あなたは、世界最古の文明の一つ、メソポタミアで崇められた「母なる大地」の存在を知っていますか?
紀元前3000年以上も前、現在のイラク周辺に栄えた古代シュメール文明では、大地そのものを神格化した偉大な女神が信仰されていました。その名もニンフルサグ――「山の女主人」と呼ばれ、すべての生命を生み出す力を持つとされた母神です。
多くの王たちが「彼女の乳で育てられた」と称え、守護神として崇めたこの女神には、どんな秘密が隠されているのでしょうか。
この記事では、シュメール神話における最重要女神の一人「ニンフルサグ」について、その神秘的な姿や特徴、興味深い神話をわかりやすくご紹介します。
概要

ニンフルサグは、シュメール・アッカド神話における偉大なる母神です。
メソポタミア(現在のイラク周辺)で紀元前3000年頃から崇拝されていた古い神様で、大地の豊かさや生命の誕生を司る女神として知られています。
シュメール神話には「運命を定める7人の神々」という特別な神々のグループがあるのですが、ニンフルサグはその中でも筆頭格の地母神とされる重要な存在なんです。
地母神というのは、大地を母親のように見立てた神様のこと。私たちが住む大地が、植物や動物、すべての生命を育む母のような存在だと考えたんですね。
彼女は神々だけでなく、人間の王たちにとっても特別な存在でした。バビロニアのネブカドネザル1世をはじめ、多くの王が「ニンフルサグの子供」と自称し、彼女を守護女神として崇めたと記録されています。
系譜
ニンフルサグの家族関係は、時代や地域によって少しずつ違いがあります。
配偶神(夫)
主な夫とされるのは、以下の神々です:
- シュルパエ: 最もよく知られた配偶神で、「愛する夫」と呼ばれた
- エンキ(エア): 知恵と水の神。神話『エンキとニンフルサグ』で夫婦として登場
- エンリル: 風の神。ラガシュ地方では妻とされた
面白いことに、ニンフルサグは時にエンリルの妻でありながら姉とも記されています。これは、古い時代の伝承ではエンリルの配偶神だったのが、後の時代にニンリルという別の女神がエンリルの妻とされたため、関係性が調整されたからなんですね。
子供たち
ニンフルサグには多くの子供がいたとされています。
主な子供:
- ニンギルス(ニヌルタ): 戦いと農耕の神。最も有名な息子
- アシュギ: シュルパエとの子
- パニギンガラ: 母と共に文書に登場する
- リシン: 穀物の女神
- エギメ: アダブの神殿に住んだ
古代の神話『エンキとニンフルサグ』では、ニンサル、ニンクルラ、ウットゥという娘たちも登場します。ただし、これらは後にニンフルサグと同一視された可能性がある女神たちです。
姿・見た目
ニンフルサグの姿は、古代の美術品や彫刻から知ることができます。
典型的な姿
ニンフルサグの外見的特徴:
- 頭飾り: 角のついた冠をかぶっている(神性の象徴)
- 髪型: オメガ(Ω)の形に整えられていることが多い
- 服装: 段々になったスカート(ティアードスカート)
- 持ち物: 肩に矢筒を背負っている
- 従者: つながれたライオンの子を伴うこともある
角のついた冠は、メソポタミアの神々に共通する特徴で、神様であることを示すアイテムなんです。
シンボル
ニンフルサグを表すシンボルには、いくつかの種類があります。
主なシンボル:
- オメガ記号(Ω): ギリシャ文字のオメガに似た形で、女性の子宮を図案化したものとされる
- 鹿: 雄鹿と雌鹿の両方。山に住む野生動物との関連を示す
- 山: 「山の女主人」という称号にふさわしく、山の上に座る姿で描かれる
オメガのシンボルは、紀元前3000年頃から約2000年代前半の美術品に見られます。境界石(クドゥル)と呼ばれる重要な石碑の最上段に刻まれていることから、ニンフルサグがいかに重要な女神だったかがわかるんです。
興味深いことに、マリ遺跡から発掘された石板には、顔のような形の中に10頭の鹿が植物を食べている様子が彫られていて、これもニンフルサグを表していると考えられています。
特徴

ニンフルサグには、地母神ならではの特別な役割と力があります。
生命を生み出す力
ニンフルサグの最も重要な特徴は、生命を宿し形作る力です。
彼女のシンボルである子宮は、まさにこの力を象徴しています。夫である知恵の神エンキと共に、植物を始めとする様々な存在を生み出したとされているんです。
産婆と乳母の役割
ニンフルサグは、ただ生命を生み出すだけではありません。
彼女の役割:
- 神々の産婆: 神々が生まれる際の助産婦
- 人間の産婆: 人類創造の際にも産婆として活躍
- 王たちの乳母: 地上の王たちを育てる乳母
シュメールの神殿に伝わる聖歌には「天における真に偉大なる女神」と記され、歴代の王たちは「ニンフルサグの乳により養われた」と語ったそうです。これは、王の権威が神から授けられたものだという考え方を示しているんですね。
多くの名前
ニンフルサグは、非常に多くの別名を持つ女神としても知られています。
主な別名:
- ニンマー(偉大なる女王)
- ニントゥ(出産の女神)
- ママ/マミ(母)
- アルル(エンリルの妹)
- ベレト・イリー(神々の中の貴婦人)
- ディンギルマハ(偉大な女神)
これらの名前の一部は、もともと別々の女神を指していたものが、時代が下るにつれてニンフルサグと習合(一つにまとまること)したものです。
穀物の女神ニンリルや出産の女神ニンスンなど、豊穣に関わる女神たちが次々とニンフルサグと同一視されていったことからも、彼女がいかに重要な存在だったかがわかります。
潔癖な性格
神話の中のニンフルサグは、非常に潔癖な性格の持ち主として描かれています。
夫エンキの不義や乱行に対して、強い怒りを示し、呪いで報いたという物語が残されているんです。これについては、次の「神話・伝承」のセクションで詳しく見ていきましょう。
神話・伝承

ニンフルサグが登場する神話は、いくつか伝わっています。中でも最も有名なのが『エンキとニンフルサグ』という物語です。
『エンキとニンフルサグ』の物語
この神話の舞台は、ディルムンという楽園です。
ディルムンは病気も死も存在しない理想郷でした。獣による殺戮も、老いも死も、洪水すら起こらない場所だったと伝えられています。
楽園での出来事
物語は、こんな風に展開していきます。
最初、エンキ(原文ではエンキ)とニンフルサグは大地のように横たわり、共に眠っていました。目が覚めると二人は激しく交わり、多くの神々を生み出したんです。
ところが、エンキの欲望は止まることを知りませんでした。子供たちが成長すると、今度は娘たちにも情欲を抱くようになり、さらには孫娘たちとまで関係を持ってしまったのです。
ニンフルサグの怒りと呪い
困り果てた子孫たちから相談を受けたニンフルサグは、烈火のごとく怒りました。
彼女はエンキに呪いをかけることにしたんです。「生命の眼差しでエンキを見ない」と宣言したのです。
別の伝承では、子孫たちに策略を授け、エンキの子孫である8種類の植物を彼自らが食べるように仕向けたとも言われています。
エンキの病と再生
この呪いのため、エンキは体の8つの部分を病んでしまいました。
この病から逃れるために、エンキは一度ニンフルサグの子宮に入り、生まれ直す必要があったというから驚きです。まさに母なる女神の力を借りた再生の物語なんですね。
最終的に、ニンフルサグはエンキを許し、彼の体から病んだ部分を取り除きました。そして、それぞれの部分から8柱の神々(アブー、ニントゥルラ、ニンストゥ、ニンカシ、ナンシェ、ダジムア、ニンティ、エンシャグ)を生み出したのです。
こうして、エンキは癒されました。
『エンキとニンマー』の物語
もう一つ重要な神話が、人類創造に関する『エンキとニンマー』です。
この物語では、エンキが水の女神ナンムの依頼を受けて人間を創造する場面が描かれています。
ニンマー(ニンフルサグの別名)は、産婆として人間の体を形作る手伝いをしたんです。エンキと共に粘土から人間を作り上げたとされています。
人間が完成すると、神々は宴会を開きました。そこでエンキとニンマーはビールを飲み、酔っ払って奇妙な競争を始めます。
ニンマーは7人の病気や障害を持つ人間を作り、エンキはそれぞれに社会での居場所を見つけてあげました。今度はエンキが、あまりにも重い障害を持った人間を作り、ニンマーは居場所を見つけられずに負けてしまったという話です。
その他の神話での登場
ニンフルサグは、他の神話にも簡潔に登場します。
『鍬を作りし者』: エンキが作った「鍬」によって現れた人間(最初は植物のようだった)を、ニンフルサグが完成させたとあります。
『アンズー叙事詩』: 息子ニヌルタを支持する母として登場し、「すべての神々の女主人」という称号で呼ばれています。
『ニヌルタの功業』: 息子ニヌルタが山地を征服し、倒した敵の体を積み上げて大きな塚を作りました。この塚を母に捧げたことで、彼女の名前が「ニンマー」から「ニンフルサグ(山の塚の女主人)」に変わったとされています。
出典・起源

ニンフルサグ信仰の起源は、非常に古い時代にさかのぼります。
歴史的起源
ニンフルサグの原型は、大地の女神キであるとする見方があります。
キは天の神アンの配偶神とされる大地の女神で、シュメール神話の創世記にわずかに登場する存在です。ただし、キを独立した女神とみなすかどうかについては、学者の間でも意見が分かれています。
信仰の広がり
ニンフルサグは特定の大都市の守護神ではありませんでした。代わりに、小さな町や村で広く信仰されたのが特徴なんです。
主な信仰地域と神殿:
- アダブ: ディンギルマハ(偉大な女神)という名で崇拝。神殿エマハがあった
- ケシュ: シュルパエと共に崇拝。神殿エサギラがあった
- エリドゥ: クフール(神聖な山)に神殿エサギラ
- キシュ: 神殿が存在
- ニップール: ウル第3王朝時代(紀元前2100年頃)に神殿
- ウル: 初期王朝時代(紀元前2600-2350年頃)の神殿が発掘された
- マリ: ニンフルサグの名で崇拝
イギリスの考古学者レナード・ウーリーが発掘したウルの神殿には、「ウルの王アアンネパダは、ウルの王メサンネパダの息子として、この神殿を女主人ニンフルサグのために建てた」という奉献文が残されています。
シンボルの歴史
ニンフルサグのシンボルであるオメガ記号は、紀元前3000年頃から使用されたと考えられています。
一般的なものは紀元前2000年代前半のものですが、最も古いものは紀元前3000年頃までさかのぼるんです。
境界石(クドゥル)という重要な石碑では、通常、都市国家の守護神たちが複数段に描かれるのですが、ニンフルサグのシンボルは上段に配置されることが多いんです。これは彼女の地位の高さを示しています。
信仰の変遷
古い時代には、ニンフルサグは最高位の女神だったと考えられています。
しかし、時代が下ると、風の神エンリルの妻ニンリルがその地位を占めるようになりました。それでも、ニンフルサグは出産や豊穣の女神として重要性を保ち続けたんです。
古バビロニア時代(紀元前1900-1600年頃)には、他の出産女神たちと習合が進み、ベレト・イリー(神々の貴婦人)という名でも広く崇拝されるようになりました。
まとめ
ニンフルサグは、古代メソポタミアで数千年にわたって崇拝された偉大な母神です。
重要なポイント:
- シュメール・アッカド神話における最重要の地母神・豊穣神
- 「山の女主人」という称号を持ち、大地そのものを神格化した存在
- 生命を宿し形作る力を持ち、神々と人間の産婆を務めた
- 多くの王たちが「彼女の乳で育てられた」と称える守護女神
- オメガ記号と鹿がシンボル
- 『エンキとニンフルサグ』では潔癖な性格で夫の不義を呪いで罰した
- 人類創造の神話でも重要な役割を果たした
- 紀元前3000年頃から信仰され、多くの別名と神殿を持った
現代の私たちからすると遠い昔の神話ですが、ニンフルサグの物語は、古代の人々が大地の恵みと生命の神秘をどれほど敬っていたかを教えてくれます。母なる大地への感謝の気持ちは、今も昔も変わらないのかもしれませんね。


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