貞にまつわる伝承は、その劇的な生涯を彩る数々のエピソードとして語り継がれています。
稲村ヶ崎の龍神伝説
最も有名な伝承は、先述した稲村ヶ崎での龍神伝説です。
『太平記』には、義貞が海に向かって祈願した場面が詳しく描かれています。
馬より下り、甲を脱いで、遥かに海上を伏し拝み、龍神に祈願して曰く、「聞く日本は神国なり、神は非礼を受け給わず、天の日嗣を助けて、皇化を再興し給わんがために勅旨を蒙りて、逆臣を伐つ。願わくば内海外海の龍神八部、臣が忠義を鑑み、潮を万里の外に退け、道を三軍の勇に開き給え」
そして黄金造りの太刀を海に投じると、龍神がこれに応え、潮がみるみる引いていったというのです。
この伝説は、青森ねぶた祭の題材にもなるなど、現代でも広く親しまれています。2023年には「新田義貞伝説 龍神に太刀を捧ぐ」というねぶたが制作されました。
勾当内侍との悲恋
建武の新政期、義貞は宮中の女官・勾当内侍(こうとうのないし)と恋に落ちたと伝えられています。
『太平記』によると、義貞はその美しさに一目惚れし、後醍醐天皇に願い出て彼女を妻に迎えました。しかし、この恋が義貞の身を滅ぼす一因になったとも記されています。
義貞が越前へ下向する際、勾当内侍も同行しましたが、雪中行軍の苦難の中で体調を崩したとも伝えられています。
最期の場面
延元3年(1338年)閏7月2日、義貞は味方の援軍として藤島城へ向かう途中、灯明寺畷(現在の福井県福井市新田塚町)で足利方の軍勢と遭遇しました。
わずか50騎ほどの手勢で300騎の敵と戦うことになった義貞。乱戦の中で馬が水田にはまり、落馬してしまいます。立ち上がろうとしたところを眉間に矢を受け、最期を悟った義貞は、自ら刀で首を掻き切って自害したと伝えられています。
『太平記』には、義貞の首級を取った氏家重国も、相手が誰か分からなかったと記されています。首級は京都に送られ、都大路を引き回しの上、獄門にされました。
義貞の遺骸は、時宗の僧8人によって称念寺(現在の福井県坂井市丸岡町)に運ばれ、丁重に葬られました。享年39歳(一説には37歳)でした。
殉死した家臣たち
義貞の死後、多くの家臣が主君の後を追って殉死したと伝えられています。長崎の道場(称念寺)には、主君を失った多くの家来が訪れ、出家したことが『太平記』に記されています。
出典・起源
新田義貞の伝記は、主に以下の史料に基づいています。
主要な史料
『太平記』
南北朝時代の動乱を描いた軍記物語で、全40巻からなります。義貞の活躍や最期が詳しく描かれていますが、物語としての脚色も多く含まれています。龍神伝説や勾当内侍との恋など、劇的なエピソードの多くはこの『太平記』に由来します。
『梅松論』
足利方の立場から南北朝の動乱を記した史料です。『太平記』とは異なる視点からの記述があり、義貞の稲村ヶ崎突破についても「不思議」「神仏の加護」があったことを記しています。
『新田正伝記』『新田族譜』
新田氏の家系や義貞の出自について記した史料です。義貞が里見氏からの養子であることを示唆する記述があります。
近年の研究
現代の歴史学では、義貞についての評価が見直されつつあります。
従来、義貞は「武勇に優れるが政治的センスに欠ける武将」として描かれることが多かったのですが、近年の研究では、義貞が鎌倉幕府時代から足利氏の指揮下にあったとする説や、「新田氏本宗家」という概念自体が『太平記』によって作り出されたフィクションであるという見解も出されています。
歴史学者の谷口雄太は、新田家は創設以来、足利家を宗家とする庶家の一つに過ぎなかったとする説を唱えています。
義貞を祀る神社・史跡
藤島神社(福井県福井市)
明治3年(1870年)、義貞が戦死した灯明寺畷付近に建てられた祠堂を起源とします。現在は足羽山の中腹に移転し、義貞とその弟・脇屋義助、子の義顕・義興・義宗を祀っています。建武中興十五社の一つに数えられています。
生品神社(群馬県太田市)
義貞が挙兵した地として知られ、境内には義貞の銅像が建てられています。毎年5月8日には「鏑矢祭」が行われ、義貞の挙兵を再現しています。
称念寺(福井県坂井市丸岡町)
義貞の菩提寺で、境内北側に義貞の墓所があります。戦国武将・明智光秀が浪人時代に10年間門前に住んでいたことでも知られています。
灯明寺畷新田義貞戦歿伝説地(福井県福井市)
義貞が戦死したとされる場所で、国の史跡に指定されています。江戸時代に義貞の兜が発掘されたことから「新田塚」と呼ばれるようになりました。
まとめ
新田義貞は、鎌倉幕府を滅ぼした英雄でありながら、悲運の最期を遂げた武将です。
義貞の生涯のポイント
- 源氏の名門:足利尊氏と同じ祖先を持ちながら、不遇の時代を過ごした
- 鎌倉幕府滅亡:わずか150騎での挙兵から15日で幕府を滅ぼす快挙
- 稲村ヶ崎の龍神伝説:黄金の太刀を海に投げ入れて潮を引かせたという劇的な伝説
- 建武の新政:武者所頭人など要職を歴任するも、足利尊氏との対立が深まる
- 忠義の武将:後醍醐天皇への忠誠を最後まで貫いた
- 越前での最期:藤島の戦いで壮絶な戦死を遂げる
義貞が現代に伝えるもの
義貞の生涯は、「忠義」と「誠実さ」の意味を私たちに問いかけています。
政治的な駆け引きよりも信念を貫くことを選んだ義貞。その不器用なまでの誠実さは、足利尊氏との勝負では敗北をもたらしましたが、後世の人々の心を打ち続けています。
明治時代には南朝の忠臣として正一位を追贈され、「七里ヶ浜の磯づたい 稲村ヶ崎名将の 剣投ぜし古戦場」と唱歌に歌われました。
群馬に生まれ、鎌倉幕府を滅ぼし、越前の地で命を落とした新田義貞。その劇的な生涯は、690年以上経った今も、多くの人々を魅了し続けているのです。


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