結婚式で流れるあの華やかな「結婚行進曲」——作曲者の名前をご存じでしょうか。
フェリックス・メンデルスゾーン(Felix Mendelssohn)は、わずか38年の短い生涯で約750もの作品を残した、ドイツ・ロマン派を代表する作曲家です。
作曲家としてだけでなく、指揮者、ピアニスト、教育者として19世紀の音楽界に計り知れない影響を与えました。
この記事では、メンデルスゾーンの生涯、主要な功績、代表曲、そして死後の再評価までを詳しく解説します。
概要
メンデルスゾーンの正式名は、ヤーコプ・ルートヴィヒ・フェーリクス・メンデルスゾーン・バルトルディ(Jakob Ludwig Felix Mendelssohn Bartholdy)といいます。
1809年2月3日にドイツ・ハンブルクで生まれ、1847年11月4日にライプツィヒで亡くなりました。
哲学者の祖父と銀行家の父を持つ裕福なユダヤ系ドイツ人の家系に育ち、幼少期から「モーツァルト以来の神童」と称されるほどの音楽的才能を発揮しています。
作曲家としては『ヴァイオリン協奏曲 ホ短調』『夏の夜の夢』『フィンガルの洞窟』『無言歌集』など、現代でも広く愛される数々の名曲を生み出しました。
また、忘れ去られていたバッハの音楽を復興させた功績や、ライプツィヒ音楽院の創設など、ロマン派音楽の発展に多大な貢献を果たした人物でもあります。
メンデルスゾーンの生涯
恵まれた家庭環境と幼少期(1809〜1818年)
1809年2月3日、メンデルスゾーンはドイツ北西部の都市ハンブルクに生まれました。
父アブラハム・メンデルスゾーン(Abraham Mendelssohn)はドイツ屈指の銀行家であり、祖父モーゼス・メンデルスゾーン(Moses Mendelssohn)はカントにも影響を与えたとされる著名なユダヤ人哲学者です。
母レア・ザロモン(Lea Salomon)も教養豊かな女性で、フェリックスに最初の音楽の手ほどきをしたのは母でした。
フェリックスは4人きょうだいの2番目にあたります。
姉のファニー・メンデルスゾーン(Fanny Mendelssohn)は、弟に匹敵する音楽の才能を持つピアニスト・作曲家であり、女性作曲家の先駆者としても知られる存在でした。
妹のレベッカは数学者ペーター・グスタフ・ディリクレ(Peter Gustav Dirichlet)と結婚し、弟のパウルは銀行業で才覚を発揮しています。
1811年、ナポレオン軍のハンブルク進駐に伴い、一家はベルリンに移住しました。
ベルリンでの生活は、メンデルスゾーン一家にとって文化的に豊かなものとなっています。
自宅では頻繁にサロンが開かれ、当時の著名な学者や芸術家が集いました。
キリスト教への改宗と「バルトルディ」の姓
メンデルスゾーン家はもともとユダヤ教徒でしたが、ユダヤ人への差別が根強い当時のドイツ社会で生きていくため、1816年に子どもたちはプロテスタント(ルーテル派)の洗礼を受けています。
両親が改宗したのは1822年のことでした。
この際、ユダヤ系の姓「メンデルスゾーン」に加えて、キリスト教への改宗を示す「バルトルディ」(Bartholdy)を姓に付加しています。
しかし、フェリックス自身はこの二重姓にあまり必要性を感じておらず、単に「メンデルスゾーン」と名乗ることを好んだと伝えられています。
神童としての成長(1819〜1825年)
6歳で母からピアノの手ほどきを受けたメンデルスゾーンは、急速にその才能を開花させました。
1819年頃から、ベルリン・ジングアカデミー(Berlin Singakademie)の指揮者カール・フリードリヒ・ツェルター(Carl Friedrich Zelter)に作曲を師事しています。
ツェルターの指導を通じて、メンデルスゾーンはバッハの音楽的伝統に深く触れることになりました。
9歳で公開演奏会にデビューし、神童ピアニストとして注目を集めます。
10代前半には毎年、膨大な数の作品を書き上げており、11歳から14歳にかけて作曲した「弦楽のための交響曲」全13曲は、少年の習作とは思えない完成度を持っています。
1821年、12歳のメンデルスゾーンは、師ツェルターの紹介で文豪ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ(Johann Wolfgang von Goethe)を訪問しました。
ゲーテはこの少年の才能にたいへん感銘を受け、約2週間にわたって自宅に滞在させたと伝えられています。
この出会いをきっかけに、二人の交流はゲーテの死まで続きました。
天才の開花:弦楽八重奏曲と『夏の夜の夢』序曲(1825〜1826年)
メンデルスゾーンの天才ぶりを決定的に示したのが、16歳で作曲した『弦楽八重奏曲 変ホ長調 Op.20』(1825年)と、17歳で書いた『夏の夜の夢 序曲 Op.21』(1826年)です。
弦楽八重奏曲は、メンデルスゾーン最初の傑作として広く認められている作品で、ピティナ・ピアノ曲事典によれば、音楽史上の最高傑作に数え入れられるとされています。
翌年の『夏の夜の夢』序曲は、シェイクスピアの戯曲に基づく作品で、妖精の世界を鮮やかに描き出した楽曲です。
のちに作曲された劇付随音楽(Op.61)には、世界中の結婚式で演奏される「結婚行進曲」が含まれています。
一方で、1825年に作曲したオペラ『カマーチの結婚 Op.10』は、1827年の初演が不評に終わり、メンデルスゾーンにとって大きな挫折となりました。
以降、彼がオペラに本格的に取り組むことはなかったとされています。
バッハ復興と音楽史的偉業(1829年)
1829年3月、20歳のメンデルスゾーンは音楽史に残る偉業を成し遂げます。
ベルリン・ジングアカデミーにおいて、ヨハン・ゼバスティアン・バッハ(Johann Sebastian Bach)の『マタイ受難曲』を約100年ぶりに復活上演し、指揮を務めたのです。
バッハの死後、その作品は次第に忘れ去られつつありましたが、この公演によってバッハの宗教曲の真価が広く認識されることになりました。
メンデルスゾーンがバッハに興味を持つきっかけとなったのは、14歳の誕生日に祖母から贈られた『マタイ受難曲』の写譜だったと伝えられています。
恩師ツェルターの理解と協力も、この復活上演の実現に大きく寄与しました。
この功績により、メンデルスゾーンの名声は一気に高まります。
バッハ復興は音楽史における最も重要な出来事のひとつとして、現在も高く評価されています。
ヨーロッパ各地への旅行(1829〜1832年)
バッハ復興の成功後、メンデルスゾーンはヨーロッパ各地を旅しました。
1829年には初めてイギリスを訪れ、自作の交響曲第1番 Op.11の指揮やピアノ演奏で大きな反響を呼んでいます。
その後もメンデルスゾーンはイギリスを計10回訪問しており、イギリスは彼にとって特別な国となりました。
1829年夏のスコットランド旅行では、エディンバラのホリールード宮殿の廃墟を目にしたことが、のちの交響曲第3番「スコットランド」Op.56の着想につながっています。
また、ヘブリディーズ諸島のフィンガルの洞窟を訪れた印象から、演奏会用序曲『フィンガルの洞窟(ヘブリディーズ)』Op.26が生まれました。
1830年からはイタリアへも足を延ばし、陽光あふれる風景に触発されて交響曲第4番「イタリア」Op.90のスケッチに着手しています。
パリではショパン(Chopin)、リスト(Liszt)、ベルリオーズ(Berlioz)といった同時代の作曲家たちと交友を結びました。
ライプツィヒ・ゲヴァントハウスの指揮者として(1835〜1847年)
1835年、26歳のメンデルスゾーンはライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団(Gewandhausorchester Leipzig)の音楽監督に就任します。
彼の指揮のもと、楽団の演奏水準は飛躍的に向上しました。
メンデルスゾーンは、自作品だけでなく、バッハやベートーヴェン(Beethoven)の作品を積極的にプログラムに取り上げています。
それまで確立していなかった「指揮者」という職務を自立させた功績も大きく、近代的な指揮法の創始者のひとりとみなされています。
同時代の作曲家たちは、メンデルスゾーンに自作を演奏してもらうことを切望したとされ、友人のロベルト・シューマン(Robert Schumann)はメンデルスゾーンを「19世紀のモーツァルト」と評しました。
ライプツィヒ音楽院の創設(1843年)
1843年、メンデルスゾーンはザクセン王フリードリヒ・アウグスト2世(Friedrich August II)の支援を得て、ライプツィヒ音楽院(現在のフェリックス・メンデルスゾーン・バルトルディ音楽演劇大学ライプツィヒ)を創設しました。
教授陣には、シューマン、ヴァイオリニストのフェルディナンド・ダヴィッド(Ferdinand David)やヨーゼフ・ヨアヒム(Joseph Joachim)、ピアニストのイグナーツ・モシェレス(Ignaz Moscheles)など、当時の一流音楽家たちを迎え入れています。
メンデルスゾーン自身も作曲とピアノの指導にあたりました。
この音楽院は、ドイツにおける音楽教育の礎となった重要な機関です。
晩年と突然の死(1844〜1847年)
1844年にベルリンでの兼務から退いた後、メンデルスゾーンはフランクフルト近郊で約1年間の静養に入ります。
この時期に、代表作のひとつであるヴァイオリン協奏曲 ホ短調 Op.64が完成しました。
1845年からライプツィヒに復帰しますが、体力の限界を感じ、代理のニルス・ゲーゼ(Niels Gade)と指揮を分担するようになっています。
1846年8月にはオラトリオ『エリヤ』Op.70をバーミンガム音楽祭で初演し、大きな成功を収めました。
しかし、1847年5月14日、最愛の姉ファニーがベルリンの自宅で日曜音楽会のリハーサル中に突然倒れ、脳卒中で急逝します。
この報せを受けたメンデルスゾーンは激しい衝撃を受け、深い悲嘆に沈みました。
姉の死から半年にも満たない1847年11月4日、メンデルスゾーン自身もライプツィヒで度重なる発作の末に帰らぬ人となりました。
38歳という若さでした。
死因は脳卒中とされています。
臨終に立ち会ったモシェレスの記録によれば、妻のセシルがベッドの傍らに跪くなか、午後9時24分、最後の深い溜め息とともに息を引き取ったとされています。
祖父モーゼス、両親、そして姉ファニーもいずれも脳卒中で亡くなっていることから、何らかの遺伝的な要因があったのではないかとする説もあります。
メンデルスゾーンの代表曲
メンデルスゾーンは38年の生涯で約750もの作品を残しました。
米国議会図書館(Library of Congress)のメンデルスゾーン・コレクション解説によれば、独奏曲から合唱曲、室内楽、大規模な管弦楽曲やオラトリオ、さらにはオペラまで、ほぼすべてのジャンルにわたる作品を書いています。
以下に、特に重要な代表曲を紹介します。
弦楽八重奏曲 変ホ長調 Op.20(1825年)
16歳で書き上げたこの作品は、メンデルスゾーン最初の本格的な傑作として広く認められています。
弦楽器8本による華やかな響きと、精緻な対位法が織りなす音楽は、少年の作とは思えない成熟度を持っています。
『夏の夜の夢』序曲 Op.21(1826年)/劇付随音楽 Op.61(1842年)
17歳で作曲した序曲は、シェイクスピアの戯曲を見事に音楽で描き出した作品です。
16年後に作曲された劇付随音楽には、世界中の結婚式で定番となっている「結婚行進曲」が含まれています。
序曲と劇付随音楽が長い年月を隔てて作曲されたにもかかわらず、音楽的な統一感を保っている点も特筆すべきでしょう。
『フィンガルの洞窟(ヘブリディーズ)』序曲 Op.26(1830年/1832年改訂)
1829年のスコットランド旅行で訪れたフィンガルの洞窟の印象から生まれた演奏会用序曲です。
波の動きや洞窟の荘厳な雰囲気を音楽で描き出した「音の絵画」とも呼ぶべき作品で、チェロとコントラバスが深い海のうねりを、木管楽器が洞窟内の不思議な反響を表現しています。
交響曲第3番 イ短調「スコットランド」Op.56(1842年完成)
スコットランド旅行での霊感を元に着想されましたが、メンデルスゾーンは何度も改訂を重ね、完成までに13年を要しています。
全4楽章が途切れることなく連続して演奏される構成は、彼の他の交響曲にはない独自の特徴です。
交響曲第4番 イ長調「イタリア」Op.90(1833年)
イタリア旅行の印象から生まれた、メンデルスゾーンの交響曲の中で最も広く親しまれている作品です。
明るく温かい旋律に満ちた第1楽章から、イタリアの舞曲サルタレロ(Saltarello)に基づく躍動的な終楽章まで、南国の陽光と活気を感じさせます。
ヴァイオリン協奏曲 ホ短調 Op.64(1844年)
1838年から1844年にかけて作曲された、クラシック音楽史上最も有名なヴァイオリン協奏曲のひとつです。
冒頭からすぐにヴァイオリンの独奏が旋律を奏で始める革新的な構成や、3つの楽章が休みなく連続する形式など、当時としては画期的な手法が用いられました。
親友のヴァイオリニスト、フェルディナンド・ダヴィッドに献呈されています。
無言歌集(Lieder ohne Worte)
ピアノのための小品集で、メンデルスゾーンの最も有名なピアノ作品群です。
「歌詞のない歌」という意味のタイトルが示すとおり、歌曲のような美しい旋律をピアノ1台で奏でる、メンデルスゾーンが創始した新しいジャンルとされています。
生前に6集(Op.19b、Op.30、Op.38、Op.53、Op.62、Op.67)が出版され、死後にさらに2集(Op.85、Op.102)が刊行されました。
オラトリオ『エリヤ』Op.70(1846年)
バッハやヘンデル(Handel)の伝統に連なる大規模な宗教曲で、旧約聖書の預言者エリヤの物語を題材としています。
1846年にイギリスのバーミンガムで初演され、大きな成功を収めました。
19世紀を代表するオラトリオのひとつとして評価されています。
ピアノ三重奏曲第1番 ニ短調 Op.49(1839年)
冒頭からチェロが奏でる情熱的な旋律が印象的な室内楽の名曲です。
この作品を聴いたシューマンが「メンデルスゾーンは19世紀のモーツァルトだ」と評したとされています。
主要作品一覧
| 日本語名 | 原語名 | 作品番号 | 作曲年 | ジャンル |
|---|---|---|---|---|
| 弦楽八重奏曲 変ホ長調 | Octet for Strings in E-flat major | Op.20 | 1825年 | 室内楽 |
| 『夏の夜の夢』序曲 | A Midsummer Night’s Dream, Overture | Op.21 | 1826年 | 管弦楽 |
| 『フィンガルの洞窟』序曲 | The Hebrides (Fingal’s Cave) | Op.26 | 1830年 | 管弦楽 |
| 交響曲第3番「スコットランド」 | Symphony No.3 “Scottish” | Op.56 | 1842年 | 交響曲 |
| 交響曲第4番「イタリア」 | Symphony No.4 “Italian” | Op.90 | 1833年 | 交響曲 |
| 交響曲第5番「宗教改革」 | Symphony No.5 “Reformation” | Op.107 | 1830年 | 交響曲 |
| ヴァイオリン協奏曲 ホ短調 | Violin Concerto in E minor | Op.64 | 1844年 | 協奏曲 |
| ピアノ協奏曲第1番 ト短調 | Piano Concerto No.1 in G minor | Op.25 | 1831年 | 協奏曲 |
| ピアノ協奏曲第2番 ニ短調 | Piano Concerto No.2 in D minor | Op.40 | 1837年 | 協奏曲 |
| 無言歌集(全8集) | Lieder ohne Worte | Op.19b他 | 1829〜1845年 | ピアノ |
| 厳格な変奏曲 | Variations sérieuses | Op.54 | 1841年 | ピアノ |
| ロンド・カプリッチオーソ | Rondo capriccioso | Op.14 | 1830年 | ピアノ |
| ピアノ三重奏曲第1番 | Piano Trio No.1 in D minor | Op.49 | 1839年 | 室内楽 |
| 弦楽四重奏曲第6番 ヘ短調 | String Quartet No.6 in F minor | Op.80 | 1847年 | 室内楽 |
| 『夏の夜の夢』劇付随音楽 | A Midsummer Night’s Dream, Incidental Music | Op.61 | 1842年 | 劇音楽 |
| オラトリオ『エリヤ』 | Elijah | Op.70 | 1846年 | 声楽・合唱 |
| オラトリオ『聖パウロ』 | St. Paul | Op.36 | 1836年 | 声楽・合唱 |
| 歌曲『歌の翼に』 | Auf Flügeln des Gesanges | Op.34-2 | 1834年 | 歌曲 |
メンデルスゾーンの功績と音楽史における位置づけ
作曲家として
メンデルスゾーンの作風は、古典派の明晰な形式美とロマン派の豊かな感情表現を融合させたものとして特徴づけられます。
バッハやモーツァルト、ベートーヴェンの伝統を受け継ぎながらも、旅先で得た風景の印象を音楽に昇華させる独自の手法を確立しました。
特に、管弦楽による風景描写の手法は、彼の大きな功績のひとつです。
「スコットランド」交響曲や「イタリア」交響曲、『フィンガルの洞窟』序曲などは、旅の印象を音楽で表現した「音楽の風景画」として、ロマン派音楽の重要な一角を占めています。
指揮者として
メンデルスゾーンは、近代的な指揮法の確立に大きく貢献した人物です。
それまで明確に定義されていなかった「指揮者」という職務を独立した専門的役割として確立し、合理的な動作で楽員を的確に統率する指揮法を実践しました。
弟子たちにも指揮法を教え、指揮という芸術の基礎を築いたとされています。
バッハ復興者として
1829年の『マタイ受難曲』復活上演は、バッハの音楽が広く再認識されるきっかけとなった歴史的な出来事でした。
メンデルスゾーンはその後も自身のコンサートでバッハの作品を積極的に取り上げ、バッハの作品が「過去の音楽」ではなく「生きた芸術」として演奏され続ける基盤を築いています。
同様に、当時すでに軽視されつつあったベートーヴェンの作品も好んでプログラムに取り上げ、その価値を広く世に示しました。
音楽教育者として
1843年に創設したライプツィヒ音楽院は、ドイツの音楽教育制度の模範となり、多くの優れた音楽家を輩出しました。
現在もフェリックス・メンデルスゾーン・バルトルディ音楽演劇大学ライプツィヒとして存続しています。
死後の評価と再評価
ワーグナーによる批判と過小評価
メンデルスゾーンの死後わずか3年後の1850年、リヒャルト・ワーグナー(Richard Wagner)が匿名で発表した論文『音楽におけるユダヤ性』の中で、メンデルスゾーンの芸術性を否定的に論じました。
この論文は反ユダヤ主義的な傾向を色濃く反映しており、メンデルスゾーンの音楽への評価に長期的な悪影響を及ぼしたとされています。
ナチス時代の迫害
1933年にはナチス・ドイツがユダヤ人作曲家の音楽の公演を禁止する指令を発布しました。
1936年末には、ライプツィヒ・ゲヴァントハウス前に建てられていたメンデルスゾーンの記念像がナチスの命令で撤去されるという事件も起きています。
ライプツィヒ市長カール・ゲルデラー(Carl Goerdeler)は抗議し、翌年市長職を辞任しました。
現代における再評価
第二次世界大戦後、メンデルスゾーンの音楽は徐々に再評価されるようになりました。
今日では、ヴァイオリン協奏曲や交響曲、『夏の夜の夢』の音楽などが世界中で頻繁に演奏されています。
彼の音楽が持つ旋律の美しさ、形式の精緻さ、そして古典的な均整とロマン派的な情感の見事な融合は、時代を超えて人々を魅了し続けています。
メンデルスゾーン略年表
| 年 | 年齢 | 出来事 |
|---|---|---|
| 1809年 | 0歳 | ハンブルクに生まれる |
| 1811年 | 2歳 | 一家でベルリンに移住 |
| 1816年 | 7歳 | プロテスタントの洗礼を受ける |
| 1818年 | 9歳 | 公開演奏会にデビュー |
| 1819年 | 10歳 | ツェルターに作曲を師事 |
| 1821年 | 12歳 | 文豪ゲーテと出会う |
| 1825年 | 16歳 | 弦楽八重奏曲 Op.20を作曲 |
| 1826年 | 17歳 | 『夏の夜の夢』序曲 Op.21を作曲 |
| 1829年 | 20歳 | バッハ『マタイ受難曲』を復活上演。初のイギリス訪問 |
| 1830〜32年 | 21〜23歳 | ヨーロッパ大旅行(イタリア、フランス、イギリスなど) |
| 1835年 | 26歳 | ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団の音楽監督に就任 |
| 1837年 | 28歳 | セシル・ジャンルノー(Cécile Jeanrenaud)と結婚 |
| 1843年 | 34歳 | ライプツィヒ音楽院を創設 |
| 1844年 | 35歳 | ヴァイオリン協奏曲 ホ短調 Op.64を完成 |
| 1846年 | 37歳 | オラトリオ『エリヤ』をバーミンガムで初演 |
| 1847年 | 38歳 | 5月、姉ファニー死去。11月4日、ライプツィヒにて死去 |
まとめ
メンデルスゾーンは、わずか38年の生涯で驚くべき量と質の音楽を残した天才作曲家です。
主な功績を振り返ると、以下の通りです。
- 16〜17歳で弦楽八重奏曲や『夏の夜の夢』序曲といった傑作を生み出した早熟の天才
- バッハの『マタイ受難曲』を約100年ぶりに復活上演し、バッハの音楽を再び世に広めた
- ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団の音楽水準を飛躍的に向上させた名指揮者
- ライプツィヒ音楽院を創設し、ドイツの音楽教育制度の基盤を築いた教育者
- ヴァイオリン協奏曲、交響曲、無言歌集など約750の作品を残し、古典派とロマン派を橋渡しする独自の作風を確立した
ユダヤ系ドイツ人として理不尽な差別に直面しながらも、音楽に対する情熱と才能で19世紀の音楽界をリードしたメンデルスゾーン。
結婚式で流れる「結婚行進曲」を耳にするとき、この偉大な作曲家の生涯に少し思いを馳せてみてはいかがでしょうか。
参考情報
関連記事
この記事で参照した情報源
学術資料・公的機関
- Library of Congress “Felix Mendelssohn as Composer” – 米国議会図書館によるメンデルスゾーンの作品解説
- ピティナ・ピアノ曲事典「メンデルスゾーン」 – 生涯と作品の詳細な解説
- ONTOMO作曲家辞典「メンデルスゾーンの生涯と主要作品」 – 音楽之友社による専門的な解説
百科事典・総合情報
- Wikipedia「フェリックス・メンデルスゾーン」 – 生涯、作品、年表の概要
- Wikipedia「ファニー・メンデルスゾーン」 – 姉ファニーの生涯と業績
- Wikipedia “List of compositions by Felix Mendelssohn” – 作品の包括的な一覧


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