フランス革命の最も象徴的な人物の一人、マクシミリアン・ロベスピエール。
「清廉の人」として民衆から支持されながらも、恐怖政治の象徴として歴史に名を残した革命家です。
この記事では、ロベスピエールの生涯、思想、そしてフランス革命における役割について詳しく解説します。
概要
マクシミリアン・フランソワ・マリー・イジドール・ド・ロベスピエール(Maximilien François Marie Isidore de Robespierre)は、1758年から1794年まで生きたフランスの政治家・革命家です。
フランス革命の急進派ジャコバン派の指導者として活躍し、1793年から1794年にかけての恐怖政治期に公安委員会の中心メンバーとなりました。
民主主義と美徳を信じた理想主義者でありながら、約17,000人もの処刑を招いた恐怖政治の時代を生み出した人物として、歴史上最も議論を呼ぶ革命家の一人です。
生い立ちと青年時代
ロベスピエールは1758年5月6日、フランス北部のアラスで法律家の家庭に生まれました。
しかし、幸せな幼少期とは程遠い人生が待っていました。
母ジャクリーヌは5人目の子供を出産中に亡くなり、お腹の子も一緒に命を落としました。
ロベスピエールが6歳の頃のことです。
その後まもなく、父フランソワは子供たちを見捨てて姿を消してしまいます。
こうしてロベスピエールと3人の弟妹(シャルロット、アンリエット、オーギュスタン)は、母方の祖父や叔母に預けられることになりました。
この辛い体験は、ロベスピエールの人格形成に深い影響を与えたとされています。
優秀な学生時代
1769年、11歳のロベスピエールはパリのルイ・ル・グラン学院に給費生として入学しました。
この学校には約500人の奨学生が在籍しており、ラテン語、フランス語、古典学、哲学などを学ぶカリキュラムが組まれていました。
ロベスピエールは非常に優秀な学生で、教師陣からの評判も良好でした。
特に古代ローマの政治家キケロの思想に強く影響を受け、美徳と悪徳を対立させる二項対立的な思考方法を身につけていきます。
1775年、17歳の時には大役が回ってきます。
ルイ16世とマリー・アントワネットの戴冠式からの帰路で、賛辞を朗読する役に選ばれたのです。
しかし、この日は雨が降っており、国王夫妻は馬車の中に留まったまま、ロベスピエールが賛辞を述べると彼を雨の中に残して立ち去ってしまったとされています。
ただし、この出来事の信憑性については、一部の研究者から疑問が呈されています。
1781年、23歳で法律の学位を取得したロベスピエールは、故郷アラスに戻り弁護士として活動を始めます。
彼は貧しい人々のために無償で弁護を行う心優しい青年として知られ、「清廉潔白」な人物として地域社会で尊敬を集めました。
フランス革命への参加
1788年、フランス国王ルイ16世は財政危機を解決するために、全国三部会の召集を決定しました。
この時、ロベスピエールは『アラス州民に訴える』という著作を公刊し、改革の必要性を訴えます。
1789年、31歳のロベスピエールは三部会の第三身分(平民)代表として選挙に勝利し、議員に選出されました。
再びパリへと旅立つロベスピエール。
フランス革命が始まろうとしていました。
国民議会での活躍
三部会はまもなく国民議会へと改称され、ロベスピエールはジャコバン派に属して活動を開始します。
当初は立憲君主制を支持し、国王に対しても好意的でした。
ロベスピエールは演説能力を磨き、リベラルな政治家として頭角を現していきます。
彼が主張したのは以下のような進歩的な理念でした。
- 男子普通選挙権
- 意見と集会の自由
- 請願権と自衛のための武器所持権
- 奴隷制の廃止
- 死刑制度の廃止(初期)
1791年、ロベスピエールは現職議員の立候補を禁止する法案を提出し、成立させました。
これは国民議会での派閥抗争を次期立法議会に持ち越さないための措置でした。
皮肉なことに、この法案によってロベスピエール自身も立法議会には立候補できなくなります。
ジャーナリストとしての活動
立法議会の発足に伴い、ロベスピエールは一時政界を離れ、ジャーナリストに転身します。
『有権者への手紙』という新聞を発行し、国民世論の支持を確立しました。
1791年、ヴァレンヌ事件(国王一家の逃亡未遂事件)が発生します。
これを契機にジャコバン派から穏健派が脱退しますが、ロベスピエールは左派に留まり、反戦と革命の継続を唱え続けました。
ジャコバン派の指導者として
1792年、国民公会の選挙が実施され、ロベスピエールは選挙区をアラスからパリ市内に変更して立候補。
トップ当選を果たしました。
この頃のフランスは内外の危機に直面していました。
国外では第一次対仏大同盟(オーストリア、プロイセン、イギリスなど)によるフランス革命戦争が勃発。
国内ではヴァンデの反乱をはじめとする反革命勢力の蜂起が相次ぎました。
国王裁判と処刑
1792年12月、国王ルイ16世の裁判が始まります。
穏健派のジロンド派は追放刑を主張しましたが、ロベスピエールと山岳派(ジャコバン派の急進派)は死刑を求めました。
ロベスピエールは11回にわたって演説し、1792年12月3日の演説で躊躇する議員たちの心を動かします。
「ルイは死ななければならない、国が生きるために」という有名な言葉を残したとされています。
1793年1月、ルイ16世がギロチンで処刑されました。
続いて同年10月には王妃マリー・アントワネットも処刑されます。
実はロベスピエールの処刑リストには、裁判の前からすでに王妃の名が書かれていたと言われています。
公安委員会と恐怖政治
1793年7月27日、ロベスピエールは公安委員会のメンバーに選出されました。
公安委員会は、革命を守るために設立された緊急政府機関です。
ロベスピエールが公安委員会に参加した時点で、フランスは危機的状況にありました。
外国の侵攻、国内の反乱、経済危機、食糧不足。
革命そのものが存亡の危機に瀕していたのです。
恐怖政治の開始
1793年9月、公安委員会は「恐怖(テルール)を議事日程とする」と宣言し、恐怖政治が始まりました。
ロベスピエール自身、当初は「恐怖は専制支配者の武器であって、共和制においては軽蔑に値する」と考えていました。
しかし、迅速に混乱を収めるため、革命を守るため、彼はこの政策に同意します。
こうして始まった恐怖政治は、反革命とみなされた人物を大量に処刑するものでした。
約1年間で、約30万人が逮捕され、少なくとも1万人が獄死、約17,000人が公式に処刑されました。
その半数は裁判すら受けていません。
政敵の粛清
ロベスピエールは、革命の敵を徹底的に排除していきます。
それは外部の敵だけでなく、かつての同志にも向けられました。
1794年3月、急進派のエベールとその支持者たちが逮捕され、処刑されました。
エベールは無神論者で、教会を閉鎖して「理性の女神」崇拝を始めた人物です。
1794年4月、今度は穏健派のダントンとその支持者たちが処刑されました。
ダントンはロベスピエールの親しい友人であり、同じくジャコバン派の重要人物でした。
しかし、ダントンが恐怖政治の緩和を主張したため、ロベスピエールは彼を「右派と妥協的」として排除したのです。
ダントンの秘書だったカミーユ・デムーランも処刑されました。
デムーランはロベスピエールの学生時代の友人でもあり、その処刑はロベスピエールを心身ともに疲弊させたと言われています。
22プレリアル法
1794年6月10日、ロベスピエールの主導で悪名高い「22プレリアル法」が成立します。
この法律は以下を規定しました。
- 革命裁判所の拡大
- すべての有罪判決に死刑を適用
- 処罰対象の行為を拡大
- 証人の召喚を不要とする
- 被告の弁護を認めない
この法律の成立後、処刑数は急増しました。
1794年6月10日から7月27日までの49日間で、約1,376人がパリでギロチンにかけられました。
しかし、この法律はロベスピエール自身の命運も狂わせることになります。
公安委員会の同僚たちは、「次は自分が処刑されるのではないか」という恐怖を抱き始めたのです。
最高存在の祭典
ロベスピエールはルソーの思想に深く影響を受けており、理神論(キリスト教的な神とは異なる、理性に基づく神の概念)を信奉していました。
エベールの無神論的な「理性の女神」崇拝を否定したロベスピエールは、独自の宗教政策を打ち出します。
1794年6月8日、ロベスピエールは「最高存在の祭典」を主催しました。
これは、キリスト教の神とも異なる、理性と美徳に基づく「最高存在」への崇拝を推進するものでした。
この祭典で、ロベスピエールは華やかな式典の演出を行い、自ら中心的な役割を果たしました。
画家ジャック=ルイ・ダヴィッドが演出を担当しています。
しかし、この祭典は多くの人々に違和感を与えました。
ロベスピエールが個人崇拝を求めているのではないか、という疑念を生んだのです。
テルミドールのクーデターと最期
1794年7月までに、革命政府は軍事的には成功を収めていました。
フランス革命戦争で敗北が続いていた状況は好転し、連合軍は後退。
フランスは国境を回復していました。
しかし、国内では恐怖政治への不満が高まっていました。
封建的特権が無償で廃止され、農民は解放されましたが、土地を得た農民はかえって保守化し、革命のさらなる進行を望まなくなりました。
最高価格令などの経済統制は、都市の下層民には歓迎されたものの、自由な経営を望むブルジョワジーや生産者には不満の対象となりました。
最高賃金法で賃金も抑制されたため、都市の大衆も不満を抱いていました。
何よりも、大量粛清という恐怖政治そのものが、民衆を離反させていったのです。
クーデターの発生
1794年7月26日、ロベスピエールは国民公会で演説し、新たな陰謀があると主張しました。
しかし、具体的な名前は挙げませんでした。
これが致命的なミスとなります。
国民公会の議員たちは、「次に粛清されるのは自分ではないか」という恐怖に駆られました。
1794年7月27日(革命暦ではテルミドール9日)、国民公会はロベスピエールと支持者たちの逮捕を決定しました。
ロベスピエールは逆に告発者たちを批判し、有名な演説の一節を残します。
「あなた方は本能的に新しい大臣たちのすべての行為を擁護し、我々は原理を擁護した。あなた方は権力を好むように見え、我々は平等を好んだ」
しかし、この演説も議員たちの心を動かすことはできませんでした。
悲劇的な最期
逮捕を免れようと、ロベスピエールと支持者たちはパリ市庁舎(オテル・ド・ヴィル)に立てこもりました。
しかし、武装した国民公会軍が市庁舎を包囲。
混乱の中で、ロベスピエールの顎が銃で撃たれ、砕け散りました。
誰が撃ったのかは不明です(自殺未遂説もあります)。
顎を撃ち砕かれ、痛々しい姿となったロベスピエールは逮捕されました。
革命の画家ダヴィッドは、この時のロベスピエールの横顔をスケッチに残しています。
1794年7月28日、ロベスピエールと21人の支持者たちは、裁判なしでギロチンにかけられました。
処刑は革命広場(現在のコンコルド広場)で行われ、群衆は歓声を上げたと言われています。
皮肉なことに、ロベスピエール自身が作った「裁判なしの処刑」という制度によって、彼は命を落としたのです。
翌日以降、さらに82人のロベスピエール支持者が処刑されました。
恐怖政治は終わりを告げ、フランス革命はより穏健な方向へと向かっていきます。
ロベスピエールの人物像
清廉潔白な理想主義者
ロベスピエールの最大の特徴は、その清廉さでした。
「清廉の人(l’Incorruptible)」という呼び名は、彼の代名詞となっています。
ロベスピエールは権力の座にありながら、私腹を肥やすことは決してしませんでした。
その生活は質素そのもので、死後、下宿先のデュプレ家に借金が残っていたことが判明しています。
政治家として一躍名を馳せたにもかかわらず、当時の貴族たちが享受した贅沢とは程遠い生活を送っていたのです。
また、Courtoisの証言によれば、ロベスピエールのベッドの下からマリー・アントワネット王妃の遺書が見つかったとされています。
ただし、この証言の信憑性については、歴史家の間で議論があります。
革命が落ち着いた後、王妃の遺書はプロヴァンス伯(後のルイ18世)に届けられ、現在はフランス国立古文書館に収蔵されています。
家族への愛情
冷酷な独裁者というイメージとは裏腹に、ロベスピエールは家族や親しい人々には愛情を注ぎ、冗談も飛ばす人物だったと言われています。
弟のオーギュスタン・ロベスピエールは、兄と同じく政治家の道を歩み、トゥーロン攻囲戦でナポレオンを見出したことでも知られています。
テルミドールのクーデターの際、当初オーギュスタンを逮捕する予定はありませんでしたが、彼自身が兄と共に逮捕されることを望み、共に処刑されました。
妹のシャルロット・ロベスピエールは、家族を全員失った後もナポレオンからの援助を受けながら長生きし、回想録を執筆しています。
その中で彼女はこう記しています。
「マクシミリアンが、彼の同僚たちが彼の死後に告発したすべての革命的暴力に、本当に責任があるのかどうか、歴史がいつか明らかにしてくれるでしょう」
独裁者ではなかった?
「恐怖政治の独裁者」というイメージが定着しているロベスピエールですが、実際には以下のような事実があります。
まず、ロベスピエールは公安委員会のリーダーではありませんでした。
公安委員会は複数のメンバーによる集団統治を行っており、ロベスピエールはその中の一人に過ぎませんでした。
急進派や穏健派がいる中で、ロベスピエールはむしろ中間に位置していたとされています。
また、ロベスピエールは軍事作戦、軍事政策、財政には触れていません。
革命政府を主導していたとは言い難いのです。
ロベスピエールが実質的な個人独裁とも言える権力を握ったのは、1794年4月から7月までのわずか4ヶ月間でした。
この時期、彼を支えたのは腹心のサン=ジュストとクートンだけでした。
歴史的評価と遺産
ロベスピエールの評価は、現在でも大きく分かれています。
批判的な評価
- 恐怖政治の元凶として、何千人もの無実の人々を処刑した独裁者
- 理想主義が極端に走り、美徳の名のもとに暴力を正当化した危険人物
- 革命を裏切り、自由と平等の理念を踏みにじった偽善者
実際、パリにはロベスピエールの銅像はなく、その名を冠した通りもありません。
これは、同じ革命家でもダントンとは対照的です(ダントンにはオデオン駅近くに銅像があり、ダントン通りも存在します)。
肯定的・中立的な評価
近年の研究では、ロベスピエールに対するより公正な評価を求める動きもあります。
- 民主主義を信じ、男子普通選挙や奴隷制廃止など、時代を先取りした進歩的な理念を掲げた
- 恐怖政治は革命を守るためのやむを得ない措置であり、ロベスピエール個人の責任ではない
- 政敵による「悪魔化」されたイメージが歴史に定着しただけであり、実像は異なる
歴史家マルク・ブロックは、こう述べています。
「ロベスピエール派にも反ロベスピエール派にも勘弁願いたい。お願いだからごく単純に、ロベスピエールがどのような人だったかを言ってほしい」
現代への教訓
ロベスピエールの物語は、現代にも重要な教訓を残しています。
理想主義が極端に走ると、かえって理想から遠ざかってしまうこと。
美徳や正義の名のもとに暴力を正当化する危険性。
民主主義と独裁の境界線の曖昧さ。
国際政治学者ハンス・モーゲンソーは、こう述べています。
「ロベスピエールは、その動機から判断すれば、史上最も有徳な人物のひとりであった。しかし、彼が自分自身よりも徳において劣った人びとを殺し、みずから処刑され、彼の指導下にあった革命を滅ぼすに至ったのはほかでもない、まさにあの有徳のユートピア的急進主義のせいであった」
清廉で理想主義的であることは美徳ですが、それが極端に走ると悲劇を生む。
ロベスピエールの生涯は、そのことを私たちに教えてくれているのかもしれません。
まとめ
マクシミリアン・ロベスピエールは、フランス革命史上最も複雑で議論を呼ぶ人物の一人です。
- 幼少期の辛い体験が、真面目で理想主義的な性格を形成した
- 弁護士として貧しい人々のために尽くし、「清廉の人」として尊敬された
- フランス革命では民主主義、平等、奴隷制廃止などの進歩的理念を掲げた
- 公安委員会のメンバーとして、恐怖政治に関与し、約17,000人の処刑を招いた
- 政敵だけでなく、かつての友人さえも粛清していった
- テルミドールのクーデターで失脚し、自らもギロチンで処刑された
- 「恐怖政治の独裁者」というイメージが定着しているが、実際の権力や役割については議論がある
ロベスピエールの物語は、革命の理想と現実、美徳と暴力、民主主義と独裁という、人類が繰り返し直面してきた難問を体現しています。
その評価は今なお定まっておらず、これからも議論され続けるでしょう。
参考情報
関連記事
この記事で参照した情報源
主要な参考文献
- Wikipedia「マクシミリアン・ロベスピエール」日本語版・英語版 – 基本情報と年表
- Britannica「Maximilien Robespierre」 – 英語の百科事典記事
- 高山裕二『ロベスピエール:民主主義を信じた「独裁者」』新潮選書 – 学術的評伝
参考になる外部サイト
- 世界史の窓「ロベスピエール」 – フランス革命史の解説
- Alpha History「Maximilien Robespierre」 – フランス革命の専門サイト
- HISTORY「Robespierre overthrown in France」 – テルミドールのクーデターの解説

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