弱小領主から中国地方の覇者へ。
わずか一代で大勢力を築き上げた男——それが毛利元就です。
幼い頃に両親を亡くし、「乞食若様」とまで呼ばれた元就。
なぜ彼は、圧倒的に不利な状況から這い上がれたのでしょうか?
この記事では、知略と謀略を武器に戦国の世を生き抜いた毛利元就の生涯と、その驚くべき戦略を紹介します。
毛利元就とは?
毛利元就は、戦国時代の中国地方を統一した武将です。
1497年に安芸国(現在の広島県西部)で生まれ、1571年に75歳で亡くなるまで、200回以上もの合戦を戦い抜きました。
元就が生まれた頃、毛利家はただの小さな国人領主にすぎませんでした。
しかし元就は巧みな戦略と外交手腕で勢力を拡大し、最終的には安芸・備後・周防・長門・石見・出雲・伯耆・備中・美作・因幡の10ヶ国を支配する大大名となります。
特に有名なのが1555年の厳島の戦いです。
わずか4,000の兵で、陶晴賢の20,000の大軍を打ち破ったこの戦いは、日本三大奇襲戦の一つに数えられています。
苦難の幼少期
「乞食若様」と呼ばれた少年時代
元就の人生は、決して順風満帆ではありませんでした。
1500年、元就がわずか4歳のときに母が死去します。
さらに1506年、10歳のときには父・弘元も酒毒(飲酒による病気)で亡くなってしまいました。
両親を失った元就は、家臣に所領を横領され、城まで奪われます。
孤児となった元就は城を追い出され、「乞食若様」と呼ばれるほど貧しい暮らしを送ることになりました。
継母の愛情
そんな元就を救ったのが、父の後妻である杉大方でした。
杉大方は実家に戻ることもせず、元就を引き取って育てます。
のちに元就は長男への手紙で「11歳の孤児の私を再婚もせずに育ててもらった」と記し、杉大方への深い感謝の気持ちを綴っています。
この苦労の日々が、のちの元就の慎重で計算高い性格を形作ったのかもしれません。
初陣での大金星
家督相続への道
1516年、元就の兄・興元が父と同じく酒の飲みすぎで急死します。
家督は興元の幼い息子・幸松丸が継ぎ、元就がその後見人となりました。
ところが1523年、幸松丸もわずか9歳で病死。
次男だった元就に、27歳にして家督を継ぐ機会が巡ってきたのです。
有田中井手の戦い
元就が後見人を務めていた頃、大事件が起こります。
近隣の豪族・武田元繁が、幼い当主になった毛利家を侮り、約5,000の大軍で攻め込んできたのです。
対する毛利軍はわずか1,200〜2,000程度。
圧倒的に不利な状況でしたが、元就は奇襲作戦を仕掛けます。
1517年10月、有田中井手の戦いで元就は見事に武田軍を撃破し、武田元繁本人を討ち取る大金星を挙げました。
この勝利は「西国の桶狭間」とも呼ばれ、元就の名を一躍知らしめることとなります。
吉田郡山城の戦い
尼子氏の大軍との対峙
1540年、毛利家の台頭に危機感を抱いた出雲の尼子氏が、約30,000の大軍で元就の居城・吉田郡山城を攻撃しました。
圧倒的な兵力差。
しかし元就は籠城戦を選択し、徹底的に守りを固めます。
奇策と援軍
元就は夜になると、千足の草鞋に火をつけて川に流しました。
暗闇で揺れる無数の火が大軍の松明のように見え、尼子軍を動揺させたと言われています。
さらに大内氏からの援軍が到着すると、元就は一気に反撃。
数ヶ月に及ぶ戦いの末、尼子軍を撃退することに成功しました。
この勝利により、元就は安芸国の盟主的な地位を確立します。
厳島の戦い
主君を殺した陶晴賢
元就の最も有名な戦いが、1555年の厳島の戦いです。
元就は長年、周防・長門を支配する大内氏に従っていました。
しかし1551年、大内家の重臣・陶晴賢が謀反を起こし、主君の大内義隆を自害に追い込みます。
元就は大内義隆に仕えていた身。
さらに長男・隆元の妻が義隆の養女だったこともあり、陶晴賢に反発します。
こうして元就と晴賢の対決が避けられなくなりました。
圧倒的な兵力差
1555年の時点で、陶軍は約20,000。
対する毛利軍はわずか4,000程度でした。
正面からぶつかれば、毛利軍に勝ち目はありません。
そこで元就は、得意の謀略を駆使します。
巧妙な情報操作
まず元就は、陶軍の重臣筆頭・江良房栄を寝返らせようと工作しました。
これは失敗に終わりますが、元就は諦めません。
今度は「江良房栄が謀反を企てている」という噂を陶晴賢の周辺に流し続けたのです。
自らも主君を裏切った陶晴賢は、疑心暗鬼に陥ります。
そして1555年3月、晴賢は江良房栄を殺害してしまいました。
こうして陶軍は、戦う前から貴重な戦力を失ってしまったのです。
厳島への誘い込み
次に元就は、重臣の桂元澄に「毛利家を裏切るふり」をするよう命じます。
桂元澄は陶晴賢に偽の密書を送り、「宮島の開戦後、陶軍に寝返って吉田郡山城を攻める」と伝えました。
さらに「毛利軍は今、厳島に来られたら困る」という嘘の情報を流します。
陶晴賢の家臣の中には「これは罠だ、やめた方がいい」と進言する者もいました。
しかし圧倒的な兵力差への過信が災いし、晴賢は元就の策略に見事に引っかかります。
1555年9月21日、陶晴賢は500艘の船団を率いて厳島へと上陸しました。
村上水軍の協力
元就の勝利には、瀬戸内海の村上水軍の協力も欠かせませんでした。
元就は来島・能島・因島の村上三家に協力を求めます。
特に小早川隆景(元就の三男)の養女が来島村上氏に嫁いでいた縁を活用し、村上水軍を味方につけました。
村上水軍は厳島周辺の海域を封鎖し、陶軍の退路を断つ重要な役割を果たします。
暴風雨の夜の奇襲
9月30日夜、元就の本隊は暴風雨の中、厳島へ渡りました。
闇夜と大潮と豪雨。
視界は最悪でしたが、逆に言えば陶軍に気づかれずに上陸できる絶好の機会でした。
村上武吉の提案により、陶軍の船の艫綱を切断して潮流に流してしまいます。
こうして陶軍の退路を完全に断ったのです。
挟み撃ちと大勝利
10月1日早朝、太鼓の音を合図に毛利軍が一斉に攻撃を開始しました。
狭い島に閉じ込められた陶軍は、背後の山から攻めてくる元就の本隊と、正面から攻めてくる小早川隆景の別動隊に挟み撃ちにされます。
2万の大軍も、狭い場所では身動きが取れません。
陶軍は大混乱に陥り、総崩れとなりました。
陶晴賢は脱出を試みますが、船はすでに沖に流されていました。
進退窮まった晴賢は、35歳で自害して果てます。
厳島の戦いはわずか数時間で決着し、元就の大勝利に終わりました。
神域を汚した償い
戦いのあと、元就は重要なことをします。
神聖な厳島で戦を行ったことを詫びるため、戦死者や負傷者を対岸に移し、血で汚れた土砂をすべて削り取って海中に投じました。
回廊の板も新しく取り替え、残りは海水で洗って清めたのです。
この厳島の戦いをきっかけに、元就は山陰の尼子氏も制圧し、中国地方10ヶ国120万石を支配する大大名へとのし上がっていきます。
元就の戦略と戦術
謀略家としての顔
元就は正面からの力勝負を避け、常に知略を駆使しました。
偽の情報を流して敵を疑心暗鬼に陥れる。
味方のふりをして敵に近づく。
地形を利用して敵の動きを制限する。
元就自身、息子への手紙に「はかりごと多きは勝ち、少なきは負け候と申す(謀略が多い方が勝ち、少ない方が負ける)」と記しています。
同盟と養子戦略
元就が特に重視したのが、同盟と養子戦略でした。
次男・元春を吉川氏に、三男・隆景を小早川氏に養子として送り込むことで、有力一族を毛利家に取り込みます。
この「毛利両川体制」により、毛利家は強固な基盤を築くことができました。
情報収集の徹底
元就は常に間者(スパイ)を抱え、敵の動向を細かく把握していました。
厳島の戦いの成功も、徹底した情報収集と分析があったからこそです。
「敵と己を知る」ことを誰よりも実践した武将と言えるでしょう。
毛利両川体制
三人の息子たち
元就には9男2女の子どもがいましたが、特に有名なのが長男・隆元、次男・元春、三男・隆景の三兄弟です。
毛利隆元
元就の嫡男として毛利家の家督を継ぎました。
端整な容姿に恵まれ、内政に優れた人物でしたが、1563年に41歳で急死します。
吉川元春
元就の次男で、吉川家を継ぎました。
家中随一の猛将として知られ、山陰地方を担当します。
小早川隆景
元就の三男で、小早川家を継ぎました。
元就の知略を受け継いだ知将として、山陽地方を担当しました。
結束の力
元就は、毛利本家を中心に、吉川家と小早川家が両翼を担う体制を構築しました。
この「毛利両川体制」により、毛利家は一族の結束を保ち、安定した支配を実現したのです。
三子教訓状と「三本の矢」
三子教訓状とは?
「三本の矢」の逸話をご存知の方も多いでしょう。
元就が三人の息子に矢を渡し、「一本なら簡単に折れるが、三本束ねたら折れない。三人が力を合わせれば毛利家は安泰だ」と諭した——という話です。
しかし実は、この話は後世に創作された逸話なのです。
実際に元就が書いたのは「三子教訓状」という書状でした。
三子教訓状の内容
1557年11月25日、元就は周防国富田の勝栄寺で、三人の息子に宛てて約3メートルにも及ぶ長文の書状を書きました。
内容は14条からなり、「兄弟が結束して毛利家を守れ」「厳島神社への信仰を大切にせよ」「慢心するな」など、家の存続のための教訓が詰まっています。
元就は筆まめで知られており、数メートルにわたって同じことを繰り返し書くこともありました。
息子たちは「ねちっこい手紙」に辟易していたかもしれません。
なぜ「三本の矢」の話が生まれたのか?
実は、元就の死(1571年)より8年も前の1563年に、長男・隆元はすでに亡くなっています。
元就の臨終の際、三兄弟全員が揃うことは不可能だったのです。
「三本の矢」の逸話は、三子教訓状の内容をもとに、後の時代に分かりやすく物語化されたものと考えられています。
しかし創作であっても、元就が一族の結束を何より大切にしたことは間違いありません。
晩年と死
天下を望まず
元就は中国地方を平定したあとも、天下を取ろうとはしませんでした。
遺言にも「毛利家は天下の争いには深入りせず、自分たちの国を守ることに専念しなさい」と残しています。
これは当時の常識的な考え方でした。
信長や秀吉のように天下統一を目指す武将の方が、むしろ例外的だったのです。
75年の生涯
1560年代前半、元就は60歳を過ぎた頃から何度も体調を崩すようになります。
足利将軍家の医師による治療を受けながら、戦国の世を生き抜き続けました。
1571年6月14日、元就は老衰(食道癌との説もあり)により75年の生涯を閉じます。
ちなみに元就は70歳のときに最後の子どもをもうけており、晩年まで健在だったことが窺えます。
家族思いの一面
策略家として知られる元就ですが、実は家族思いな一面もありました。
「兄弟仲良くせよ」「家臣を大切にせよ」「酒はほどほどに」
父と兄を酒で亡くした元就は、自らは酒を嗜まず、手紙で家族への思いやりを伝え続けました。
家臣や領民からの信頼も厚く、カリスマとして慕われたのです。
まとめ
毛利元就の生涯をまとめると、こうなります。
- 幼少期に両親を亡くし、「乞食若様」と呼ばれる苦難の日々を送る
- 27歳で家督を継ぎ、初陣で大金星を挙げる
- 1555年の厳島の戦いで陶晴賢を破り、中国地方の覇者となる
- 謀略と情報操作を駆使した戦略家として知られる
- 「毛利両川体制」により一族の結束を重視
- 「三本の矢」の逸話は創作だが、元となった「三子教訓状」は実在
- 75歳まで生き、200回以上の合戦を経験
- 天下を望まず、毛利家の存続を第一に考えた
弱小領主から一代で中国地方を統一した毛利元就。
その成功の秘訣は、圧倒的な知略と、家族・家臣への深い思いやりにあったのかもしれません。
力ではなく「知」と「団結」で戦国の世を生き抜いた元就の生き様は、現代にも通じる教訓を与えてくれます。


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