「大化の改新」という言葉を聞いたことがありますか?
日本の歴史を学ぶ上で必ず登場するこの出来事。その中心人物こそが、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)です。
彼は後に第38代天智天皇として即位し、日本という国の形を大きく変えた改革者でした。蘇我氏という巨大な権力を打倒したクーデター、唐の制度を取り入れた政治改革、そして朝鮮半島での大敗北まで、波乱に満ちた人生を送っています。
しかし「名前は知っているけど、具体的に何をした人なの?」「蘇我入鹿を殺したのは知ってるけど、その後は?」という方も多いのではないでしょうか。
この記事では、中大兄皇子の生涯と功績を、時代背景とともにわかりやすく解説していきます。
中大兄皇子の基本情報

まずは基本的な情報を整理しておきましょう。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 生没年 | 626年〜672年(46歳で崩御) |
| 別名 | 葛城皇子(かつらぎのおうじ)、天智天皇 |
| 父 | 舒明天皇(じょめいてんのう) |
| 母 | 皇極天皇/斉明天皇(こうぎょくてんのう/さいめいてんのう) |
| 在位期間 | 668年〜672年(天智天皇として) |
「中大兄」という名前には意味があります。「大兄」とは同じ母から生まれた兄弟の中の長男に与えられる称号で、「中大兄」は「2番目の大兄」を意味しているんです。異母兄の古人大兄皇子に次ぐ存在だったことを示しています。
両親がともに天皇という、皇族の中でも最も高貴な血筋でした。
時代背景:なぜ改革が必要だったのか
中大兄皇子が活躍した7世紀の日本は、大きな転換期を迎えていました。
蘇我氏の専横
622年に聖徳太子が亡くなると、大豪族の蘇我氏を抑える者がいなくなってしまいます。蘇我馬子、蘇我蝦夷(えみし)、蘇我入鹿(いるか)と三代にわたって権力を独占し、その勢いは皇室をも凌ぐほどになっていました。
特に入鹿の専横は激しく、643年には聖徳太子の子である山背大兄王(やましろのおおえのおう)と一族をことごとく滅ぼすという暴挙に出ます。この事件は、多くの人々の反感を買うことになりました。
東アジアの緊迫した情勢
618年に中国大陸で唐が成立すると、周辺諸国に大きな影響を及ぼし始めます。唐は高句麗への遠征を繰り返し、朝鮮半島では高句麗・百済・新羅の三国が激しく争っていました。
日本も唐の脅威にさらされているという危機感があったんです。国をまとめ、中央集権的な体制を整えなければ、いつ侵略されてもおかしくない状況でした。
運命の出会い:中臣鎌足との邂逅
若き中大兄皇子が歴史の表舞台に立つきっかけとなったのが、中臣鎌足(なかとみのかまたり)との出会いです。
蹴鞠の会での出来事
『日本書紀』によると、645年、飛鳥寺の西にある槻(つき)の木の広場で蹴鞠(けまり)の会が催されていました。中大兄皇子が勢いよく蹴りすぎて、皮の靴が脱げて飛んでしまいます。
それを見ていた中臣鎌足がその靴を拾い、ひざまずいて恭しく差し出しました。皇子もまたひざまずいて靴を受け取ります。この出会いがきっかけで、二人は親交を深めていくことになったのです。
多武峰での密談
二人は南淵請安(みなみぶちのしょうあん)という学者の私塾で学びながら、その往復の道で蘇我氏打倒の密談を重ねました。
奈良県の多武峰(とうのみね)という山に登り、クーデターの計画を練ったとされています。後にこの山は「談山(かたらいやま)」と呼ばれるようになり、現在の談山神社の名前の由来となりました。
中臣鎌足はこのとき32歳、中大兄皇子は20歳。10歳以上年上の鎌足が、若き皇子を支えながら計画を進めていったのです。
乙巳の変:蘇我氏打倒のクーデター
645年6月12日(旧暦)、ついにその時が訪れます。
綿密な計画
中大兄皇子と中臣鎌足は、蘇我一族の長老である蘇我倉山田石川麻呂(そがのくらやまだのいしかわまろ)を仲間に引き入れました。
入鹿の従兄弟でありながら、蘇我本家に対する不満を持っていた人物です。
計画では、石川麻呂が朝廷の儀式で上表文を読み上げ、それを合図に入鹿を討つ手はずでした。
決行の日
雨の降る日、皇極天皇の飛鳥板蓋宮(あすかのいたぶきのみや)で、三韓(高句麗・百済・新羅)の使者が貢物を捧げる儀式が行われようとしていました。
大殿には皇極天皇、古人大兄皇子、そして蘇我入鹿。柱の陰には長槍を持った中大兄皇子、弓矢を持った中臣鎌足、そして刺客が息を潜めています。
石川麻呂が上表文を読み始めますが、刺客たちは入鹿を恐れて飛び出せません。石川麻呂の声が震え始めます。不審に思う入鹿に「帝の前だから緊張しているのです」と答える石川麻呂。
その瞬間、痺れを切らした中大兄皇子自らが飛び出し、剣で入鹿の頭から肩にかけて斬りつけました。
「私に何の罪があるのでしょうか」と血を流してうめく入鹿。「皇子を殺して、天皇の力を衰えさせようとしている」と中大兄皇子は答えます。
驚いた皇極天皇は奥へと立ち去り、刺客たちがさらに斬りつけて入鹿は息絶えました。
蘇我氏の滅亡
入鹿の遺体が父・蝦夷のもとに届けられると、甘樫丘(あまかしのおか)の邸宅に立てこもった蝦夷も、翌日には邸宅に火を放って自害します。
こうして、稲目・馬子・蝦夷・入鹿と4代にわたって権力を握っていた蘇我氏本家は滅亡しました。中大兄皇子20歳、中臣鎌足32歳のときのことです。
この事件を、その年の干支から「乙巳の変(いっしのへん)」と呼びます。
乙巳の変の真相:異なる説も
ただし、この出来事については異なる見方も存在します。
従来の説では、蘇我氏の横暴に対して正義の鉄槌を下したというストーリーです。
一方、近年の研究では別の解釈も提唱されています。例えば、真の首謀者は中大兄皇子や中臣鎌足ではなく、軽皇子(後の孝徳天皇)だったという説があります。また、蘇我氏が「開明派」として唐との協調外交を進めていたのに対し、「百済重視」の保守派がこれを倒したという外交路線をめぐる対立だったという見方も。
蘇我入鹿が本当に暴君だったのかについても、歴史家の間では議論が続いているんです。
大化の改新:日本を変えた政治改革
乙巳の変の後、本格的な政治改革が始まります。
新政権の発足
皇極天皇は弟の軽皇子に譲位し、孝徳天皇が即位しました。中大兄皇子は皇太子となり、中臣鎌足は内臣(うちつおみ)に任じられます。
646年には日本初の元号「大化」が定められました。そう、これが「大化の改新」の「大化」の由来なんです。
改新の詔
646年正月、孝徳天皇は「改新の詔(かいしんのみことのり)」を発布します。その内容は以下のようなものでした。
改新の詔の四箇条
- 公地公民制:土地と人民は天皇のものとする(私有地・私有民の廃止)
- 国郡制度:地方を国・郡・里に分ける行政区画の設定
- 班田収授法:戸籍を作り、人々に口分田を貸し与える
- 租庸調の税制:新しい税の仕組みを定める
これらは唐の律令制度を参考にした、天皇を中心とする中央集権国家を目指すものでした。
改革の実態をめぐる議論
ただし、この改新の詔についても研究者の間で議論があります。
『日本書紀』に記された内容は、後の時代に書き換えられた部分があることが明らかになっているんです。1967年に発掘された木簡の内容から、改革の実態は従来考えられていたものとは異なる可能性が指摘されています。
また、改新を主導したのは中大兄皇子や中臣鎌足だという従来の見方に対し、孝徳天皇自身が主導して改革を進めたという説も有力になってきました。
いずれにせよ、この時期に大きな政治改革が行われたことは確かで、それが後の律令国家の基礎となったのです。
白村江の戦い:日本初の対外戦争と大敗北
大化の改新から約20年後、中大兄皇子は大きな決断を迫られます。
百済の滅亡
660年、日本と友好関係にあった百済が、唐と新羅の連合軍に滅ぼされてしまいます。百済の遺臣たちは国の再興を目指し、日本に滞在していた百済の王子・豊璋(ほうしょう)の送還と援軍の派遣を求めてきました。
中大兄皇子は、百済を復興して朝鮮半島における日本の影響力を取り戻そうと考え、出兵を決意します。
斉明天皇の崩御と称制
661年、中大兄皇子は母・斉明天皇(皇極天皇が重祚)とともに筑紫(九州)に出征します。しかし、斉明天皇はこの地で崩御してしまいました。
このとき中大兄皇子は正式に即位せず、皇太子のまま「称制(しょうせい)」という形で政務を執り、戦争を指導することになります。
白村江の大敗
663年8月、朝鮮半島南西部の白村江(はくすきのえ)で、日本・百済連合軍と唐・新羅連合軍が激突しました。
日本軍は約27,000人、船は約1,000隻という大軍でしたが、結果は惨敗。唐の水軍の火矢を用いた組織的な攻撃に太刀打ちできず、400隻以上の船が炎上したと伝えられています。
『旧唐書』には「海水は倭兵の血で赤く染まり」と記されているほどの壊滅的な敗北でした。これにより日本は朝鮮半島における足場を完全に失い、百済の復興も絶望的となったのです。
敗戦後の対応
白村江の敗戦は、日本に深刻な危機感をもたらしました。唐・新羅の連合軍がいつ攻めてくるかわからない状況だったからです。
中大兄皇子は国防を強化するため、様々な対策を講じます。
- 水城(みずき):664年、大宰府を守るため築造
- 大野城・基肄城:665年、筑紫太宰の防衛拠点として築造
- 高安城・屋島城など:瀬戸内海沿岸から大和にかけて朝鮮式山城を築造
- 近江遷都:667年、都を飛鳥から近江大津宮に移す
結果的に唐による侵攻は実現しませんでしたが、この敗戦がきっかけとなり、唐の制度を取り入れた律令国家の形成が本格的に進められることになったのです。
近江遷都と天智天皇の即位

大津宮への遷都
667年、中大兄皇子は都を飛鳥から近江国の大津宮(おおつのみや)に移しました。現在の滋賀県大津市にあたる場所です。
この遷都については、唐・新羅の脅威に備えて内陸部に都を移したという説が有力です。琵琶湖という水運を活かせる立地でもありました。しかし、臣下の中には反対する者も多く、遷都に対する不満から火災が相次いだとも伝えられています。
天智天皇として即位
668年、中大兄皇子はついに正式に即位し、天智天皇となりました。このとき42歳。斉明天皇の崩御から7年間も即位を先延ばしにしていたのは、白村江の戦いへの対応に追われていたためと考えられています。
即位に際して「天皇(てんのう)」という称号が用いられました。これは天皇の神聖な起源を強調し、政治的な争いから超越した存在であることを示す意図がありました。
天智天皇の功績
即位後、天智天皇は様々な改革を推進します。
庚午年籍の作成
670年、日本初の全国規模の戸籍である「庚午年籍(こうごねんじゃく)」を作成しました。
これは人民の所在を正確に把握し、徴兵と徴税を確実に行うためのものです。唐の脅威に備える上で必要不可欠でした。この戸籍により、租税収入の予測が容易になり、中央集権国家の基礎が固まっていきます。
近江令の編纂
天智天皇は中臣鎌足(このとき藤原鎌足と改名)らに命じて、「近江令(おうみりょう)」という法典を編纂させたとされています。
ただし、近江令が実際に存在したかどうかについては、研究者の間で議論があります。存在を肯定する説と否定する説があり、決着はついていません。
水時計の製作
天智天皇は科学技術にも関心を持っていました。671年、日本で初めての水時計「漏刻(ろうこく)」を完成させ、時刻を知らせる制度を始めたのです。
遣唐使が持ち帰った「水ばかり」(水準器のようなもの)を見て興味を持ち、唐で学んできた人々の協力を得て製作したと伝えられています。皇太子時代から取り組んでいた事業でした。
現在の6月10日「時の記念日」は、天智天皇が日本で初めて時刻を知らせた日に由来しています。
藤原姓の下賜
669年、病床に伏した中臣鎌足を天智天皇は自ら見舞い、「藤原」の姓を与えました。同時に最高位の大織冠(たいしょくかん)と内大臣の位を授けています。
鎌足はその翌日に56歳で亡くなりましたが、彼の子孫は「藤原氏」として後の日本史で大きな影響力を持つことになります。奈良時代・平安時代を通じて最も有力な貴族として栄えた藤原氏の祖が、中臣鎌足なのです。
晩年と後継者問題
天智天皇の晩年は、後継者問題に揺れました。
大友皇子と大海人皇子
天智天皇には、弟の大海人皇子(おおあまのおうじ)がいました。大海人皇子は兄と同じく舒明天皇と皇極天皇を両親に持つ同母弟で、長らく皇太子として次期天皇と目されていた人物です。
しかし天智天皇は晩年、自分の息子である大友皇子を後継者にしたいと考え始めます。671年10月、大友皇子を太政大臣に任命し、後継とする意思を示しました。
大海人皇子の吉野隠棲
病に臥した天智天皇は大海人皇子を呼び、皇位を譲ると申し出ます。しかし大海人皇子はこれを辞退し、自ら出家を申し出て吉野宮に下りました。
これを見送った臣下の中には、武勇に優れた大海人皇子が吉野に向かう姿を見て「虎に翼をつけて放つようなものだ」と評する者もいたと伝えられています。
天智天皇の崩御
671年12月3日(旧暦)、天智天皇は近江宮近くの山科で崩御しました。46歳でした。
御陵は京都市山科区の御廟野古墳(ごびょうのこふん)で、宮内庁により「天智天皇 山科陵」として治定されています。
壬申の乱:天智天皇の死後
天智天皇の死から半年後、日本古代史上最大の内乱が勃発します。
乱の勃発
672年6月、吉野に隠棲していた大海人皇子が挙兵しました。近江朝廷が自分の命を狙っているという情報を得たためです。
わずか20人ほどの従者とともに吉野を出発した大海人皇子は、伊賀・伊勢・美濃と進む中で次々と地方の豪族を味方につけていきます。一方、大友皇子側の近江朝廷は指揮系統の混乱から対応が後手に回りました。
大海人皇子の勝利
各地で連勝を重ねた大海人皇子軍は、7月22日の瀬田橋の戦いで近江朝廷軍を大破。翌23日、追い詰められた大友皇子は自害し、「壬申の乱(じんしんのらん)」は終結しました。
その後の影響
壬申の乱に勝利した大海人皇子は、翌673年に天武天皇として即位します。都は再び飛鳥に戻され、天皇を中心とした中央集権化がさらに進められました。
皮肉なことに、それは確執から袂を分かった兄・天智天皇と同じ方向性を持つものでした。天武天皇の系統はその後も続き、称徳天皇まで8代にわたって皇位を継ぎます。
しかし称徳天皇の崩御後、天智天皇の孫にあたる白壁王が光仁天皇として即位。以後、現在に至るまで天智天皇の男系子孫によって皇位が継承されているのです。
中大兄皇子の人物像

歴史上の偉人として語られることの多い中大兄皇子ですが、その人物像はどのようなものだったのでしょうか。
決断力と行動力
乙巳の変では、刺客が恐れて動けない中、自ら飛び出して蘇我入鹿に斬りかかりました。わずか20歳の若さで、当時最大の権力者に立ち向かった勇気と決断力は特筆に値します。
また、白村江の敗戦後も動揺せず、国防体制の強化や遷都など次々と対策を講じた点からも、冷静な判断力が伺えます。
改革者としての側面
唐の先進的な制度を積極的に取り入れ、日本の政治体制を根本から変えようとした改革者でもありました。公地公民制、戸籍制度、新しい税制など、後の律令国家の土台を築いたのは大きな功績です。
知的好奇心
水時計の製作に自ら取り組んだエピソードからは、科学技術への関心と知的好奇心の高さが伺えます。
厳しい一面
一方で、権力を固めるために異母兄の古人大兄皇子を謀反の疑いで処刑するなど、冷酷な面もありました。
また、晩年に弟の大海人皇子を排除しようとしたことが壬申の乱を招いた点も、評価が分かれるところです。
現代への影響
中大兄皇子(天智天皇)は、現代の日本にも様々な影響を残しています。
百人一首の歌
「秋の田の 仮庵の庵の 苫をあらみ 我が衣手は 露に濡れつつ」
百人一首の第1番として知られるこの歌は、天智天皇の作とされています。
農民の苦労を思いやる内容で、為政者としての姿勢を表しているとも解釈されます。
時の記念日
6月10日の「時の記念日」は、天智天皇が日本で初めて漏刻(水時計)で時刻を知らせた故事に由来しています。
近江神宮
滋賀県大津市にある近江神宮は、天智天皇を祭神として1940年に創建されました。大津京の跡地に建てられ、「かるた祭り」や「競技かるた」の聖地としても知られています。
百人一首の最初の歌が天智天皇の作であることから、毎年1月に「かるた祭り」が行われ、競技かるた日本一を決める「競技かるた名人位・クイーン位決定戦」の会場にもなっているんです。
藤原氏の興隆
中大兄皇子とともに乙巳の変を起こした中臣鎌足に「藤原」の姓を与えたことで、後の藤原氏が誕生しました。
藤原氏は奈良・平安時代を通じて日本の政治を左右する最大の貴族となり、摂関政治の全盛期を築いています。
中大兄皇子と関連する史跡
実際に訪れることができる、中大兄皇子ゆかりの場所を紹介します。
| 史跡名 | 所在地 | 説明 |
|---|---|---|
| 飛鳥宮跡(伝飛鳥板蓋宮跡) | 奈良県高市郡明日香村 | 乙巳の変の舞台となった場所 |
| 談山神社 | 奈良県桜井市 | 中臣鎌足を祀る神社。密談の地「多武峰」にある |
| 入鹿の首塚 | 奈良県高市郡明日香村 | 飛鳥寺の西にある五輪塔 |
| 近江大津宮錦織遺跡 | 滋賀県大津市 | 天智天皇が遷都した大津宮の跡 |
| 近江神宮 | 滋賀県大津市 | 天智天皇を祀る神社 |
| 天智天皇陵(御廟野古墳) | 京都府京都市山科区 | 天智天皇の陵墓 |
| 水落遺跡 | 奈良県高市郡明日香村 | 日本初の水時計が設置された場所 |
まとめ
中大兄皇子(天智天皇)は、日本の歴史を大きく変えた人物でした。
- 20歳で蘇我氏を打倒する乙巳の変を起こし、政権を奪取
- 大化の改新を主導し、天皇を中心とする中央集権国家の土台を築く
- 朝鮮半島での白村江の戦いでは大敗するも、その後の国防体制を整備
- 庚午年籍の作成や近江令の編纂など、法制度の整備に尽力
- 日本初の水時計を作り、時刻を知らせる制度を始める
波乱に満ちた46年の生涯は、決して順風満帆ではありませんでした。白村江の大敗北、臣下の反対を押し切っての遷都、そして後継者問題に端を発する壬申の乱への布石。光と影の両面を持った人物だったと言えるでしょう。
しかし、彼が推し進めた改革がなければ、その後の律令国家・日本は生まれなかったかもしれません。現代の私たちが「日本」という国の枠組みの中で暮らしているのは、1400年近く前のこの人物の決断と行動があったからこそなのです。
「大化の改新」という歴史の教科書でおなじみの出来事。その背景には、若くして国の形を変えようとした一人の皇子の情熱と、それを支えた人々の物語がありました。


コメント