「森蘭丸の父」と聞いて、ピンとくる方も多いのではないでしょうか。
しかし、森可成(もり よしなり)という武将は、息子の蘭丸以上に波乱万丈な人生を歩んだ人物なんです。
織田信長がまだ「うつけ者」と呼ばれていた若き日から仕え、数々の戦場で槍を振るい続けた歴戦の猛将。
その勇猛果敢な戦いぶりから「攻めの三左」の異名で恐れられました。
この記事では、信長の天下布武を支えた名将・森可成の生涯を詳しく紹介していきます。
森可成の基本情報
森可成は大永3年(1523年)、尾張国葉栗郡蓮台(現在の岐阜県羽島郡笠松町)に生まれました。
父は森可行、通称は「三左衛門」といいます。
森家の家系はかなり由緒正しいものでした。
源氏の名門・河内源氏の流れを汲み、あの八幡太郎義家の七男・源義隆を祖先に持つとされています。
代々、美濃国の守護大名・土岐氏に仕えてきた一族だったんですね。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 生年 | 大永3年(1523年) |
| 没年 | 元亀元年9月20日(1570年10月19日) |
| 享年 | 48歳 |
| 出身 | 尾張国葉栗郡蓮台(現・岐阜県羽島郡笠松町) |
| 通称 | 三左衛門 |
| 異名 | 攻めの三左 |
| 主な役職 | 美濃金山城主、近江宇佐山城主 |
織田信長との出会い
可成が仕え始めた頃の土岐氏は、斎藤道三によって勢力を削られつつありました。
天文11年(1542年)、斎藤道三が土岐頼芸を追放すると、父・可行は密かに尾張国の織田信秀のもとを訪れ、誼を通じるようになります。
そして天文23年(1554年)までには、可成も父とともに織田信長に仕えることになりました。
この時、信長はまだ20代前半。
「うつけ者」と呼ばれ、身内からも反発を受けていた不安定な時期です。
そんな若き信長のもとに、30歳を過ぎた経験豊富な槍の名手がやってきたわけですから、信長にとってはどれほど心強かったことでしょう。
教育係だった平手政秀を失った直後だったこともあり、信長は可成の加入を大いに喜んだといわれています。
「攻めの三左」の由来と十文字槍
森可成といえば、何といっても「攻めの三左」という異名が有名です。
通称の「三左衛門」と、攻撃的な戦いぶりを掛け合わせたこの呼び名は、彼の武勇を端的に表しています。
可成が愛用していたのは、関兼定(または関兼貞)銘の十文字槍でした。
通常の槍が「突く」動作に特化しているのに対し、十文字槍は左右に枝刃があるため、敵を引っ掛けたり、払ったり、切りつけたりと多彩な技が可能です。
これを自在に操るには卓越した技術と体力が必要で、まさに可成の武勇を象徴する武器だったんですね。
ちなみに、戦で指を一本失っており、手足の指が合わせて19本だったことから「十九」という蔑称で呼ばれることもあったとか。
それでも槍を振るい続けた可成の執念には、敵ながら畏怖を感じずにはいられません。
織田家での主な戦歴
可成は織田家に仕えてから、信長の参加するほぼ全ての戦に従軍しています。
その参戦率は驚異的で、信長の尾張統一から上洛まで、常に最前線で戦い続けました。
清洲城攻め(1555年)
信長に仕えて間もない天文24年(1555年)5月、可成は早速大きな功績を挙げます。
尾張守護・斯波義統を殺害した織田信友を攻めた際、可成は敵大将・信友の首級を挙げる大手柄を立てました。
新参者にして敵の総大将を討ち取るとは、さすがの働きです。
長良川の戦い(1556年)
弘治2年(1556年)4月、美濃国で斎藤道三と息子・義龍の間で争いが起きます。
信長は義父である道三を助けるために出陣し、可成も従軍しました。
結果として道三は敗死してしまいますが、可成は退却戦で獅子奮迅の活躍を見せます。
斎藤方の千石又一と激しく渡り合い、肘を負傷しながらも撤退の時間稼ぎに成功。
織田軍を無事に退却させた功労者となりました。
稲生の戦い(1556年)
同年8月、信長にとって最大の危機が訪れます。
弟・織田信行が反旗を翻し、家老の林秀貞や柴田勝家もこれに加担したのです。
数で劣る信長軍は追い詰められ、本陣にはわずか40人ほどしか残っていないという絶体絶命の状況に。
この時、信長の前に立って奮戦したのが森可成でした。
清洲衆の土田の大原という武将を返り討ちにするなど懸命に戦い、信長の危機を救ったのです。
桶狭間の戦い(1560年)
永禄3年(1560年)、今川義元が2万5千とも言われる大軍で尾張に侵攻してきます。
多くの武将が様子見を決め込む中、可成は信長の奇襲作戦に従軍しました。
『森家先代実録』によれば、可成は騎馬隊による奇襲を強く進言したとも伝わります。
結果として今川義元は討ち取られ、織田家は一躍天下に名を轟かせることになりました。
姉川の戦い(1570年)
元亀元年(1570年)6月の姉川の戦いでは、可成は第五陣に配置されます。
浅井方の猛将・磯野員昌の突撃で織田軍の先陣が次々と蹴散らされる中、可成の隊は必死で防戦し、本陣への侵入を食い止めました。
前田利家との知られざる逸話
森可成には、後の「加賀百万石」前田利家との興味深いエピソードが残っています。
ある時、信長のもとを逐電していた利家が帰参を望み、可成のもとを訪ねてきました。
武功の立て方を教えてほしいと頼む利家に対し、可成は実戦で教えることにします。
美濃攻めの際、可成は利家を連れて斎藤軍の砦攻略に向かいました。
我先にと山を駆け上がる味方をあえてやり過ごし、二人は体力を温存しながら登ります。
そして疲れの出た味方を追い抜いて真っ先に砦に取り付くと、可成は利家に一番乗りを譲ったのです。
武功とはこう立てるものだ——そう実地で示したわけですね。
信長への報告でも利家の功績を称えた可成のおかげで、利家はほどなく帰参を許されました。
利家は終生、可成への恩を忘れず、「あれほどの戦巧者は稀であった」と語ったといいます。
最期の戦い——宇佐山城の戦い
織田軍の生命線を守る要衝へ
永禄8年(1565年)に美濃金山城主となった可成は、その後近江宇佐山城を任されます。
この城は琵琶湖西岸に位置し、京都と岐阜を結ぶ街道を押さえる織田家の最重要拠点でした。
元亀元年(1570年)8月、信長は摂津で三好三人衆や石山本願寺と対峙していました。
その隙を突いて、浅井長政・朝倉義景の連合軍3万が湖西から京都を目指して進軍してきます。
可成の手元にいたのは、わずか1千の兵。
それでも彼は宇佐山城を下り、坂本に陣を張って街道を封鎖しました。
絶望的な戦況での奮戦
9月16日の緒戦では、なんと可成軍は3万の連合軍を撃退してみせます。
『信長公記』にも記されているこの勝利は、まさに「攻めの三左」の面目躍如でした。
しかし、9月19日に事態は一変します。
石山本願寺の法主・顕如の要請を受けた比叡山延暦寺の僧兵が連合軍に加わり、敵の兵力はさらに膨れ上がったのです。
壮絶な討死
9月20日、いよいよ本格的な決戦となりました。
可成は先鋒の朝倉景鏡隊を押し返すなど健闘しますが、浅井方の二千が側面から攻撃を仕掛け、さらに次々と新手が投入されます。
記録にはこう残されています。
「浅井長政、朝倉義景の大軍、短兵急に戦うによって、森可成、織田九郎防戦火花を散らし、九天九地の下を通り、終日合戦なり」
終日にわたる激戦の末、可成は信長の弟・織田信治、近江の国人・青地茂綱とともに討死しました。
享年48。
しかし、可成らの奮戦によって連合軍は数日間足止めされ、京都への進軍を阻止されました。
宇佐山城も家臣の各務元正・肥田直勝らが守り抜き、落城を免れています。
死後の影響と比叡山焼き討ちとの因縁
信長の深い悲しみ
可成の討死を知った信長は、大いに悲しんだといわれています。
直ちに摂津から軍を撤退させ、浅井・朝倉連合軍との対決を優先。
可成の死は、信長が比叡山延暦寺を焼き討ちする原因の一つになったともいわれています。
聖衆来迎寺に眠る可成
可成の遺体は、近くにある聖衆来迎寺に葬られました。
この寺は比叡山延暦寺の系列で、本来なら浅井・朝倉側に味方すべき立場。
しかし、当時の住職・真雄は敵方の大将である可成の死を哀れみ、夜間密かに遺体を運び込んで葬ったのです。
翌年の比叡山焼き討ちの際、坂本の町は悉く焼き払われましたが、可成の眠る聖衆来迎寺だけは手出しされませんでした。
住職の行為に信長が感じ入ったためといわれています。
森家と比叡山の因縁
実は森家と比叡山には、それ以前からの因縁がありました。
先祖の源義隆が比叡山の僧兵の矢に倒れたという伝承があり、可成の死によってその因縁はさらに深まったのです。
森可成の子供たち
可成には6人の息子と3人の娘がいました。
その多くが織田信長に仕え、激動の時代を生きています。
| 名前 | 続柄 | 生涯 |
|---|---|---|
| 森可隆 | 長男 | 越前・手筒山城攻めで討死(享年19)、初陣で戦死 |
| 森長可 | 次男 | 「鬼武蔵」の異名を持つ猛将。小牧・長久手の戦いで討死(享年27) |
| 森蘭丸(成利) | 三男 | 信長の小姓として有名。本能寺の変で討死(享年18) |
| 森坊丸(長隆) | 四男 | 本能寺の変で討死(享年17) |
| 森力丸(長氏) | 五男 | 本能寺の変で討死(享年15) |
| 森忠政 | 六男 | 唯一生き残り、美作津山藩18万石の初代藩主となる |
長男の可隆は可成と同じ元亀元年(1570年)に初陣で戦死しており、父子揃って同じ年に命を落としています。
次男の長可は父の武勇を受け継ぎ、「鬼武蔵」と呼ばれる猛将に成長しましたが、小牧・長久手の戦いで討死。
三男から五男の三兄弟は、本能寺の変で信長とともに散りました。
六男の忠政だけが生き残り、江戸時代には大名として家名を存続させています。
参考情報
この記事の作成にあたり、以下の情報源を参照しました。
- 『信長公記』(太田牛一)
- 『森家先代実録』
- 『利家夜話』
- Wikipedia「森可成」「宇佐山城」「聖衆来迎寺」
- コトバンク「森可成」
- 戦国ヒストリー「森可成」
- 歴史街道(PHP研究所)
さらに詳しく知りたい方へ:
- 谷口克広『織田信長合戦全録 桶狭間から本能寺まで』(中央公論新社)
- 谷口克広『信長の天下布武への道』(吉川弘文館)
- 滋賀県大津市の聖衆来迎寺には現在も可成の墓が残っています
まとめ
森可成は、若き日の織田信長を支え続けた「攻めの三左」と呼ばれる歴戦の猛将でした。
- 土岐氏から織田家へ転仕し、信長の尾張統一から上洛まで、ほぼ全ての戦に従軍
- 十文字槍の名手として、清洲城攻め・稲生の戦い・桶狭間の戦いなど数々の武功を立てる
- 元亀元年(1570年)、宇佐山城の戦いで浅井・朝倉連合軍3万に対しわずか1千で立ち向かい討死
- その犠牲により京都への侵攻を阻止し、織田家存亡の危機を救った
- 息子たちも信長に仕え、森蘭丸など多くが戦死したが、六男・忠政が津山藩主として家名を存続
可成の死後も、森家の子供たちは信長に重用され続けました。
それは信長が可成の忠義を生涯忘れなかった証といえるでしょう。
聖衆来迎寺に眠る可成の墓は、今も静かに琵琶湖を見下ろしています。


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